闇の中
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彼はただ一人、そこに封じ込められていた。
その空間に在るのは、ただ彼と無限の闇だけであった。そこには、一筋の光も射すことがなかった。
彼は、自由に動きまわることができたが、彼の身体に触れるものは砂一粒すらなく、風のわずかなそよぎすらもどこにも存在しなかった。
そこには、漆黒の闇の色以外の色彩も、かすかな音響も存在しなかった。目は見えていても何も見えず、耳は聞こえていても何も聞こえなかった。
寒さもなく暑さもなく、彼は飢えることも渇くこともなかった。
時間の流れさえもそこには存在しなかった。彼は老いることも死ぬこともなかった。
ただそこに在るのは、彼と永劫の闇のみであった。
それは、彼に課せられた罰であった。
彼がこの空間を出ることは永久に不可能である。そして、自ら命を絶つこともできない。
ただそこに永遠に在り続けるだけ。
彼は多くを知っていた。秘められた多くのことを知りすぎてしまっていた。
彼はそこから、元いた人間の生きる世界を見るすべも知っていた。そして見た。すべてが自分を取り残して過ぎ去っていくのを。
人間の世界で幾星霜が流れても、彼は変わらずそこに在り続ける。
死ぬことも生きることもできず、朽ち果てることもなく。
◇◇◇◇◇
――我を呼び出したのはそなたか。名と望みを述べよ。
彼はいつも通りに問いかけた。もちろん彼はその名も目的も知っていた。人間の世界で勇者と呼ばれている若者は、身じろぎもせずに彼を見据えて、言った。
「貴方が何者か知りたいのです」
その答えは、彼が考えていたのとは少し違っていた。
「貴方のことを、皆は魔神だと言っている。追放された神だとも、神になろうとしてなりそこねた傲慢な人間なのだとも言われている。
だが、貴方がしたと言われていることがすべて本当だとは、思えない。こうして貴方を見ると、何かが違っているような気がしてならない。
私は貴方と話がしたい。貴方を、真実を知りたい」
彼は、その若者の真摯なまなざしを見て、知らず微かに笑みを浮かべた。
――真実か。ならば一つ昔話を聞かせよう。
と、彼は目を閉じゆっくりと語り掛けた。
◇◇◇◇◇
昔々あるところに、一人の若い神官がいた。とても真面目に神に仕えた神官だった。
あんまり真面目に考えすぎて、ある日ふと、自分が仕えている神はどのような方であろうと不思議に思った。同僚に尋ねても、長上の神官に尋ねても、誰も直接神の声を聞いたこともなければ姿を見たこともなかった。それどころか、そのようなことを疑うのは不敬だと、長上の神官にたしなめられた。
これは妙なことではないか、とその神官は思った。その若い神官は疑ったわけではなく、ただ己の仕える神がいかなる存在であるのか知りたかっただけだのに。
若き神官はひとり密かに調べまわった。神はいずこにおわし、何をなされ、人に何を望んでいらっしゃるのか、ただ知りたいと思って。
その神官は、真実を知りたいと切実に願った。その願いはやがて叶えられた。
そしてその神官は知ることとなった――すべてを。天地のありとあらゆることを、神秘をも知った。
すべてを知った彼は、神罰を受けた。否、すべてを知ったこと、それこそが罰であった。
知りたいと思うことそのものが、人には許されざる罪だったのだと、知識を得て悟った。そしてまず、その知識を漏らさぬよう声を奪われた。
けれど知識を伝える方法は声だけではない。それで彼は永遠に何も為せぬよう封印された。生きることも死ぬこともできず、すべてを知っていながら見ていることしかできぬように。
永劫の罰を受けた彼を置き去りにして、人の世のすべては移ろいゆく。
移ろいの中で、彼を囚えている空間にも、微かな綻びが生じていた。
不意に空間が歪むのが感じられた。窓にかかったカーテンが開けられたように、何かが開いた気配がした。彼の周りには、変わらず暗黒に満ちた空間があるだけで、何も見えない。けれど彼は、何者かが自分を見つめているのを感じた。
それは、この空間に封じられて以来初めての変化だった。彼はわくわくしていた。この空間を覗く何者かが、新たな罰の執行を宣告しに来た神だとしても、彼は喜んで迎え入れただろう。
だが、空間の向こうに動いているらしい気配は、どうやら神ではなく人間のようであった。これはさらなる驚きであった。人間が、この空間に気づくことがあろうとは思えなかった。気づいたとしても、この空間を覗く術を知っているものがいようとは思えなかった。
人間の世界を見渡すと、この謎はすぐに解けた。偶然の産物だったのだ。とある神官が儀式をしている最中に起きた、彼にとってはこの上ない偶然。
驚いた顔で彼を凝視しているその神官の様子は直接彼から見えないが、人間の世界を覗くという術を使えば、間接的に知ることはできる。お互い姿を見ることはできるわけだ。では、話をすることは?
彼は、全身全霊を込めて、声にならぬ声でその神官に誰何した。一瞬の後、神官がびくりと体を震わせて返答を返したのを間接的に知って、伝わったことがわかった。
この空間に満ちる闇越しに人間と言葉を交わしたのは初めてだった。否、言葉を交わしたわけではない。一方的に彼の意思を伝えただけだ。それでも彼は、嬉しくて踊り出しそうな気持ちであった。
さて、件の神官の名はウィルクといった。どこぞの国の王の息子だという話だった。隣国との勝ち目のない戦を控えて、戦勝祈願にありとあらゆる方術を片っ端から試したらしい。そして幸か不幸か彼に遭遇したというわけだ。
ウィルクは、どうか我が国フォルストに勝利を運んでください、という意味のことを言葉を変えくどくどと語った。偶然から生じた接触はそう長くは持たないことを彼は見て取り、饒舌な神官の言葉を遮った。そして彼の空間を覗く方法を正確に教えて、もう一度試みるように言い含めた。
ウィルクが再び儀式を行うべく準備をしている間に、彼はフォルスト国とその敵国の様子を見渡してみた。確かに、フォルスト国は圧倒的に不利だが、それを補うための方法はあるはずであった。
ウィルクが再び彼の姿を見出し、ひざまずいて哀願し始めると、彼は自分が見たものを神官に伝えた。敵国の状況や、戦場となるであろう場所の様子、不利を補うために考えられるいくつかの策を語った。ウィルクは涙を流さんばかりにして拝聴し、儀式が終わるや、父王に注進に行った。
彼は暗闇の中、他にすることもないので、じっと両国の戦争を見守った。彼の忠告のおかげでフォルスト国はかろうじて勝った。
王の息子にして神官であるウィルクは、喜んで戦勝報告をし、お礼に立派な神殿を建てて彼を崇めよう、と申し出た。
いずこの神かと問われて彼は苦笑するしかなかった。神ならぬ身でありながら、己の境遇を振り返れば、ただの人間だと言い切るのは憚られた。仕方がないので彼は、礼には及ばぬ、ただ教えた方術を必ず後世に伝えよ、名は好きに呼ぶがよい、とだけ答えた。
彼の望みは一応は叶えられた。彼は名無き神と呼ばれ、彼を呼び出す方術は秘術として伝えられ、行われ続けた。ただし、国の危急の際にだけ。それもたいていは戦争の時だった。
彼の助力のおかげで、フォルスト国は大いに栄え、やがて助力にもかかわらず滅びた。秘術も人に知られることなく埋もれさるかに見えた。
だが、埋もれたものは掘り出される時もある。それが、人に力を与えるものであれば、なおさら。
フォルスト国に繁栄をもたらした秘術の存在はひそやかに口から口へと語り伝えられていた。かの国は、魔神の力を借りて栄え、ためにまた滅びたのだという噂がしきりにささやかれていた。
その秘術を探り出そうとする者も当然あった。そして、成功した者も。
彼は、彼女が火刑台に縛り付けられるのを見た。彼女の足元に、火がつけられる。
彼はそれを、見ているしかなかった。助ける術は知っていても、彼女のところに力を及ぼすことはできない。彼が、この空間に在るかぎり。
彼女の罪状は、妖術を用いて流行り病を広めたことだった。
実際に彼女がしたのは、彼から得た知識を用いて流行り病に効果のある薬を作ったことだ。彼女の作った薬で、多くの病人が命を救われた。最初は彼女の大切な家族、次に親しい近隣住民、そして村全体、隣町から国中へと。
だが、流行り病がおさまった時、それは彼女の自作自演とされた。栄誉を得るために、妖術で広めた病を妖術で治したのだと。
――愚かな。
彼は思う。彼女は、多くのことを知っている。彼が知っていることのほんの一部分にしかすぎないが、それでも、彼女の知識をもってすれば、民は今よりずっと豊かな暮らしができるだろう。
にもかかわらず民は、まさにその知識を持っていることで彼女を糾弾し、その知識を彼女ごと葬り去ろうとしているのだ。あの民は、豊かな暮らしを求めているくせに、そこへ至る道を自らの手で潰しているのだ。何と愚かなことだろうか。
誰も彼もが愚かに思えた。
彼女を火刑に処そうとしている民も、民の愚かさをこれほどとは見抜けなかった彼女も、そして、危惧を抱いていたにもかかわらずこの事態に何もできなかった彼も。
何もかもが空しかった。
火刑台から立ち上る煙を見つめて、彼は決意した。
愚者とその世界を滅ぼそうと。
その時から、彼は人間の敵となった。
人間の世界を眺めるのをやめた。そこに彼の関心を引くものなどなかった。
人間からの呼びかけには答えたが、有益な知識を与えぬようにした。呼びかける人間の望むがまま、災厄につながる知識を与えた。そうして引き起こされた災厄が、多くの人間の命を奪い、多くの国を滅ぼした。
封印されてもなお滅びをもたらす恐ろしい魔神。
彼はそう呼ばれるようになった。
◇◇◇◇◇
と、彼は語り終えた。
「それは違う」
と、聞いていた若者は、瞑目したままの彼に告げた。
「少なくとも、有益な知識を与えるのをやめたというのは、違う。火刑に処された女性は『名を消された魔女』のことでしょう。
彼女の処刑後にも貴方に知識を授かったという者の話はたくさんある。疑わしい話もあるが、作り話とは思えないものもある。知識を得た者が破滅する話だけでなく、人々を救った話も少なくない。
その知識で一時救われても、後に災厄のもとになるのだ、と貴方は反論するかもしれない。それなら逆のことだってあり得る。貴方の入れ知恵で滅びたと言われている国の中には、その時滅亡したおかげで被害が少なくて済んだと推測されるところもある。
人間を滅ぼそうなんて、嘘だ」
若者の饒舌は、彼の記憶を刺激した。だからだろうか、つい言い返したのは。
――それが嘘だとして、何か問題でも?
「私は真実が知りたいと言いました」
――それに何の意味がある。そなたの目的は我の討伐であろう、勇者よ。
「私が請け負ったのは、魔神の討伐です。魔神と呼ばれている誰か、ではない」
若者はきっぱりと言い切った。だが、そんなのは詭弁でしかない。皆、勇者が聖剣をふるって彼を倒すのを待っているのだ。
「それに、貴方ですら私を勇者と呼ぶけれど、そもそも勇者とは何者です?」
勇者本人から勇者の定義を問われた。
――勇気をもって、聖剣をふるい、悪しき者を倒すのが勇者であろう。
「では、私は勇者ではありません。まず、勇気がない。勇者と呼ばれているから聖剣と呼ばれる何かで魔神と呼ばれる誰かを倒せ、なんて胡乱な話をすんなり実行するような度胸は持ち合わせていない。確かなことを知らずに過ちを犯してしまうのが怖い。
だから、本当のことを知りたい。貴方のことも、魔神のことも。
真実を知った上でできるだけ正しい判断をしたい。何も知らなければ動けない。私はそんな臆病者に過ぎません」
――知らなければ動けないということはなかろう。動いて初めて知ることもある。
「確かに。魔神について、貴方について、調査のためずっと動き回っていて得たものは多いです」
――そういうことではない。我のことは、倒してから如何様にも調べればよい。
「倒してしまったら、貴方と話ができないではないですか。まだ真実を聞き出せていないのに。それに、こんな空間で隔てられていて、どうやって倒せと?」
――そのための聖剣。実際に我に向けてみれば分かるであろう。
「聖剣は置いてきました。今持っていません」
彼は目を開いた。人間の世界を見てみれば、勇者と呼ばれている若者が、彼の前で何も持っていない両手をひらひらさせている。儀式に臨んだのは勇者一人。儀式用のローブを着て、武装はしていない。近くに他に人の気配はない。そしてどこにも聖剣が見当たらない。魔神を倒すのに、聖剣を持たず武装もしないで一人でやって来る勇者がいてよいものか。
「では聖剣とは何です?」
今度は聖剣の定義を問われた。
――悪しき者を倒すため、神が人間に与えた強力な武器、であろう。
あの剣は未知の力を秘めている。勇者が用いれば、この空間ごと彼を斬れる可能性がある。
「悪しき者とは何か、神とは何かという問題もありますが、今は置いておきましょう。では、その武器は誰が作ったのか。貴方は知っているはずだ。まさか神だなんて言わないでしょうね」
若者は不敵な笑みを浮かべた。本来、聖剣を彼に突き付けて浮かべるべき笑みを、徒手空拳のままで。
「もちろん、人間の鍛冶屋が作った。拵えが、伝説の鍛冶屋が作ったと伝わる名剣とよく似ている。その伝説というのが、悪魔と勝負して勝って人知を超えた技術を授かった、という話。きっと、貴方には心当たりがあるでしょう。そこで、その鍛冶屋が作ったと伝わる品をかき集めました。ちょうど今、賢者たちが聖剣とも比較して鑑定を」
若者の言葉に彼は聖剣の在り処を急いで確認した。賢者と呼ばれる学者たちが抜き身で置かれた聖剣とその他の剣を、検分しているところだった。見るからに武器を扱い慣れておらず、危なっかしい手つきでだ。
彼は全身全霊を込めて、声にならぬ声で、やめろと叫んだ。もし何かの拍子に聖剣に秘められた力が暴走したら、大変なことになる。彼を倒すはずの力が、大惨事を引き起こした末に失われるかもしれない。
彼の叫びに、やはり、と若者は頷くと、怒りに満ちたまなざしを彼に向けた。
「あの聖剣とやらを作らせたのは貴方ですね。そんなに慌てるほど危険な代物を、私に扱わせようとするとは。しかも他にも幾人か、同様の武器を作らせたでしょう。魔神をも倒せる強力な武器という触れ込みで。この空間を切り裂いて貴方に届くほど強力な武器など、扱う人間もその周辺もただではすまないはず。
どういう了見か貴方を問い質したい。言いたい苦情も山とある。今は賢者たちと聖剣が心配なので行きますが、また来ます。とことん、話し合いましょう」
――それは話し合いではなく、尋問なのではないか。
「お互い、どうせやるなら尋問より話し合いの方がいいでしょう。友達も連れてきていいですか?」
魔神を倒すのに援軍を呼んでくるのならいい。だが、そうでないことを彼は知っている。
――魔神を倒すのに、歴史学者を連れてくる勇者がどこにいる。
「貴方が魔神かどうかはまだ分からない。貴方を倒す必要があるかどうかもまだ分からない。
私は勇者などではない、ただの臆病者だから、分からないままなのが怖い。次は絶対に真実を話してもらいます。
それと、友達は考古学者だと言ってます。フォルストの遺跡探索から戻ってきたばかりで、今日は来られなくて、残念がっていました。遺跡で発見した碑文について、ぜひ貴方の話が聞きたいと。そうだ、速記者も同席して構わないですね」
言いたいだけ言って、若者は去っていった。
無限の闇の中、彼は独り思いに沈んだ。
彼に対して話し合いを挑んだあの若者は、まごうことなき勇者だった。
勇者が速記者の同席を言い出したのは、真実を知るだけでなく伝えるためだ。きっと今日のやり取りも、記録に残す気だ。何とかして抹消せねばなるまい。フォルストの者たちも、建てなくていいと言った神殿を建てて、残さなくていい碑文を残した。記録が残れば、かつての彼と同じように知りたがる人間が、知ってしまう。
勇者は真実が失われるのが許せないのだろう。
だが真実など、彼だけが知っていればいい。
何としても勇者を説得して、彼を討伐してもらう。
彼が望むのは、すべてを知りながらただ一つ知らないこと――彼自身の終焉なのだから。
未完成未発表のまま忘れていたのを、加筆修正したものです。
途中文体が変わって見苦しかったかもしれませんが、最後までお読みいただきありがとうございました。