第2話:交差する視線
アトリエの応接室で、千秋は緊張を抑えながら時計を見つめていた。八時十五分。来客まであと十五分。床の間に活けられた初夏の花が、静かな時間を演出している。
応接室は、建築家の間でも評価の高い空間だった。百二十年の歴史を持つ町家の良さを最大限に活かしながら、現代的な機能性を備えている。漆喰の白壁に太い梁、床には網代編みの畳が敷かれ、その上に洋風のソファが配置されている。障子を通して差し込む光が、和紙の繊細な模様を浮かび上がらせる。和と洋の調和を意識した内装は、このアトリエの哲学を象徴するものでもあった。
千秋は最後にもう一度、プレゼンテーション用の資料を確認する。生地のサンプルは色調ごとに整理され、刺繍の見本は光の加減を計算して配置されていた。一つ一つの素材には、職人たちの魂が込められている。シルクは京都西陣の老舗から、レースはフランスの名門メーカーから、刺繍糸は祖母の代から付き合いのある専門店から。全てが最高級の素材だ。
「千秋」
振り返ると、玲奈が静かに微笑んでいた。
「緊張しすぎよ。あなたらしくない」
「そう?」千秋は少し困ったように髪を掻き上げる。「でも、篠原家よ?しかも、あの改革を...」
千秋の記憶の中で、経済誌の記事が蘇る。三年前、篠原グループの改革が話題を呼んだ時のことだ。伝統的な呉服商からIT企業への転換。それは単なる業態変更ではなく、日本の伝統産業全体の未来を示す試みだと評価された。その中心にいた篠原蓮の写真が、今でも鮮明に思い出せる。凛とした眼差し、威厳のある立ち姿。そして、どこか切なさを秘めた表情。
その時、アトリエの入り口でベルが鳴った。時計は八時二十分。予定より十分早い。
「いらっしゃいませ」
受付からの声が響く。続いて、凛とした足音が廊下を進んでくる。千秋は深く息を吐き、背筋を伸ばした。縁側を歩く足音が近づいてくる。その一歩一歩が、伝統と革新の狭間で揺れる重みを感じさせた。そして——。
「失礼します」
その声に、千秋は思わず息を呑んだ。
応接室のドアが開き、篠原蓮が姿を現した。写真で見た印象そのままに、きりりとした切れ長の目。しかし、画面越しには感じられなかった不思議な存在感がそこにはあった。スーツの一つ一つのラインが美しく、仕立ての良さは一目で分かる。黒のスーツに濃紺のネクタイ。その佇まいには、伝統と革新が不思議な調和を見せていた。
背後には秘書らしき人物も控えていたが、蓮は一人で応接室に入ってきた。その判断に、千秋は妙な安堵を覚えた。
「お待ちしておりました」千秋は自然な笑顔を浮かべる。「風間千秋と申します」
「篠原です」蓮の声は低く落ち着いていた。「本日は貴重なお時間を」
二人が向かい合って着席する。蓮の仕草の一つ一つには、古い商家で育った礼儀正しさが滲んでいた。お茶を受け取る手つき、座る際の所作、視線の配り方。しかし同時に、その眼差しには現代的な鋭さも宿っている。
「まず、妹のことでお話させていただきたく」蓮は早速本題に入った。その声には、どこか切実な響きがあった。
「はい、お聞かせください」
「妹のドレスです」蓮は言葉を選ぶように続ける。「実は、これが二度目の...」
そこで言葉が途切れる。蓮の表情が、一瞬だけ曇った。経営者としての仮面に、かすかな亀裂が入ったように見える。
「二度目の?」
「はい」蓮の声が低くなる。「さくらは、以前にも婚約をしていました」
庭の竹筒に溜まった水が、カランと音を立てる。その一瞬の沈黙に、千秋は相手の言葉の重みを感じていた。窓から差し込む陽射しが、二人の間に長い影を落とす。
「前回は式場もドレスも、全て先方の希望に合わせることになっていて」蓮の声が苦しそうだ。「さくらの本当の望みを、誰も聞かなかった。私も...気づくべきだった」
その言葉に込められた後悔と、兄としての想いに、千秋は胸が熱くなるのを感じた。表面的な厳しさの奥に、深い愛情を隠している人なのだと、彼女は直感的に理解した。
「そして今回、新しい相手との結婚が決まって」蓮の声が柔らかくなる。「今度こそ、彼女の望む形で、幸せになってほしい」
千秋は黙って頷いた。プロフェッショナルとしての誇りと、一人の女性としての共感が、胸の中で交差する。この仕事は、単なるドレス制作以上の意味を持っている。誰かの人生の転換点に、自分の技術で関われることの責任と喜び。
「妹様とお会いできる日程は?」
「今日、これから」
「え?」
千秋が声を上げた瞬間、障子戸が静かに開いた。
「お兄様、お待たせいたしました」
淡いピンクの着物姿の女性が、しとやかに入ってきた。二十四歳のさくらは、兄とは対照的な柔らかな雰囲気を持っていた。しかし、その立ち居振る舞いには確かな品格が感じられる。着物は伝統的な流水文様を現代的にアレンジしたもの。その選択に、彼女なりの美意識が垣間見えた。
「風間さんのドレス、ずっと憧れていました」さくらの声が弾む。「特に去年の春のコレクションで、桜の刺繍を施したドレスを拝見して以来...」
彼女は着物の袖を少し持ち上げ、その柄を指さした。
「この着物の文様も、風間さんのドレスに影響を受けて選びました。伝統的な文様を現代的に解釈するという発想に、本当に感動して...」
「さくら」蓮が窘めるような声を出す。「落ち着いて」
「あ、すみません」
さくらは頬を染めた。その仕草に、千秋は思わず微笑んでしまう。同時に、自分のデザインをここまで深く理解してくれる感性に、心を打たれた。
打ち合わせは、予想以上に充実したものとなった。さくらは、ドレスに対する明確なビジョンを持っていた。伝統を大切にしながらも、現代的な解釈を求める彼女の感性は、千秋の創作意欲を強く刺激する。
「実は、ずっと考えていたんです」
さくらは、自分のスマートフォンを取り出した。写真を開きながら、結婚式の会場について説明を始める。明治時代に建てられた洋館、そこに広がるバラ園、歴史的な建築と自然が織りなす空間。一枚一枚の写真に、彼女の理想が詰まっている。
蓮は黙って妹の話を聞いていたが、時折見せる穏やかな表情に、深い愛情が滲んでいた。しかし、その眼差しの奥には、何か切なさのようなものも感じられる。妹を幸せにしたい想いと、何かを恐れているような感情が、複雑に交錯しているようだった。
千秋は、そんな兄妹の会話を聞きながら、密かにスケッチブックを取り出していた。筆が紙の上を滑るように動く。妹への愛情、新しい幸せへの期待、そして何かに躊躇う心。全てを受け止め、一枚のドレスに紡ぎ込むように、千秋の手が動いていく。
「こんな感じはいかがでしょうか」
千秋がスケッチを差し出すと、さくらは息を呑んだ。
優雅なAラインのシルエット。背中から流れ落ちる繊細なレース。胸元には四季の草花が舞い落ちるような刺繍。古来の技法で織り込まれる細かな意匠と、現代的なラインの融合。それは、まるで時代という糸を紡ぎ直したような、一着のドレスだった。
「素敵...」さくらの目に涙が光る。「これ、私の想像以上です」
千秋は満足げに頷いた。しかし、ふと蓮の方を見ると、彼は眉間に深い皺を寄せていた。その表情には、明らかな警戒が浮かんでいる。
「このデザインは」蓮の声が低く響いた。「予算を大幅に超過します」
その一言で、部屋の空気が一変する。さくらの表情が曇り、千秋は言葉を失った。時計の針が、重たい音を立てる。
窓の外では、初夏の陽射しが眩しく輝いていた。その光は、これから始まる物語の序章を、静かに照らしているようだった。
(つづく)