第12話:仕事の向こう側
「随分と早いのね」
玲奈が千秋を見つめていた。アトリエに夏の陽射しが差し込み始めたばかりの時間帯。彼女は昨日から仕上げている新しい技法の試作に、すでに向かっていた。
「色んなアイデアが浮かんで」千秋は手を止めずに答える。「昨日の打ち合わせで、篠原様から」
「あぁ」玲奈が意味深に言う。「昨日は病室での打ち合わせだったわよね」
千秋の手が一瞬止まる。過労で倒れた蓮との打ち合わせ。体調を気遣いながらも、仕事への情熱は衰えていない彼の姿が、まだ鮮明に残っている。
「玲奈」千秋は話題を変えるように言った。「新しい試作を見てもらえる?」
作業台の上には、昨夜から取り組んでいた布地が広がっていた。伝統的な刺繍技法を基礎としながら、現代的なアレンジを加えた新しい試み。蓮との打ち合わせで生まれたアイデアを、一晩中かけて形にしようとしていた。
「これは」玲奈が目を見開く。「相良刺繍の応用?でも、こんな使い方は見たことない」
「ええ」千秋は布地に触れながら説明する。「篠原様のお祖母様が使っていた技法から着想を得て」
その言葉に、玲奈は意味ありげな表情を浮かべた。
「へぇ」玲奈が作業台に寄りかかる。「随分と熱心に研究してるのね」
「仕事だから」千秋は視線を布地に落とす。「完璧なものを」
「本当に?」玲奈の声が柔らかくなる。「それだけ?」
その問いに、千秧は答えられなかった。確かに、この技法への没頭は、単なる仕事以上の何かがある。蓮の祖母の技法を理解したい。彼の目に映る世界を見てみたい。そんな想いが、知らず知らずのうちに込められていた。
その時、アトリエのドアが開く音がした。
「おはようございます」
さくらが、いつもの着物姿で現れる。その表情には、昨日までの心配は影を潜め、どこか安堵の色が浮かんでいた。
「兄様の様子を」さくらが千秋に近づく。「お伝えしに来ました」
千秋は思わず作業の手を止めた。
「少し熱は下がったそうです」さくらが続ける。「でも、まだ仕事のことばかり考えていて」
その言葉に、千秋は微かな安堵を覚えながらも、どこか心配が残る。
「それと」さくらがバッグから一枚の紙を取り出す。「これを、兄様が」
そこには、新しい技法についてのメモが記されていた。病室で考えていたらしい改良案。その文字には、普段の凛々しさは影を潜め、どこか素直な情熱が滲んでいる。
「昨日の打ち合わせの後」さくらが微笑む。「久しぶりに、研究者だった頃の兄様を見た気がして」
千秋は息を呑んだ。研究者としての蓮。それは彼女の知らない一面だった。
「実は」さくらが声を落として言う。「兄様、大学時代は服飾の研究をしていたんです」
チクタクと時計が音を刻む。その一言が、アトリエの空気を変えた。
「伝統技法の現代的解釈について」さくらが続ける。「夜遅くまで研究室に籠って」
その言葉に、千秋は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。今の厳格な経営者の姿からは想像もつかない、純粋な研究への情熱。
「でも」さくらの声が少し沈む。「家を継ぐことになって」
そこで言葉が途切れる。その先にある物語を、千秋は察していた。
「だから」さくらが千秋の手を取る。「風間さんの仕事を見る時の兄様は、特別なんです」
その言葉に、千秋は返答に窮した。それは単なる仕事上の評価以上の、何かを示唆する言葉。
「私」千秋は作業台の布地に目を落とす。「ただ、精一杯の仕事を」
「それが」さくらが優しく微笑む。「兄様の心に触れるんです」
アトリエに、蝉の声が響き始める。
朝の光が、作業台の上で優しい影を作る。
「さくらさん」千秋がようやく言葉を絞り出す。「私にできることは」
「分かっています」さくらが頷く。「でも、それ以上のことを、私は期待してしまうんです」
玲奈は、そんな二人のやり取りを見守りながら、意味深な表情を浮かべていた。
その時、アトリエのドアが再び開く。
「お早うございます」
秘書が一通の封筒を持ってきた。蓮からの指示書だという。
千秋は恐る恐る封筒を開ける。そこには、技法についての詳細な指摘と、新たな提案が記されていた。そして最後に、一文。
『風間さんの針には、伝統を未来へと紡ぐ力がある』
その言葉に、千秋は胸が熱くなるのを感じた。
それは単なる上司からの評価ではない。
同じ志を持つ者からの、深い理解と期待。
「やっぱり」玲奈がつぶやく。「ただの仕事じゃないのよ」
千秋は黙って作業台に向かった。
今は、この針に全てを込めるしかない。
仕事への誇りと、まだ言葉にならない想いを。
アトリエの窓から、初夏の風が入ってくる。
カーテンが揺れる音が、誰かの心音のように響く。
それは、まだ恋とは呼べない。
けれど、確かに芽生え始めた、特別な感情。
(つづく)




