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第19話:迷う糸

「パリ展示会まで、あと二ヶ月」


千秋は作業台で、新しい企画書に目を通していた。朝一番のアトリエは、まだ静けさに包まれている。窓から差し込む夏の陽射しが、白い布地を優しく照らしていた。


「昨夜も遅くまで」玲奈が心配そうに覗き込む。「随分と頑張ってるわね」


確かに。この一週間、千秋の生活は研究一色だった。蓮の学生時代のノートを紐解き、新しい技法の開発に没頭する。その過程で、思いがけない発見が重なる。


「これを見て」千秋が一枚のスケッチを広げる。「昨夜、気づいたことが」


そこには、蓮の研究と千秋の技法が見事に融合したデザインが描かれていた。伝統を守りながら、新しい価値を生み出す。まさに二人が目指すものの具現化。


「でも」玲奈が意味深に言う。「それだけじゃないでしょう?」


「え?」


「篠原様との共同研究」玲奈の声が優しくなる。「なんだか特別な輝きを持ってきたわ」


その言葉に、千秋は手を止めた。確かに、蓮との研究は特別だった。単なる上司と部下の関係を超えて、同じ志を持つ者同士の深い理解がある。


「おはようございます」


アトリエのドアが開き、春樹が入ってきた。


「蓮から連絡があって」春樹が少し心配そうな表情を見せる。「今日の打ち合わせ、キャンセルになりそうで」


千秋は思わず顔を上げた。


「取締役会が長引くみたいで」春樹が説明を続ける。「パリ展示会のことで、反対意見が」


「反対意見?」千秋の声には動揺が滲んでいた。


「ええ」春樹が窓際に立つ。「伝統と革新の融合に、慎重な意見が多くて」


アトリエに、重い空気が流れる。

朝の光が、春樹の物思わしげな横顔を照らしていた。


「蓮は」春樹が続ける。「一人で全てを背負おうとしている」


その言葉に、千秋は胸が締め付けられる思いがした。経営者としての責任、研究者としての情熱、その両方の間で揺れる蓮の姿が目に浮かぶ。


「私にも」千秋が立ち上がる。「できることが」


「風間さん」春樹が真摯な眼差しで振り返る。「あなたにしかできないことが、あるんです」


「え?」


「蓮の夢を」春樹の声が力強くなる。「形にできるのは、あなただけ」


その時、アトリエのドアが再び開く。


「失礼します」


秘書が一通の封筒を持ってきた。蓮からの伝言だという。


千秋は恐る恐る封筒を開ける。そこには、技法についての新たな提案と、取締役会への説明資料が入っていた。そして最後に、一行。


『この技法には、確かな未来がある』


その言葉に、千秋は胸が熱くなるのを感じた。


「相変わらずだね」春樹が懐かしそうに微笑む。「大事な時ほど、遠回しに」


「水城さん?」


「彼の本当の気持ちは」春樹が静かに言う。「いつも、仕事の中に隠れているんです」


アトリエの窓から、蝉の声が聞こえてくる。

夏の陽射しが、作業台の上の布地を照らしていく。


「私には」千秋が決意を込めて言う。「できることをする」


それは単なる返事以上の、強い意志の表明だった。


春樹は黙って頷いた。

その目には、深い理解と、何か切ない色が混ざっていた。


「では」春樹が去り際に言う。「蓮のこと、頼みます」


その背中には、友人を想う強さと、自分の想いを押し殺す覚悟が見えた。


玲奈は、そんな春樹の後ろ姿を見送りながら、複雑な表情を浮かべていた。


千秋は静かに作業台に向かう。

一針一針に、これまでにない想いを込めながら。


(これは、きっと)

そう心の中で呟く。

(誰かの夢を守るための、一歩)


アトリエの中に、朝の光が満ちていく。

それは新しい決意の色のように、

部屋全体を優しく包み込んでいた。


(つづく)

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