第17話:遠い針音
「この部分の刺繍」千秋は朝一番のアトリエで、布地を見つめていた。「もう少し」
昨日からの共同研究が、新たな局面を迎えていた。蓮の研究ノートを参考に、伝統技法の解釈を進める。その過程で、思いがけない発見が重なる。
「ずいぶん早いのね」玲奈が覗き込む。「昨日の打ち合わせが気になって?」
千秋は黙って頷いた。確かに、昨日の蓮との会話は特別だった。研究者としての彼の一面に触れ、同じ志を持つ者として、深い共感を覚えた。
「私の祖母が」蓮の声が蘇る。「この部分にこだわっていて」
その時の彼の表情は、いつもの経営者の仮面を脱ぎ捨てた、純粋な職人のものだった。
「千秋」玲奈の声が、彼女を現実に引き戻す。「なんだか、様子が違うわ」
「え?」
「いつもの完璧主義の千秋なら」玲奈が意味深に言う。「こんなに早い段階で人の意見は取り入れないでしょ」
その言葉に、千秋は手を止めた。確かに、普段の彼女なら、もっと自分の意見を押し通すはず。それなのに、なぜ蓮の提案には——。
「おはようございます」
アトリエのドアが開き、春樹が颯爽と入ってきた。
「今朝は」春樹が企画書を取り出しながら。「パリ展示会の具体的な」
その時、彼の携帯が鳴った。
「蓮から?」春樹が画面を見て、表情を曇らせる。「体調が悪いって」
千秋は思わず顔を上げた。
「昨日も遅くまで」春樹が心配そうに言う。「研究のことを考えていたみたいで」
「私のせいですね」千秋は俯く。「無理なお願いを」
「違います」春樹が静かに言う。「むしろ、久しぶりに生き生きとした蓮を見た気がして」
その言葉には、親友としての深い理解が込められていた。
「ただ」春樹が続ける。「彼には、まだ乗り越えられない壁があって」
アトリエに、重い空気が流れる。
「壁、ですか?」
「ええ」春樹が窓の外を見つめる。「研究者としての挫折と、経営者としての責任。その間で」
その時、千秋の携帯が震えた。
蓮からのメッセージ。
『申し訳ありません。今日の打ち合わせは』
返信を打とうとする指が、わずかに震える。
「風間さん」春樹が静かに言う。「少し、時間をいただけますか」
千秋は黙って頷いた。携帯を置き、春樹の話に耳を傾ける。
「蓮は」春樹が慎重に言葉を選ぶ。「誰かと心を通わせることを、怖がっているんです」
「怖がる?」
「ええ」春樹の目が遠くを見つめる。「仕事以外のことで、誰かを想うことを」
アトリエに、蝉の声が響く。
その音が、二人の間の沈黙を埋めていく。
「でも」春樹が続ける。「最近の彼は、変わり始めている」
千秋は息を呑む。
「風間さんの仕事に触れて」春樹が真摯に言う。「特に、この技法の研究を始めてから」
その言葉に、千秋は胸が熱くなるのを感じた。
「私は」千秋が言葉を探す。「ただ、布地と向き合っているだけ」
「そう」春樹が優しく微笑む。「だからこそ、彼の心に届くんです」
窓から差し込む陽射しが、作業台の上の布地を照らす。
「水城さん」千秋がようやく口を開く。「なぜ、こんなことを」
「私にも」春樹の声が柔らかくなる。「大切な友人の幸せを願う権利くらいは、あるでしょう」
その言葉の裏に隠された想いを、千秋は感じ取っていた。
「それに」春樹が立ち上がる。「このプロジェクトは、三人の夢なんです」
千秋は黙って頷いた。
確かに、それぞれの想いが詰まった挑戦。
「では」春樹が去り際に言う。「蓮のこと、よろしくお願いします」
その背中には、友人を想う強さと、何かを諦めた切なさが同居しているように見えた。
玲奈は、そんな春樹の後ろ姿を見送りながら、複雑な表情を浮かべていた。
「千秋」玲奈が優しく声をかける。「どうする?」
千秋は静かに携帯を手に取った。
蓮からのメッセージに、返信を打つ。
『お大事に。研究の続きは、体調が戻ってから』
送信ボタンを押す指に、確かな決意が宿っていた。
(これは、きっと)
千秋は心の中で呟く。
(私たちの物語の、始まり)
アトリエの窓から、夏の風が入ってくる。
カーテンが揺れる音が、誰かの心音のように響く。
作業台の上で、二本の針が静かに光を放つ。
それは、まだ見ぬ未来への道標のよう。
千秋は再び布地に向かう。
一針一針に、新しい想いを込めながら。
それは仕事への情熱であり、
誰かへの祈りでもあった。
(つづく)




