第20話:新しい風
「取締役会での決定は」春樹は厳しい表情で説明を続けた。「パリ展示会の規模縮小です」
アトリエの応接室。千秋は静かに資料に目を落としながら、その言葉の重みを受け止めていた。
「予算の見直しが必要になります」春樹が続ける。「それと、新しい技法の発表も」
そこで言葉が途切れる。窓から差し込む夏の陽射しが、三人の間に長い影を落としていた。蓮は黙って窓の外を見つめている。その横顔には、普段は見せない疲れが刻まれていた。
「でも」千秋は静かに、しかし芯の通った声で言った。「技術的には可能です」
二人の視線が、千秋に集まる。
「この部分を」彼女は新しいスケッチを取り出した。「伝統技法を応用すれば、コストを抑えながらも」
説明を続ける千秋の声には、確かな自信が込められていた。一週間、徹夜で研究を重ねた成果。蓮の過去の研究と、自身の技術を組み合わせることで見えてきた可能性。
「本当に?」春樹が目を見開く。
「はい」千秋は頷く。「篠原様の研究を基に、新しい手法を」
その時、蓮が初めて千秋の方を向いた。
「風間さん」その声には、感情が抑えられている。「そこまでして」
「当然です」千秋は真摯に答えた。「これは、私たちの夢なんですから」
「私たちの」という言葉が、応接室に響く。
それは単なる仕事以上の、何かを示唆していた。
春樹は、そんな二人の様子を見守りながら、複雑な表情を浮かべる。
「それに」千秋は続ける。「これは、お二人の祖母が目指していたものでもあるはず」
その言葉に、蓮の瞳が揺れる。
「風間さん」蓮がようやく口を開く。「なぜ、そこまで」
「それは」千秋は布地に手を置く。「この針が教えてくれたんです」
朝の光が、作業台の上の二本の針を照らす。一本は千秋の祖母から、もう一本は蓮の祖母から受け継いだもの。
「この二本の針には」千秋が続ける。「確かな想いが込められている。伝統を守りながら、新しい価値を創造する。その夢は、決して消えていない」
アトリエに、静寂が流れる。
その言葉の重みが、三人の心に沁みていく。
「分かりました」春樹が決意を込めて言う。「私からも、取締役会に」
「春樹」蓮が制しようとする。
「いいんだ」春樹の声には強さがあった。「これは君一人の夢じゃない。私たち三人の、新しい挑戦なんだから」
その言葉に、千秋は胸が熱くなるのを感じた。
「それに」春樹が微笑む。「風間さんがいてくれるなら」
その「いてくれる」という言葉に、特別な意味が込められているように感じた。
「では」蓮がようやく腰を上げる。「今日の打ち合わせは」
「篠原様」千秋が声をかける。「お体の方は」
一瞬の躊躇い。
しかし、その心配には確かな温もりが込められていた。
「ありがとう」蓮が柔らかく微笑む。「風間さんのおかげで」
春樹は、そんな二人のやり取りを見つめながら、静かに立ち上がった。その目には、友人への祝福と、何か切ない決意が浮かんでいる。
「私からは以上です」春樹が去り際に言う。「新しい技法の完成を、楽しみにしています」
その背中には、何かを諦めた覚悟と、新しい希望への期待が混ざっていた。
応接室に残された千秋と蓮の間に、朝の光が差し込む。
「風間さん」蓮が静かに言う。「本当に、ありがとう」
「いいえ」千秋は首を振る。「これは私にとっても、大切な挑戦です」
「挑戦」蓮がその言葉を反芻する。「そうですね。新しい価値を創造する」
「はい」千秋は二本の針を手に取る。「伝統を受け継ぎながら」
二人の視線が重なる。
そこには、まだ言葉にならない何かが、確かに存在していた。
アトリエの窓から、蝉の声が聞こえてくる。
夏の風が、カーテンを揺らす。
玲奈は、廊下から三人の様子を見守りながら、深いため息をついていた。
千秋は再び作業台に向かう。
一針一針に、新しい想いを込めながら。
それは単なる仕事への情熱を超えた、
誰かの夢を守るための決意。
そして、まだ名付けられない、特別な感情。
アトリエの中に、確かな希望が満ちていく。
それは新しい物語の始まりを、
静かに告げているかのよう。
(つづく)




