第18話:揺れる糸
「体調はいかがですか?」
千秋はアトリエの応接室で、蓮に向かって静かに尋ねた。三日ぶりの出勤。彼はいつもの完璧なスーツ姿で現れたが、その表情にはまだ疲れの色が残っている。
「ご心配をおかけして」蓮は普段通りの声を作ろうとしていた。「もう大丈夫です」
しかし、机の上に広げられた書類の山が、その言葉の虚しさを物語っている。パリ展示会の準備、新プロジェクトの立ち上げ、そして日常業務。全てを一人で抱え込もうとする様子が、痛々しい。
「研究ノートの件は」千秋は恐る恐る切り出した。「無理のない範囲で」
その言葉に、蓮の表情が僅かに和らぐ。
「いいえ」蓮は静かに首を振った。「むしろ、あの研究に触れることで」
言葉が途切れる。
けれど、その目には確かな光が宿っていた。
「風間さんの技法を見ていると」蓮が続ける。「学生時代に追いかけていた夢を、思い出すんです」
その告白に、千秋は胸が熱くなるのを感じた。
「私にも」千秋は布地に手を置く。「同じ夢を見させてください」
「風間さん...」
その時、アトリエのドアが開く。
「失礼します」
春樹が入ってきた。手にはパリ展示会の新しい企画書。
「おはよう」春樹が蓮に向かって言う。「やっぱり、無理して出てきたんだ」
その声には、親友ならではの優しさと叱責が混ざっていた。
「大丈夫だよ」蓮が答える。「それより、風間さんとの研究が」
「そう」春樹が意味深に微笑む。「随分と熱心だね」
その言葉に、蓮の表情が僅かに揺れる。
千秋は、その様子を静かに見つめていた。三人の間に流れる不思議な空気。それは単なる仕事の関係を超えた、何か特別な絆を感じさせた。
「実は」春樹が新しい資料を広げる。「パリの展示会場が決まりました」
その言葉に、千秋と蓮の視線が集まる。
「ここで」春樹が続ける。「私たちの新しい挑戦が、始まるんです」
「私たちの」という言葉が、応接室に響く。
それは単なるプロジェクトを超えた、何かを示唆していた。
「それと」春樹が蓮の方を向く。「君の研究ノートのコピーを、図書館で見つけた」
蓮の表情が、一瞬凍りつく。
「関連資料として」春樹が静かに続ける。「パリの展示会でも、紹介させてほしい」
「それは」蓮の声が震える。「未完成の」
「違います」
千秋の声が、応接室に響いた。
「その研究があったからこそ」千秋は真摯に言う。「今の私たちがここにいる」
蓮は言葉を失ったように、千秋を見つめる。
「風間さん」蓮がようやく口を開く。「本当に、私のような」
「はい」千秋は迷いなく答えた。「篠原様の夢を、私も追いかけたい」
その言葉に、春樹は複雑な表情を浮かべた。その目には、友人への祝福と、何か切ない感情が混ざっているように見えた。
「では」春樹が立ち上がる。「細かい打ち合わせは、また」
去り際、彼は千秋に小さく頷きかけた。その仕草には、深い理解と信頼が込められていた。
応接室に残された二人の間に、夏の陽射しが差し込む。
「風間さん」蓮が静かに言う。「なぜ、そこまで」
「それは」千秋は布地に目を落とす。「私にとって、この仕事が特別だから」
「特別?」
「はい」千秋は二本の針を手に取る。「お二人の祖母の想い、篠原様の研究、そして」
言葉が途切れる。
その先にある想いは、まだ形にできない。
蓮の表情が、僅かに柔らかくなる。
「私も」蓮が窓の外を見つめる。「この技法との出会いが、特別なんです」
アトリエの外では、蝉の声が響いていた。
その音が、二人の心音のように聞こえる。
「これから」蓮が千秋を見つめる。「一緒に、夢を追いかけましょう」
その言葉には、単なる依頼人としての発言を超えた、特別な響きがあった。
玲奈は、廊下から三人の様子を見守りながら、深いため息をついていた。
千秋は静かに針を持ち、布地に向かう。
一針一針に、これまでにない想いを込めながら。
それは仕事への情熱であり、
誰かへの祈りでもあった。
そして確実に、
新しい物語が、
紡がれ始めていた。
(つづく)




