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いつもの挨拶だけど、いつもより声が弾んだ。

この話からしばらく別視点です。


「あー……遅くなっちゃった……」


 バッグの中に『雨宿(あめやど)(しずく)』と記入された社員証がちゃんと入っているのを恨めしげに確認する。


 午前中私用があって、今日はお昼から出社の予定だったのだけど、途中で社員証を忘れたことに気づいたのだ。これがなければ事務所に入れないので取りに帰っていたら遅くなってしまった。


 そのタイムロスもあり、十五時から面接の予定が入っているというのに『New Tale』事務所の最寄駅についたのは面接予定時刻から一時間前の十四時だった。


 昨日の退勤間際、同僚にして親友の安生地美影(あーちゃん)からの『当日になって慌てないように面接の準備は済ませておいたほうがいいわよ』との忠告を素直に聞いておいてよかった。ここまで遅れるのは想定外だった。


 駅の改札を出て、エントランスに足を向ける。本来の予定なら、ここにある小洒落た喫茶店でお昼にしようと思っていたのだけれど、そんな余裕はなさそうだ。


 未練がましく喫茶店をしばし眺めて、出口へと歩みを進める。事務所に戻れば、デスクの引き出しにいつ買ったか覚えていない栄養機能食品がいくつか入っているはずだ。それをめそめそ食べよう。


 空腹を訴えるお腹をさすりながら出口へ向かっていると、目を引く人物がいた。決して背の高いほうではないわたしよりもさらに背丈の低い、小学生くらいの子だ。


 ただの小学生ならべつに悪目立ちするものではない。電車通学をしている小学生くらいいるだろう。下校時間にしては中途半端だけど、なにか行事なり短縮授業なりあったとするなら、ありえないような時間でもない。


 ならばなぜ目を引いたかといえば、かなり奇抜な外見をしていることもさることながら、その子は私服姿で、とても学校帰りとは思えなかったからだ。この近くに私服登校可の小学校があった覚えはない。忌引きなど家庭の事情で今日は登校していないだけなのかもしれないが、それにしたって小学生なら制服を着るだろうし、近くにご両親の姿も見えない。


 平日の昼過ぎに、私服姿で、一人だけ。


 駅にいるのなら迷子ではないのだろう。なら残るのは、あの子には複雑な事情があるのではないか、という嫌な想像。


 周りの大人たちも、妙な時間に私服の小学生がいることに怪訝な視線を向けつつも、声をかける素振りもなく通り過ぎていく。なんならその子に近づかないように大回りして歩いていく人もいるくらいだ。


 そうやって見て見ぬ振りをする人たちを、冷たいだなんて言うつもりはない。


 誰だって他人の面倒を見る余裕なんてない。自分の面倒を見るだけで精一杯だ。変に関わって責任を負いたくない。厄介事に巻き込まれたくないと思うのは自然なことだ。


 だからわたしは、不自然で構わない。


 出口へと向けていた体をあの子へと向ける。


 あの子は単純に親と(はぐ)れただけかもしれない。あるいは迷子なのかもしれない。私服登校可の小学校からの帰宅途中で、間違えてこの駅で降りただけかもしれない。あの子の人生は光で満ち溢れていて、仄暗い背景などないのかもしれない。


 そうであればそうで一向に構わない。何も問題がないならそれが一番いい。


 でも。


 でも、もしかしたら本当に、一人ではどうしようもないような厄介な悩みをその小さな背中に負っているのかもしれない。


 そんな可能性がもしあるのなら、声をかけなきゃいけない。困ってるなら力になってあげたい。わたし一人でできることなんてたかが知れてるけれど、それでも話し相手くらいは務められるはず。一人きりで悩んでいるよりはずっといいはずだ。


 よし、と意気込んでバッグを掛け直し、小学生のほうへとつま先を向け、一歩踏み出す。


 そしてわたしは一歩目で止まった。


 広いエントランス。多い通行人。なのにぽっかりと不気味に空いた空間に、ぽつんと一人でいる小学生。


 事ここに至って意思が揺らいだわけでも、注目を集めることに怖気付いたわけでもない。


 わたしが立ち止まってしまったのは、そんな奇妙な隔絶された空間に立ち入る人がわたし以外にもいて、驚いたからだ。


「こんな時間に一人だなんて、どうかしたのかな?」


 仕立ての良いスーツを着た背の高い男性が、莞爾(かんじ)とした笑顔と穏やかな物腰で、優しげにあの子へ話しかけていた。




 *




 スーツ姿の男性とお話している子を、これまでずっと『あの子』とか『小学生』などと表現していたのは、距離のある場所からではその子が男の子なのか女の子なのか、はっきりわからなかったからだ。


 スカートでも履いてくれていればすぐに女の子だと判断できただろうけれど、その子の服装はダークグレーのオーバーサイズのフード付きパーカーとデニムのショートパンツという、男女どちらでもおかしくない装いだった。足元は黒を基調に金色を差したハイカットのスニーカーだったので、これは少し男の子寄りかな、とも思ったけど、かわいらしい小さなぬいぐるみのストラップをショルダーバッグにつけていて、やはりわからなくなった。


 近づいて顔を見ればさすがにわかるだろうと目算を立てていたけど、じっくり見ても判然としないくらい中性的で、かつ綺麗な面立ちをしていた。


 相貌と相まって目立つのがその頭だ。脱色を重ねたのか、白に近い銀色のような髪色。いわゆるウルフカットと呼ばれる、トップは短めで襟足は長くなっているヘアスタイル。これは流行りでもあるので女の子ならなんらおかしくもないけれど、小学生くらいの男の子でも親の好みでそういった髪型をしている子はいるのでどちらともいえない。髪の上部から下部にかけて段階的に軽くしているのが特徴で、あの子は内側は首筋に沿うように、外側はエアリーに跳ねていた。


 似合う人がやれば、可愛さと格好良さを同時に併せ持つという、ずるい髪型だ。わたしもやってみようとして、あまりの似合わなさに断念したという過去があるが、あの子は途方もなく似合う。


 服装、顔立ち。そして近づいてわかったあの子の表情。


 ()めつけるような鋭い目つきと目元のひどい(くま)。寄せられた眉。不機嫌そうにへの字に曲がった薄い唇。歳の頃は夢や希望に溢れる歳頃だろうに、まるで世を儚むような、そんな気怠げな空気感。さまざまな要素が混じり合って、アンニュイというかペシミスティックというか、退廃的でコケティッシュな雰囲気を醸し出している。近寄り難い、でも目を離せない。そんな強烈な個性と魅力があった。


 そこまでじっくり観察していたのは、もとい観察できていたのは、わたしが二人の間に割って入れていないからだ。


 今現在、わたしはただの傍観者である。


 体の小さなあの子と、男性の平均よりもずっと背の高そうなスーツの男性。身長差はとてつもないだろうけど、スーツの男性が片膝をついて目線を合わせていた。


 そんな状態で、しばらくの時間会話している。


 当初は早く切り上げて帰りたそうに斜に構えていたあの子も、お喋りを続けるうちに表情から多少険が取れていっているように感じた。言葉を投げかけ続ける男性に対して、徐々に返す言葉数が多くなっている。


 まるで拗ねた子どもをあやしているようにも見えるかもしれないが、そういったものでもないようだった。なにせ、男性のほうがとても楽しげに話していたのだから。


 子どもを(なだ)めすかして事情を聞き出そうとしているわけではなく、その様子はまさしく傾蓋知己(けいがいのちき)と呼ぶに相応しいような、まるで最近顔を合わせていなかった古い友人との友誼(ゆうぎ)を確かめ合っているような、そんな不思議なものだった。


 いい時間話していた二人は、場所を移動するよう算段をつけたようだ。通行人の邪魔にならないよう、エントランスの中央に並ぶ円柱状の支柱の影で男性がスマートフォンで電話をし始めた。


  警察や児童相談所(どこか公的な機関)にでも電話をしたのかな、などと考えていたわたしだったけど、ふと思い出した。


 わたしには、人のことばかり気にしている時間的な余裕はない。


 今日は面接の予定があるのだ。資料はすでにまとめてデスクに置いているし、内情を詳しくわかっているあーちゃんがいるとはいえど、担当者が席を外しているのもどうなのだろう。いつも頼りになるあーちゃんは、今日に限っては頼りになるかどうかわからないことだし、形ばかりとはいえど面接にはわたしも同席すべきだ。


 それはわかっているが、しかし、ここであの二人を放って事務所に行くのも心苦しい。


 観察していて、あの男性が悪い人ではないとはある程度理解しているけれど、もし何かよからぬことを考えている人であればあの子が危険になる。


 あの男性が純粋に良い人でも、小学生に声をかける不審者として通行人から通報されてしまった場合、被疑者と被害者の二人だけでは疑いを晴らせない可能性がある。どういった経緯を辿ってあの子に声をかけたか客観的に説明できる第三者がいないと、善意から声をかけたのに任意同行などを求められたりするかもしれない。それは男性があまりにも不憫だ。


 面接予定の応募者さんと、役割を押し付けてしまうあーちゃんには申し訳ないけれど、わたしは二人を放っておけない。遅れてしまうかもしれないということを伝えておかないと。


 事務所へと電話をかける。どうやって説明すればこの理解に苦しむ状況をあーちゃんに説明できるだろうかと考えていたが、繋がらない。電波障害でもあるのか、それともスマホの調子が悪いのか。少なくともバッテリーは残っているのに、なぜ繋がらないのだろう。


 よく分からないけど、調子が悪かったら再起動してみなさいと教えてもらったことがあるので、もたもたと手間取りつつスマホを操作する。


 電源を落としている間に向こうは通話を終えていた。


 視界が及ぶところまでぎりぎり離れつつこっそりついていく。見失ったら大変なので、再起動したスマホであーちゃんに、事務所に着くのが遅れるかもしれないですごめんなさい、の旨のメッセージを送り、バッグに放った。


 あの子は駅近辺の地理に明るいようで、迷いのない足取りで先導し、公園へとやってきた。


「……公園?」


 駅の近くに軒を連ねる居酒屋さんなどの飲食店エリアとマンションなどの住宅地エリアの境目あたりで、まるで切り抜かれたようにぽっかりと空いたスペースがあった。遊具は乗れないようになっているブランコと、薄汚れた小さい滑り台があるくらい。公園としての最低限の体裁を取れているのかすら怪しい公園だった。敷地だけはそこそこあるのが、かえって寂れた雰囲気を助長させている。


 会社から駅までの道はよく通っているのに、近くにこんな場所があるなんて知らなかった。


 公園内には街灯が一本、中央付近に据えられているだけで、それもよく見てみればカバーがひび割れている。夜にしっかりと照らしてくれるかどうかもわからない。不安しかない。暗くなってからでは一人ではこれない。


 わたし基準ではここは公園の要件を満たしていない。公園一歩手前といったところだ。この公園の名前を知らないので、亜公園と名付けよう。


 のん気に、そして勝手に公園に命名していたが、よく考えたらまずいことになった。二人が亜公園内に入ったら、さすがに立ち聞くことができなくなる。駅と違って人もほとんどいない中、声が聞こえるくらい近いところでぼんやり突っ立っているのは不審すぎる。そんな人は怪しい人かおかしい人のどちらかだ。


 どうしようどうしようとわたわたしていると、二人は亜公園の近くにある自販機に立ち寄っていた。亜公園の入り口あたりに綺麗なベンチがあるので、そこで話を続けるようだ。亜公園内のどの遊具よりも立派で清潔なベンチである。その近くなら身を潜められそうな場所があるので観察も継続できそうだ。


 もうこの亜公園は遊具を撤去してベンチだけ置いていればいいんじゃないかな。あとは街灯だけなんとかしてくれれば敷地内には緑も多いし、お昼休みとかにはご飯を食べに人も寄りそう。


 自販機で飲み物を購入してきたらしい男性が、あの子にそれを手渡した。


 そこであの子が飲み物をもらったことに対してお礼でも言ったのか、小さなお口が動く。


 いったいどんなお礼を口にしたのだろう。男性の表情が変わった。離れていてもきらきらと瞳が輝いて見えるのに、どこか背筋が凍るような、鬼気迫る笑顔だった。


 そこからまた、二人は心を通わせるように言葉を交わしていた。


 まるでこの世界にはお互い以外に人は存在しないとばかりに、目と目を合わせていた。


「…………」


 風向き次第で届く会話の断片から推測するに、これはわたしが、無関係の他人が、耳にしていいことではない。決して知的好奇心や下心や野次馬的な気持ちで覗いているわけではなく、わたしとしては純粋な心配から動向を見守っているつもりなのだけど、でもあの子の話は無関係なわたしが盗み聞きしていいことではなかった。


 わたしの想像を超えて、重い話だった。


 男性は、あの子の話を優しい眼差しで頷きながら聞き入れて、口を開いた。


 距離が離れているし、なにより声を張るような話の内容でもない。スーツの男性がどう答えたのか、鮮明には聞こえない。


 それでも、話し終えた彼はあの小学生から笑みを引き出した。それは唇の端を引き攣らせたような苦み走った笑みだったけれど、あの気難しそうな小学生からたしかに笑みを引き出した。


 男性と話す前。駅で見かけた時の世間を見限ったような顔を、あの子はもうしていなかった。


 やっぱりあの子は大きな悩みを抱えていて、あの男性はその悩みを聞いたのだ。それを解決できたかどうかまではわからないけれど、それでも、あの子が背負っていた重たい荷物を少しだけでも下ろせたことは、なんとなくわかった。


 あの子は手にしていた飲み物を一気に呷ると、自販機横に置かれているゴミ箱へ空になった缶を投げ捨てる。それは一直線に、缶一本分の直径よりもわずかに広い程度しかないゴミ箱の捨て口に吸い込まれた。


 あの子はちゃんとゴミ箱に入ったことを見届けると、男性へと視線を戻した。腕を上げて男性の前に差し出すと、お互い短く一言だけ何かを言って、ぱちっ、と長い付き合いの親友みたいに手と手を打ち合わせた。


 それを合図に、二人は言葉も視線も交わすことなく歩き去っていく。連絡先を交換することもない。駅まで同道することもない。またいつでも逢えるかのように、一度として振り返ることもなく、二人は別れた。


 あの二人にはこれ以上言葉と時間を費やす必要を感じなかったのかもしれないが。二人にとってはそれで充分だったのかもしれないが。


 わたしには、わからなかった。


 なにもわからなかった。なにも共感できなかった。二人の感性も関係性も、考えていることも。


「……まあ、よかった……のかな」


 なにはともあれ、いい方向に転がりはしたみたいだ。


 結局わたしの出る幕はなかった。


 それでも結果的には丸く収まったようなのでよかったのだろう。


 通報とかされなくてよかった。あの小学生に声掛けした男性も、一人で出歩いていたあの子も、そして盗み聞きしていたわたしも。


 名前も性別も分からず終いのまま、あの子は立ち止まることなく歩いていく。その足は駅で見かけた時よりも力強く、顔は前をまっすぐに見据え、来た道を戻っていった。


 スーツの男性も飲み終えて空になった缶をゴミ箱へ捨てて、歩いていく。方角はちょうど『New Tale』のビルがある方向だ。


 と、そこまで考えて、ようやく思い出した。


「……あ、めんせつ……」


 バッグの中のスマホを確認するのが怖い。


 左手に巻いた細いデザインの腕時計に恐る恐る目をやる。


 十五時を、すでに十五分以上過ぎている。


 まずい、まずいことになった。まさかこんなに時間が経っているなんて思いもしなかった。まだ走れば間に合うかな、くらいの時間だと思っていたのに。時間を忘れるほど夢中で盗み聞きしていたということだろうか。とても外聞が悪い。


 いつもなら、あーちゃんがいれば問題はない。なんならわたしがいらないくらいになるところだけど、今日ばかりは話が違うのだ。


「い、急がなきゃ……途中からでも参加しなくちゃ」


 履き慣れたパンプスでよかった。


 スーツの男性の背中を追うような形で駆け出す。どうやらあの男性も目的地の方角は同じらしい。


 あーちゃん、大丈夫かな。いつもの調子を取り戻していてくれたらいいんだけど。


 あーちゃんはキャリアウーマン然としていて、外見相応にとても仕事ができて頼りになるわたしの親友だけど、あまり人に言って回るべきではない趣味を持っている。趣味というべきか、人間的側面というべきか、それとも安直に性癖というべきか。わたしが訊いた時にはとても朗らかな声と笑顔で『夢よ』と語っていたが、それは美化しすぎだと真顔で思った。寝言だったのかな。


 そんな夢を探求する影響なのか、あーちゃんはとある方向の女性向け恋愛ゲームやシチュエーションドラマなどを激しく好む性質がある。


 今回送られてきた応募用動画が、あーちゃんのその困った性質を大いに刺激してしまった。


 きっかけは、有名なFPSゲームの実況プレイとボイスドラマを掛け合わせるという、かなりトリッキーな手法を採用したその応募動画の評価を、担当者のわたしがつけられなかったことだった。


 ゲームのプレイ動画や解説や実況はわたしの趣味もあってよく見るので、それの良し悪しは判断できる。でも、わたしはボイスドラマはいくつか聴いたことがある程度で詳しくはなかった。


 なのでその分野において、わたしよりも圧倒的な知識量を誇る専門家(あーちゃん)に見解を伺おうと思い視聴してもらった。


 その結果、その日は仕事がとても早いことで知られているあーちゃんの作業速度が普段の半分以下にまで落ちた。


 その翌日には前日の失態を払拭するように処理スピードが上がっていたので、なんとか持ち直してくれたのかなと安堵していたが、送られてきていた動画データをわざわざ音声ファイルに変換して自身の端末に取り込むなどという暴挙に打って出ていたことがのちに判明した。わたしがあーちゃんを叱りつけるなんてかなり久しぶりのことだった。


 それほどあーちゃんの琴線を刺激した動画を送ってきた人とあーちゃんを二人きりにして面接させるなど不安で仕方がない。困った性質が表に出ている時のあーちゃんは知性や理性を失いがちなのだ。とても失礼なことを言いそうだしやらかしそう。


 あまり例のないあーちゃんの奇行と暴走によって事務所内に知れ渡ってしまった動画の評価は、実はかなり良い。あーちゃんを狂わせたボイスドラマのほうはもちろん、バトルロイヤル系FPSゲームの実況プレイとしても質が高かったのだ。


 洗練された立ち回り、敵の位置が見えていると錯覚するような索敵、有利不利の判断の的確さ、攻め時と引き際を見極める速さ、地形を完全に記憶したポジショニング、合理的なクリアリング、吸い付くようなエイム、にわかには信じがたいリコイルコントロール、クロスを組まれても銃弾を避ける謎としか言いようのないキャラクターコントロール、マップを上から眺めていなければ不可能なレベルのエリアコントロール。事務所内の何人かからはチートとすら疑われた技術の数々と、常に移り変わる戦況を的確に表現する語彙力、字幕なんていらなくなるくらいすっと耳に入ってくる滑舌の良さ。それらがボイスドラマのクオリティを引き上げ、終始安定して維持するためのゆとりに繋がっている。


 あーちゃん曰く、ボイスドラマの台本も卓出されていたとのこと。専門家が言うのだからそうなのだろう。


 卓越したゲームの腕と、一部の趣向を持った女子を魅了する声と演技力。あとはVtuberとして持つべき最低限の常識と社会性があれば、配信者としてこれ以上ないくらいの人材だ。


 現状の『New Tale』が男性Vtuberを新たに加えることにリスクはあるけれど『New Tale』全体としての知名度やリスナー数の増加が鈍化傾向にある今、その男性応募者の存在は新たな視聴者層を獲得する起爆剤となる可能性がある。


 その起爆剤が、男女のVtuber同士の交流を過剰に気にかけるリスナーへ働く危険性もある。あるにはあるけれど、仮に応募者によからぬ下心があったとするなら、男性Vtuberも相当数いて受け入れられやすい下地のある『Golden Goal』のほうが都合がいいはずなのだ。あちら様のほうが僅差といえど規模も大きいし。わざわざ『New Tale』を選んだ応募者が、無闇無思慮無計画に女性Vtuberへ厄介な絡み方をすることはないかと思われる。


 逆に言えば『New Tale』はヤバいトコだ、なんて思われたらその足で『GG』など他のVtuber事務所に行きかねない。将来性を感じる新人は逃したくない。


 女性Vtuberばかりの『New Tale(うち)』をどうして希望してくれたのかは謎だけれど、一部社員(あーちゃん)の暴走によって競合他社に渡ってしまうことは避けたい。ここはヤバいトコじゃないですよー、とアピールしたかったけど、まさかの面接担当者(わたし)が遅刻するという大ポカをやらかしてしまった。わたしが一番ヤバかった。これはもうだめかもしれない。


「ぇふぇ……ぃっ、くぁ……」


 日頃運動していないつけを大いに味わいながら、早くも重くなってきた足を前に送り出す。足も肺も痛い。


 『New Tale』の場所を思い浮かべながら最短距離だろう道を走っているのだけど、不思議なことにスタートからここまで、前方にずっとスーツの男性の後ろ姿があった。


 もっと不思議なことに、その男性の足取りはあまり急いでいるようには見えなかった。なのにわたしは追いつけない。なんなのか、わたしが走るのが異様に遅いのか、それとも男性の歩幅が大きいのか。きっと歩幅が大きいのだ。わたしは遅くない。足短くない。


 いつの間にか、どこかで別れる前に男性に追いつくことを目的として走っていた。


 数分ほど、いや厳密に何分かなんて覚えていないけれど、無心になって男性の後ろ姿だけを見て走っていた。正直、道も正しいのかわからない。とりあえず走っていた。


 男性の足がようやく止まる。わたしは学生時代以来となる久しぶりの激しい運動に、膝に手をついて荒い息を吐いていた。息じゃないものも吐きそうになったけれど、そこは乙女のプライドで我慢した。数十秒、もしくは一分近くかけて息を整えて顔を上げる。気づけば『New Tale』のビルが見えていた。


「……あれ?」


 『New Tale』が入っているビルの正面に、(くだん)の男性が(たたず)んでいる。


 行き先が同じだったのだろうか。ビル内には他にも違う会社が入っているので、そちらに用事があるということも十分に考えられる。


 でも、もし『New Tale(うち)』だとしたら。


 今日、来客の予定はなかったはず。唯一の予定は件の応募者の面接の一件だけだった。


 もしあのスーツの男性の目的地が『New Tale』だとしたら、今日面接を受けにきたのは彼ということになる。


「ま、まだ、判断するのは……」


 とりあえず、エレベーターが何階に止まるのかだけは確認したいところ。でもここのエレベーターって引くくらい遅いから、彼にエレベーターに乗られてしまうと事務所に着くのがさらに遅くなってしまう。激しい運動をこなしたわたしに七階まで階段で上がる体力は残されていない。


 この際、いっそのこと一緒に乗ってしまえばいいかな。


 どうしようかと頭を悩ませていると、立ちすくんでビルを見上げていた男性が動いた。


 亜公園で小学生と喋っていた時には着ていたはずのジャケットをいつの間に脱いでいたのか、男性は小脇にそれを抱えながら、ビルへと足を踏み入れる。


 遠くで突っ立っていては彼がどこに向かっているのかわからなくなる。エレベーターに乗り合わせるにせよしないにせよ、彼がどこで降りるかくらいは確認しておきたい。


「ひゅぇっ、ふぃっ……」


 全回復にはほど遠い肺が不可思議な音を出す。重い足が言うことを聞いてくれない。段差もないのに(つまず)きそうになる。


 残った体力を振り絞るように走るも、彼の早歩きよりも遅いわたしの全力疾走では間に合うはずもなく、彼を受け入れたエレベーターは扉を徐々に閉めていく。


 仕方ない。せめて彼が何階で降りるかだけでも確認しておこう。


「……あれ?」


 ふと違和感に気づいた。


 彼が『New Tale』に面接にきた応募者ではないのなら、彼が何階に行こうとわたしには関係がないのではないだろうか。どうして行き先を気にかける必要があるのか。


 不意に湧いた疑問の答えを出す前に、がこん、という音がわたしの意識を目の前に引き戻した。


 彼が閉じていくエレベーターの扉に手を差し込んで、開いてくれたようだ。


「すいません! ありがとうございますっ!」


 ジャケットを着ていた途中だったのか、一部の女性に特効がありそうなフェチシズムあふれる格好で待ってくれている彼に感謝しつつ乗り込んだ。


 わたしは走ってきたせいで崩れてしまっていた身なりをざっくりと整えながら彼へと目を向ける。


 あの子と並んでいた時にも思っていたけれど、近くに寄ってみると思っていた以上に彼の背が高い。ゆうに頭一つ分以上、下手したら二つ分くらいわたしよりも大きい。この距離で顔を見ようとすると、見上げるような形になりそうだ。


「いえ、お気になさらず。何階ですか?」


「っ! ありがとうございます。七階でお願いします」


 じろじろと間近で観察していた時に声をかけられたので、驚いて一瞬返答に詰まってしまった。


 こんな二人だけの空間で怪訝な目で見られたらと考えると居た堪れなくなる。


 彼から目線を外して、エレベーターの操作盤へと視線を送った。


 彼の長い指が七階のボタンを押す。が、押す前からボタンは光っていた。やはり、彼が今日『New Tale』に面接に来る予定だった応募者だったのだ。


「ふふっ」


 頬が緩んでしまうのを我慢できない。


 なぜこんなにも気持ちが昂ってしまうのか。


 それはきっと、新しく入るだろう人が、とても優しい人なのだと、一足先に知れたからだ。


 自分にも重要な用事があるというのに、寂しげな雰囲気さえ漂わせることができない小学生を目にして、迷わずに声をかけられる人。声をかけて、話を最後まで聞いてあげて、その上であの子の抱えていた悩みを軽くしてあげられる人。困っている時、親身になって寄り添ってあげられる情の深い人。


 わたしは嬉しかったんだと思う。


 周囲の人たちがあの子を避けるように先を急いでいた中、見ず知らずの赤の他人であるあの子を、彼は気に掛けてくれた。ああ、まだこんなに温かい心を持つ人がいてくれたのだなと、そう思うととても嬉しく感じた。


 彼のあり方が、わたしにはとても眩しく見えた。


 そのような生き方は、悲しいことだけれど損をすることのほうが多いはずだ。真面目で優しい人ほど、泥を被るような役回りに立たされる。誰もやりたがらないような面倒事を押し付けられたり、余計な仕事を任されたり、他人の尻拭いをやらされたりもする。人の善意につけ込む人がいて、自分の利益のために優しい人を散々利用したり蹴落としたりする人もいる。その人を思ってやったことでも、恩の押し売りだとか、独善的な自己犠牲だとか、自己満足だとか、偽善だとか、心ない言葉をぶつけられることもある。


 それでも、彼は人のために動いたのだ。


 周りの視線なんかお構いなしに、それがどうしたと言わんばかりに、あの子のために動いたのだ。


 そんな彼とこれからお話して、為人(ひととなり)を知って関わっていけると考えたら、思わず頬が緩んでしまうのも仕方のないことだ。うん、そうだ。仕方ない。


「ふぅ……っ」


 テンションが上がってしまっていたせいでここまで気づけずにいたけれど、今のわたし、女子的にどうなのだろうか。


 年季の入った元気のないオンボロエレベーターのエアコンは、儚いため息のような力ない冷気しか吐かない。ここまで走ってきたことに加えて高揚しているわたしの体を冷ますには力不足が否めない。


 つまり何が言いたいのかというと、わたしちょっと汗やばくないかな。


 メイクはまだしも、汗くさかったりしないだろうか。考え出すとさらに汗が吹き出しそうになる。余計なことを考えないようにしながら静かにバッグを漁る。


 これから暑くなってくる時期だしデオドラントはバッグの中に常備しているけれど、さすがに男性の目の前で使えるほどわたしの乙女心は死んでいない。かといってそのまま放置もできないので、最低限の処置としてハンカチを取り出す。ぴかぴかと光るスマホの画面に親友の名前が表示されていた気がしたけれど、それは気づかなかったことにした。


 ハンカチで押し当てるようにおでこや首を拭う。見た感じ、それほどメイクは崩れていないようだ。もちろん彼と別れた瞬間にちゃんとメイクを整えたいけれど、とりあえずは命拾いした。同僚におすすめのメイクキープスプレーを教えてもらっててよかった。


 一安心しつつ、見苦しくならないようにハンカチで汗を拭き取る。首元はまだすっきりしたけれど、胸元が少々気持ち悪い。汗がたまりやすい谷間にはパウダータイプのデオドラントを使っているけれど、それにも限度はあるし汗で透けても恥ずかしい。ボタンを外して拭く。


「……っ!」


 暑さと緊張で頭がどうかしていたのかもしれない。そこまで肌の露出が多いわけではないけれど、シャツの襟元がはだけてしまっていた。もしかしたらブラも見えてしまっていたかもしれない。


 慌ててハンカチを持つ手で胸元をおさえて、彼の様子を窺い見る。


「…………」


「…………」


 まったくこちらを見ていなかった。逆にこちらが目を(みは)るくらいに、ちらりとも見ていなかった。


 あーちゃんや同僚の話では、男性は女性の素足や胸元が露出されていたら本人の意思に関係なく眼球が反応する生き物らしいのに、信じられないくらいこちらに興味を示していなかった。彼はのんびりと数字を増やしていくエレベーターの階数表示を、平然とした面持ちで眺めていた。


 胸元を見られてるかも、などと自意識過剰に考えていた自分が恥ずかしくなった。こんな寂しい胸にわざわざ目を向ける必要などないということですか。こんな粗末な物に目を向けるくらいなら他に類を見ないほどのんびりと上がっていくエレベーターを観察するほうが有意義だと、そういうことですか。これでも平均以上はあるんですけど。


 少々へこみも逆恨みもしたけれど、不躾な視線をぶつけてこないのは紳士的だなとも思った。そう思うことにした。


 七階に到着し、扉が開く。


「どうぞ」


 彼は開ボタンを押して先を譲ってくれる。細かいところも気の回る人だ。


 遠慮するのも変なので、エレベーターを先に降りる。


 振り向くと、彼は緊張しているのか若干表情が強張っていた。


 考えてみれば、それもそうか。人助けをしていたとはいえ、結果的には遅刻したみたいになってしまった。ただでさえ緊張する面接で遅刻したとなれば、入りづらくもなるだろう。


 遅刻した理由についてはわたしからも説明する。なので、ぜひとも面接の場では、気兼ねも気負いもなくいつも通りにお話をしていただきたい。


 足が重くなっている彼に声をかける。


「大丈夫ですよ! 一緒に行きましょう!」


「……え? あ、はい……」


 彼は驚いたように目を開いて、少し間を開けて会釈した。


 ついてきてくれたのを確認し、事務所へと向かう。


 バッグから社員証を取り出す。社員証がカードキーを兼ねているせいで、わたしはわざわざ家まで一度取りに帰ったのだ。それを扉の取っ手上部に近づける。短い電子音の後に、かちゃり、という開錠音がした。


 ちょっと重たい扉を両手で開けて、大きく息を吸う。


「おはようございます!」


 いつもの挨拶だけど、いつもより声が弾んだ。

評価やブックマークしてくれている人、ありがとうございます!

評価はスーパーチャット、ブックマークはチャンネル登録みたいなものですからね。

評価してくれてる人の名前がわかれば読み上げさせてもらいたいくらいですけど、わからない仕様になっているのか、それとも僕が見方をわかっていないだけなのか、名前が見れないのでできません。とても残念です。スーパーチャットありがとうございます。


読んでいておもしろいと思ってもらえるように、これからもがんばります!

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