第10話:花火の下で
「このシルクの風合いが」千秋は夜のアトリエで、白い布地に手を触れていた。「もう少し...」
深夜零時を過ぎても、彼女の手は止まらない。昼間の打ち合わせで蓮から指摘された箇所を何度も見直し、改良を重ねる。完璧な仕事を目指す彼女らしい姿勢だった。
窓の外では祭りの余韻が残っていた。遠くから聞こえる囃子の音が、静かな作業場に不思議な調べを奏でている。
「風間さん、まだ残っていましたか」
聞き慣れた声に、千秋は顔を上げた。蓮が、いつもより少し疲れた様子で立っていた。
「篠原様...こんな遅くに」
「書類を取りに来たんです」蓮が説明する。「でも、灯りが見えたので」
アトリエの灯りは、この界隈では唯一残された明かりだった。それは、まるで二人をこの時間に導くように。
「昼間の件で」千秋は布地を示す。「気になる箇所がありまして」
蓮は黙って布地に近づき、そっと手を伸ばした。その仕草には、普段の鋭さは影を潜め、どこか懐かしむような優しさがあった。
「祖母も」蓮が静かに言う。「よく夜遅くまで布地と向き合っていました」
千秋は息を呑んだ。蓮が自ら過去を語るのは珍しい。
「布地は」蓮が続ける。「光によって表情を変える。夜の静けさの中でこそ、見える何かがある」
その言葉に、千秋は思わず頷いていた。彼女も同じことを感じていたのだ。
「風間さんの仕事を見ていると」蓮の声が柔らかくなる。「祖母のことを思い出すんです」
窓の外で花火が上がった。その光が、二人の間に落ちる影をくっきりと照らす。
「それは」千秋が恐る恐る言う。「お褒めの言葉でしょうか」
蓮はわずかに微笑んだ。それは普段の厳しい表情からは想像もつかない、柔らかな笑顔。
「ええ」蓮が静かに答える。「誇りを持って、伝統と向き合う姿勢が」
その時、再び花火が上がった。
閃光が、作業台の上の布地を神々しく照らす。
「私も」千秋は布地に目を落とした。「篠原様の仕事への想いに、いつも刺激を受けています」
それは、まだ恋愛感情とは呼べない。
けれど、確かな敬意と理解。
そして、ほのかな心の揺らぎ。
「これからも」蓮が言った。「一緒に、新しい価値を」
「はい」
その短い会話の中に、二人の仕事への誇りと、まだ形にならない何かが、静かに息づいていた。
窓の外では、祭りの余韻が消えていく。
けれど、アトリエの中には、確かな何かが生まれ始めていた。
(つづく)




