第15話:約束の光
「この予算内で」春樹は企画書を指さしながら説明を続けていた。「パリ展示会とプロジェクトの両立を」
アトリエの応接室は、初夏の陽射しに包まれている。千秋は真剣な面持ちで資料に目を通していた。両方の企画を成功させるには、相当な工夫が必要になる。
「蓮の研究を基にすれば」春樹が続ける。「コストを抑えながらも」
その「蓮の研究」という言葉に、千秋は思わず顔を上げた。
「ごめんなさい」春樹が申し訳なさそうに微笑む。「親しい呼び方で」
「いいえ」千秋は首を振る。「むしろ、篠原様の研究のことを、もっとお聞きしたくて」
春樹の表情が、柔らかくなる。
「研究室では」春樹が懐かしそうに語り始める。「いつも最後まで残って、布地と向き合っていました」
アトリエに流れる静かな空気。その中で、まだ千秋の知らない蓮の姿が、少しずつ浮かび上がってくる。
「伝統技法の可能性を信じて」春樹が続ける。「時には教授に反論されても、諦めない。そんな頑固な学生でした」
千秋は黙って頷く。その姿は、今の経営者としての蓮からは想像もつかない。しかし、確かにその情熱は、彼女の目指すものと重なっている。
「でも」春樹の声が沈む。「家を継ぐことになって」
その時、アトリエのドアが開く。
「春樹」
蓮が立っていた。彼の表情には、どこか言いよどむような色が浮かんでいる。
「蓮」春樹が立ち上がる。「ちょうど、プロジェクトの」
「過去の話は」蓮が遮る。「必要ない」
重い空気が流れる。
しかし春樹は、穏やかな表情を崩さない。
「必要だ」春樹がゆっくりと言う。「このプロジェクトには、君の想いが」
「それは」
「風間さんにも」春樹が続ける。「知っておいてほしかった。君が本当に目指していたものを」
蓮の表情が、複雑に揺れる。
千秋は、その様子を静かに見つめていた。二人の間には、長年の信頼関係が感じられる。そして同時に、何か深い物語が隠されているようにも見えた。
「篠原様」千秋がようやく声を上げる。「私からも、お願いがあります」
「風間さん?」
「この技法の完成のために」千秋は真摯な眼差しで言う。「篠原様の研究を、もっと教えてください」
その言葉に、蓮の目が開かれる。
「それは」蓮が言葉を探す。「未熟な研究で」
「違います」千秋は強く言った。「その研究があったからこそ、今の私たちがある」
アトリエに、静寂が流れる。
その「私たち」という言葉の重みが、三人の間に漂う。
春樹は、そんな二人の様子を見守りながら、静かに微笑んでいた。
「では」春樹が立ち上がる。「細かい打ち合わせは、また」
去り際、彼は千秋に小さく頷きかけた。その目には、何か特別な想いが込められているように見えた。
応接室に残された千秋と蓮の間に、夏の陽射しが差し込む。
「風間さん」蓮がようやく口を開く。「本当に、私の研究なんて」
「はい」千秋は迷いなく答えた。「それが、今の私の道標なんです」
その言葉に、蓮の表情が和らぐ。
「分かりました」蓮が小さく頷く。「昔の資料を、探してみましょう」
アトリエの窓から、蝉の声が聞こえてくる。
初夏の風が、カーテンを揺らす。
玲奈は、廊下から三人の様子を見守りながら、複雑な表情を浮かべていた。
新しいプロジェクト。
パリでの展示会。
そして、まだ見ぬ可能性。
全てが、これから始まろうとしている。
それは、誰もが予想もしない物語の始まり。
千秋は作業台に向かい、静かに針を持つ。
一針一針に、新しい想いを込めながら。
アトリエの中に、確かな希望が満ちていく。
それは、まだ形にならない夢の予感。
けれど、確かに存在する何か。
(つづく)




