第16話:明日への針
「この企画書」千秋は資料に目を落とす。「まだ何か足りない気がして」
夏の陽射しが差し込むアトリエで、彼女は深い物思いに沈んでいた。春樹から提案された若手育成プロジェクトと、パリ展示会の企画書。その二つを両立させる方法を、一晩中考え続けていた。
「また徹夜?」玲奈が心配そうに覗き込む。「最近、無理してない?」
「大丈夫」千秋は微笑む。「やっと、見えてきたものがあるの」
作業台の上には、新しい技法の試作品が広がっていた。蓮の研究をベースに、現代的なアレンジを加えた独自の手法。それは単なる伝統の継承ではなく、新しい価値の創造を目指すものだった。
「これを見て」千秋が一枚のスケッチを取り出す。「昨夜、閃いたアイデア」
伝統的な刺繍技法を基礎としながら、現代のテクノロジーとの融合を図る。その大胆な発想に、玲奈は目を見開いた。
「すごいわ」玲奈が感嘆の声を上げる。「でも、これって」
その時、アトリエのドアが開く。
「失礼します」
春樹が、いつもの穏やかな笑顔で入ってきた。手には新しい資料を抱えている。
「おはようございます」春樹が千秋に向かって言う。「蓮から聞いて、来てみました」
「篠原様から?」
「ええ」春樹が頷く。「夜中にメールがあって。風間さんの新しいアイデアを、すぐに見たいって」
千秋は思わず胸が高鳴るのを感じた。昨夜メールで送った企画書への反応。それは単なる依頼人としての評価以上の、何かを感じさせる反応だった。
「実は」春樹が続ける。「蓮も、似たようなことを考えていたんです。学生時代の研究で」
千秋は息を呑んだ。
その偶然の一致に、運命的なものを感じる。
「ただ」春樹の声が少し沈む。「当時は、周囲の理解が得られなくて」
その言葉に込められた過去の痛みを、千秋は静かに受け止めた。
「でも、今なら」千秋は決意を込めて言う。「きっと実現できるはず」
その時、アトリエのドアが再び開く。
「おはようございます」
蓮が入ってきた。普段の凛とした姿。しかし、その目には何か特別な輝きが宿っていた。
「風間さんの企画書」蓮が一歩近づく。「素晴らしい発想です」
その言葉に、千秋は顔を上げた。蓮の表情には、経営者としての評価を超えた、純粋な感動が浮かんでいる。
「これなら」蓮が続ける。「パリでも、必ず」
「蓮」春樹が微笑む。「久しぶりだね、その表情」
「春樹」蓮が少し照れたように言う。「昔のことを」
「いいじゃないか」春樹の声が温かい。「これは、君の夢の続きなんだから」
アトリエに、不思議な空気が流れる。
三人の間で、何かが確実に動き始めていた。
「風間さん」蓮が真摯な眼差しで言う。「一つ、提案があります」
「はい」
「パリの展示会まで」蓮の声に力が込められる。「私も、この技法の研究に参加させてください」
千秋は思わず目を見開いた。
それは予想もしなかった展開。
「でも」千秋が戸惑いを見せる。「お忙しいのに」
「時間は作ります」蓮がきっぱりと言う。「これは、それだけの価値がある」
春樹は、そんな二人のやり取りを見守りながら、複雑な表情を浮かべていた。その目には、友人への祝福と、何か切ない感情が混ざっているように見えた。
「私からも」春樹が静かに言う。「できる限りのサポートを」
三人の視線が重なる。
それぞれの想いを胸に、新しい挑戦が始まろうとしていた。
「では」千秋は作業台の布地に手を置く。「まず、この部分から」
技法の説明が始まる。
蓮は真剣な表情で耳を傾け、時折鋭い指摘を投げかける。
その姿は、かつての研究者の顔を思い起こさせた。
「ここの構造が」蓮が布地の一部を指さす。「光の当て方で」
「はい」千秋も熱心に説明を返す。「伝統技法を基に」
二人の会話が、自然と専門的な内容に移っていく。
それは単なる依頼人と技術者の関係を超えた、職人同士の対話。
玲奈は、そんな様子を見守りながら、春樹に近づいた。
「大丈夫?」玲奈が小声で尋ねる。
春樹は穏やかに微笑んだ。
「ええ」彼は静かに答えた。「これが、一番いい形だから」
アトリエの窓から、夏の風が入ってくる。
カーテンが揺れる音が、新しい物語の始まりを告げるよう。
千秋の手元で、針が布地を進んでいく。
一針一針に、これまでにない想いを込めながら。
それは、誰もが予想もしない物語の始まり。
伝統と革新、過去と未来、そして——。
(つづく)




