「よろしくお願いします」
面接日、当日。
下ろし立ての小洒落たスーツに身を包んだ僕は、都内某所でオフィスビルを見上げていた。
この十階建てのオフィスビルの七階と八階を『New Tale』は間借りしているようだ。デザインとしては多少茶目っ気があって小綺麗になっているくらいで、外観は周辺のビルとおよそ大差はない。VTuber事務所という仕事の内容を考えれば、見栄えのいい建物を一棟まるごと借り受ける、みたいなことをする必要はないということなのだろう。
「……ふう」
ため息を一つ吐いた。
このため息が緊張感などが理由であれば、まだ救いがあっただろう。頑張ろうとか上手くやらなければといった前向きな気持ちがあるからこその緊張なのだから。
少なくとも、諦観や後ろめたさから出すべきものではない。
見上げていた視線を下げて、左手首に持っていく。昔に就職祝いで礼ちゃんから贈られたシックなデザインの腕時計は、十五時三十分を少し回ったあたりを刻んでいた。
面接予定時間は十五時だ。冷静に考えても、もちろん興奮して考えても遅刻だ。完全に予定時間をぶっちぎっている。
予定時間ジャストに到着していてもそれはほとんど遅刻のようなものだ。基本的には十分前に、あまり早くても先方に迷惑がかかる場合があるのでケースバイケースだとしても、五分前には到着してしかるべきだろう。前の会社では、十分前だろうと三十分前だろうと、なんなら一時間前だとしても新人は一番最初に来ていなければ問答無用で遅刻扱いでお説教を受けたりしたけれど、きっと普通の会社ではそこまで言われはしないはずだ。
三十分以上遅刻している僕が今更何を言ったところで説得力も教訓もない。
「……礼ちゃんに言ったら、怒られちゃいそうだなあ……」
本当に、実に僕らしい。優先順位を履き違えるあたり、実に馬鹿らしい。
無論、先方には遅れてしまう旨を伝えてはいたが、結果は火を見るより明らかだ。面接試験に遅れるなど言語道断。合否はもう決まりきっている。
今更行ったところで、先方に応対をさせてしまう分、迷惑になるのも理解している。手遅れ感は否めない。今からでも辞退を申し出るのが、無駄な仕事を増やさない一番良い方法なのではないかとすら思っている。
でも、わざわざ忙しい中時間を作っていただいたのに直接出向かずに済ませようとするのも、申し訳がない。とどのつまり、自分に罪悪感が残るからちゃんと面と向かって謝りたいという、ただの自己満足だ。
ビルに入ってエレベーターに乗り込み、七階のボタンを押す。
ゆっくりと閉まっていく扉を、うまく働かない頭でぼんやりと視界に入れながら、脱いでいたジャケットに腕を通す。
話のネタになるかもしれないからと礼ちゃんから『New Tale』に所属しているオススメのVTuberさんを教えてもらったけれど、それも無駄になってしまった。
まあ、礼ちゃんの先輩や、同期や、後輩の方々がどれだけすごくても、ゲームの腕が良くても、実況が秀逸でも、声に魅力があっても、トークがキレていても、僕は礼ちゃん単推しなのでそういう意味では最初から無駄ではあった。
ただ、礼ちゃんの先輩にあたる一期生のお一方は、目を引く人物だった。定期的に視聴させてもらおうと思ったのは今のところその先輩だけだ。推してるのは礼ちゃんだけだけど。
ジャケットのボタンを留めようとしていると、閉まりつつある扉の隙間から、エレベーターのほうへと早歩き気味に向かってくるパンツスーツ姿の女性が見えた。ジャケットのボタンを留めていた手を、閉まり切る寸前の扉へと移す。エレベーターの開ボタンを押しては間に合わないと思ったのだ。
エレベーターは、がこん、と抗議じみた小さな音を立てて再び開き、駆け込んできた女性を迎え入れた。
「すいません! ありがとうございますっ!」
小走りといえど走ってきたからか、少し乱れた髪と衣服を整えて、しっかりと僕の顔を見ながら感謝を口にした。
スーツ姿だというのに『高校生かな?』と思わせるほど幼い顔立ちが印象の女性だった。失礼を承知で言わせてもらうと、学生服のほうがよっぽど似合っているだろう。
見上げるように傾けるダークブラウン色をしたショートボブの頭は、僕の胸元にぎりぎり届くかといった具合でかなり小柄だ。くりくりと大きな団栗眼は小動物のような愛嬌がある。
そういった外見も幼い雰囲気を助長しているのかもしれないが、何よりも特徴的だったのはその声だった。たった一言だけでいい声だというのがわかる。見た目を裏切らない透明感のある、鈴を転がすような愛らしい声だった。それが仕草と相まって、幼い印象を抱かせる。
一度耳にすればしばらくは忘れられそうにない。そうそうない素敵な声に、自分の置かれた状況も忘れて穏やかな気持ちになりながら声をかける。
「いえ、お気になさらず。何階ですか?」
「っ! ありがとうございます。七階でお願いします」
どうやらこの女性は僕と向かう先が同じようだ。はは、奇遇ですね。
「……はい」
僕は既に点灯している七階のボタンをもう一度押した。
十中八九『New Tale』に関わりのある人だ。
彼女の行き先を聞く前から点灯していた七階のボタン。それを見て、パンツスーツの女性は特に何も言うことはなかった。強いて前後で変化を挙げるなら、彼女のにこにこ笑顔が純度を増したような気がするくらいだ。眩しい、直視できないその笑顔。
人力なのかなと危惧するほどゆっくり上っていくエレベーターの中、もちろんBGMなんて流れていないので音がよく響く。年季の入ったエレベーターの駆動音と、奇抜な呼吸法で乱れた息を整えようとしている彼女の吐息が、やけに鮮明に聞こえた。
ずいぶんと急いでいたのか、女性はシャツのボタンを外し、ハンカチで浮いていた汗を拭っている。僕の視点からでは身長差から胸元が危ういことになっているが、女性は気付く様子もない。
どんな些細なことがセクハラになるかわからない、慣用句ですらセクハラになりかねないこの世知辛い現代。男の僕では、見ず知らずの女性に注意することなどできはしない。僕にできることは、せめて恥をかかせないように階数を表示するインジケーターに視線を固定しておくことくらいだった。
そういえばこの人、エレベーターまで走ってきていたからね。朝晩は冷えるから厚着はするけど、今の時期、日が出てる昼過ぎに急いで走ってたら、汗もかくよね仕方ない。
階数を訊ねる以上のことを僕から口にできるはずもなく、七階に到着した。してしまった。
扉が開かれる。『開』のボタンを押して、どうぞ、と先に彼女が降りるよう誘導したのは、後ろ暗い気持ちもあったからかもしれない。
ここにきて、お詫びの菓子折りの一つも用意していないことに気付いてしまった。僕の中ではもう面接どころではなく、謝罪のために来ているというのに。まあ詫びの品なんて買う暇はまるでなかったし、そんなもの買う暇があるのならその時間走って早く行けよって感じなので、思い出したところでどうしようもない。
何度目かの感謝の言葉とともに、彼女はエレベーターから跳ねるように七階のフロアに足をつける。柔らかそうなショートボブの髪がふわりと広がり、一拍遅れて彼女に追従する。これが白のロングワンピースだと抜群に可憐だっただろうという感想を抱いたほどに、スーツ姿が似合わない。
明朗な声で、清廉な笑顔で、彼女は振り向いた。これが白のフレアワンピースなら抜群に(以下略)絶望的にスーツが似合わない。
「大丈夫ですよ! 一緒に行きましょう!」
「……え? あ、はい……」
パンツスーツの女性に導かれるままにエレベーターを降り、フロアを進んで扉まで来た。
女性は提げていたバッグからカードを取り出し、扉の取っ手に近づけた。ぴっ、と電子音が鳴り、続いて、かちゃりと金属音が静かで無機質なフロアに反響する。今日日珍しくもなくなったカードキータイプの電子錠だ。
疑いもしていなかったが、やはり目の前の女性は社員さんだった。
申し訳なさも行くところまで行くと、胃が痛くなったりもしないらしい。女性が開けてくれた扉を、会釈するように軽く頭を下げながら入る。
「おはようございます!」
よく通る声を大きく張るように、女性は出社を宣言した。きっとこの階にいる全員へと、彼女が出勤したことが伝わったことだろう。すぐ隣に立っている僕なんてそれはもう、鼓膜から脳の髄までびりびりと痺れるほどよく伝わっている。
がちゃり、と音を立てて、近くの扉が開かれる。
あの大音声だ、偶然などということはもちろんないだろう。まず間違いなくお出迎えだ。
一番近くの扉から姿を現したのは、きっちりかっちりとスーツを着こなす女性だった。腰にまで届きそうな黒の柳髪をなびかせ、品の良さを感じる足運びで歩み寄る。
僕の目の前で立ち止まると、すっ、と腕が鞭のようにしなやかに伸び、細く長い指が顔面を捉えた。
僕の顔面に、ではない。僕の隣にいる、名も知らぬ魅力的な声をしている女性にだ。
呻くような悲鳴をあげる女性を横目に、とりあえずどうすることもできない僕は頭を下げる。
「本日十五時に面接の案内をいただいた、恩徳仁義です。この度は遅れてしまい、誠に申し訳ございません」
「遅れそうだということは前もってご連絡いただきました。そちらについてはこちらも了承しておりますのでお気になさらず。ただ次回からはこういうことはないよう、お願いします」
「ご配慮とお気遣い、ありがとうございます」
顔面を掴まれている女性のすぐ隣で、内心慌てふためきながら定型文を述べる。こんな異常な場でよく正常に舌が回ったものだと自分で自分を称賛したくなる。
僕はてっきりこの場で、踵を返してとっとと帰れ、と言われるかと思っていたけれど、一応面接自体はしてくれるようだ。
助かった。これで、面接は行ったけど残念ながら落ちちゃった、ってことにできる。礼ちゃんに顔向けできなくなるところだった。
「わたしにアイアンクローしながら社会人の見本みたいな会話をしないでよぉ!」
「いつも静かに入ってきなさいと言っているでしょう」
「喋る時ははきはきと! って教えてもらったのに!」
「はきはきと喋ることと腹から全力で発声することは違うわ。もしかしたら面接の時間に間に合わないのではないかと、私は内心ひやひやしていたのよ。それがまさか応募者と一緒に出勤するなんてね。誇りなさい、あなたは私の想像を超えたわ」
「わかっ、わかったからっ! 誇るからこの手を離してっ! お客さんの前だからっ……」
「まず謝りなさい」
「言ってることがちがうっ?!」
アイアンクローから挨拶が始まった時には、この会社は物理的なハラスメントが常態化している魔境かと思ったが、やり取りを見るにどうやらこの二人の仲が親密だからこその限定的なコミュニケーションのようだ。ユーモアとアットホームさを推しているのかもしれない。
足を踏み入れて数十秒、こんなところに所属していて礼ちゃんは大丈夫だろうかと心配になったけれど、これならお兄ちゃんも安心です。
表情は変わりなく、それでもどこか渋々といった様子で黒髪の女性は手を離した。
シルバーフレームのシンプルながら洗練されたデザインの眼鏡越しに、ようやく黒髪の女性と視線が合った。アイアンクローに使われていた手を引き戻して眼鏡のブリッジに指をそえてかけ直したのち、頭を下げた。
「申し遅れました。私は『New Tale』で事務と一部タレントのマネージャーをしております、安生地美影です」
「ご丁寧にありがとうございます。私は……と、失礼。もう名乗っていましたね」
釣られて二度目の自己紹介をするところだった。人との関わりが希薄すぎて、他人と会話するだけで緊張してしまう。
僕のしたポカに、くす、と安生地さんはほのかに頬を緩めた。
「ええ、もうお伺いしましたね」
無表情がニュートラルな方なのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。ほんのかすかに浮かべた笑みは、第一印象で抱いていた冷淡な女性というイメージを塗り替えるのに充分だった。
緩んだ空気を切り替えるように安生地さんはこほん、と一つ咳払いを挟む。
「……失礼。それでは応接室へ案内します。こちらへ……」
「ちょっとっ! わたしまだ自己紹介してないよ!」
「あら……まだいたの?」
「いるよ!? 動いてないよ! あーちゃんさっきからテンション上がってるのかなんなのか知らないけどちょっとひどむぐっ!」
あんまりな扱いに文句を言おうとしていた女性は、安生地さんの手によって物理的に沈黙させられた。安生地さんの白皙の手が女性の顔の下半分を抑えたのだ。
「そう、自己紹介だったわね。あなたは応接室でやればいいと思ったのよ。さ、どうぞ」
「むぐ、むぐぐっ」
「安生地さん、そのままだと喋れないのでは……」
「ごめんなさい」
僕がそう声をかけると、安生地さんは口を噤んで手を引っ込めた。見た目から怜悧で冷静で有能な女性かと勝手に想像を膨らませていたが、もしかするともしかするのではこの人。いや、これで判断するのは早計だ。
「ぷはぁっ! へぁっ、ふぇっ」
未だに名も知らぬ彼女は、どうやら口と同時に鼻も塞がれていたらしく深く息を継いでいた。やはりずいぶん独特な呼吸法である。
一歩下がった安生地さんはそんな彼女に手を向けた。
「彼女は雨宿雫。主に庶務雑用と諸般の事由により採用担当もしています」
「全部言われた!? ひどいよあーちゃん!」
「採用担当の方でしたか。えと、文面で感じた印象とは……けっこう」
「雨宿が文章を書いてしまうと友人へのメールのようになってしまうので文面は私が推敲しました」
「それは……えー、その」
「お気になさらず、素直に仰っていただいて結構です」
「腑に落ちました」
「だそうよ、雫」
「自分のいいとこを見せたいのかなんなのか知らないけどっ、今のところ嫌な女の見本市みたいになってるからね?! そういうの男の人も気づくらしいからね?!」
「声が大きいわ。すこし落ち着きなさい。ほら深呼吸でもして」
「今落ち着くべきはあーちゃんだよ! どうしたの?! 空回り方が尋常じゃないよ?! 想像の五倍はひどいよ?!」
「空回ってなんてないわ」
ようやく名前が判明したいい声をした女性、雨宿さんを手のひらで押しのけるようにして距離を取ってから、安生地さんは僕に顔を向けた。
「空回っていません」
「そ……そうですね」
なぜかもう一度、わざわざ僕の顔を見ながら繰り返して否定した。
安生地さんが普段どのように振る舞っているかは知らないが、よく知らない僕の目から見ても今のあなたは空回っていると思います。でもさすがに本人からの強烈な圧を眼前で受けながら指摘することはできなかった。
しかし、すごい人だ。こんな状態になっても顔色ひとつ変わらないなんて。とてつもないポーカーフェイス。カードゲームを主とした対人ゲームにとても強そう。あれだけ雨宿さんに言われていたのに動揺している気配がまるでない。
慄いている僕から同意の言葉を引き出すや、安生地さんは満足げにかつかつと高いヒールのパンプスを鳴らしながら歩き、とある部屋の扉を開けた。
「こちらが応接室になります。準備しますので、こちらで少々お待ちください」
「はい、失礼します」
面接室。安生地さん曰く応接室に足を踏み入れる。
入ってみて思ったけれど、たしかに面接するような雰囲気はない。
僕の中の面接のイメージだと、装飾の乏しい質素な部屋にロングテーブルと安っぽいパイプ椅子があるような、そんな部屋だった。
ここは毛色が違う。
中央付近に重厚感のある木目調のローテーブルがあり、それを挟むような形で革張りの二人掛けのソファが二脚あった。
他にも壁には所属Vtuberのポスターが貼られていたり、ラックにはグッズがあったりと、なかなかに個性のあるコーディネートをしている。
そのグッズの中に礼ちゃんの仮初の姿、レイラ・エンヴィのグッズもあった。なにこれ欲しいんですけど。買取とかさせてくれませんか。
安生地さんは、こちらで少々お待ちください、と再び僕に声をかけると、艶やかな黒髪を揺らめかせながら部屋を出る。すぐに出ることになるからと、部屋には入らずに扉の近くで待っていた雨宿さんはひらひらと手を振って『すぐ戻りますからね』と言いながら扉を閉めた。
これから面接をするような緊張感は終始微塵もなかったけれど、これでいいのだろうか。
とりあえず、ずっと突っ立って待っていられても彼女たちも困惑するだろうから、下座側のソファに腰掛けながら待つこととする。
「…………」
遅刻してしまった時は完全に詰んだと思われたが、お二方を見る限りはそこまで悪印象ではなかったようだ。応対は棘のある物ではなかったし、言葉使いも(安生地さんがそういう性格なだけかもしれないが)丁寧で、僕の体感では好意的な部類だったように思う。
これは本当に、礼ちゃんと一緒にVtuberをやる未来もあるのかもしれない。絶対に無理だと断定してしまっていたが、もしかしたら可能性はあるのかもしれない。
兼業という形で、Vtuberをしながら普通のお仕事をする人だっているようだし、そういった生活を一考してみるのもいいかもしれない。なにより今現在僕はニートだし。周囲にうまく紛れ込むことができない社会不適合者にしてニートだし。
などと、僕にしては珍しくどこか楽観的に考えてしまっていた。
二人が戻ってくるまでの間、Vtuberになれたら礼ちゃんとどんなことをしようかな、などと妄想していた。広大なフィールドを使用して家屋やオブジェクトなどを制作するような建築系の大変人気のあるタイトルを一緒にやるのも楽しそうだし、礼ちゃんなら好きなFPSのゲームをやりたいだなんて言いそうだし、二人で歌を歌ったりすることもできるかもしれない。面白くなるのかは疑問だが単純に雑談などもやってみたいな、などと。
採用担当の雨宿さんと、その同僚で外見だけはクールなキャリアウーマンを地で行く安生地さんが気さくに接してくれていたことで、基本的にペシミスティックなリアリストである僕でも勘違いしていたのだ。
そのような生温い上に甘ったるい浅慮で軽薄な目論見を木っ端微塵に打ち砕いてくれたのは、僕が座り心地の素晴らしいソファに腰掛けてから十分ほどが経過した頃だった。
「お待たせしました」
「恩徳さんすいません! お待たせしました!」
ノックの後、扉が開かれた。
僕は立ち上がり、扉へと体を向ける。
先陣を切った安生地さんの手にはクリアファイルとタブレット端末、続く雨宿さんはお盆を両手で持っていた。盆の上には液体が注がれた湯飲みがある。お茶でも持ってきてくれたのだろう。
と、冷静に状況を把握できていたのはそこまでだった。
「いえ、待ってま……せん」
二人の後ろに、まだ人がいた。しかも一人二人ではない。数人いらっしゃる。
失礼します、とそれぞれ一言添えながら入室する。応接室を横切るついでに応募者の顔を見に来ただけなのだろう、という僕の淡い期待は裏切られた。
隠せているかわからない動揺を自分なりに必死に隠しながら、その方々に一礼して、視線を正面に移動させる。
ローテーブルには湯飲みが三つ置かれていた。
「好きに飲んじゃってくださいね」
「お気遣いありがとうございます。いただきます」
迷走し始めた頭のままで、笑みのような何かを顔面に貼り付けながら空虚な言葉を吐いた。
僕の正面の席には採用担当であるらしい雨宿さんが、その隣には安生地さんが着座した。
それを見てから、僕も再び座り直す。
急激に渇いてきた喉を潤すため、さっそくお茶を口に含んだ。水でももう少し味があるよな、と思ったくらいに味がわからない。
二人の後ろから続々と入ってきた『New Tale』の関係者であろう方々は、二人が腰を落としたソファの後ろの壁際にぞろぞろと立ち並んだ。小声で隣の人と言葉を交わしている。
もちろん視線は面接の対象である僕に向かっている。
そうか。なるほど。これは初めてだ。
これから始まるのが世に聞く、そして悪名高い『圧迫面接』というやつなのか。
先程までの浮かれた気分が嘘のように沈む。
もしかしたら『New Tale』では通例として、面接の時には手隙の社員が同席するのかも、などとどうにかいい方向へと考え方を変えようとしたけれどそれも難しいようだ。
雨宿さんと安生地さんの後ろに並ぶ方々には椅子も用意されていないし、面接時に目を通すような資料もない。つまりこれは、面接担当の雨宿さんと補佐の安生地さん以外の方々が同席することは、当初の予定にはなかったということに他ならない。
ならばなぜ当初の予定と異なり、面接官を担っていない後ろの方々が部屋にいるのか。考えたくなかったことだが、思いつく答えはひとつしかない。
面接の時間に遅刻するような社会を舐めた大馬鹿者を、大人数で威圧してボロを出させようとしているのだ。
そりゃそうだ。いくら事前に連絡したところで遅刻してることには違いないんだ。なのに手土産の一つもなく、気持ちのこもっていない謝罪でやり過ごそうとして、社会の艱難辛苦を味わってなさそうなへらへらした態度で重役出勤してくれば誰だって癪に障るというもの。とくに安生地さんは、雨宿さんとの会話から推察するに予定時間前から僕の面接の為に待機してくださっていた様子だし、思うところの一つや二つや三つや四つはあるだろう。
完成度の高いポーカーフェイスだなと思ってはいたけれど、まさか顔色を窺うことに関して他の追随を許さないと自負していた僕の目をも欺くとは驚嘆する。あの無表情のマスクの下で、唇を噛み締めながら懸命に怒鳴りつけたい気持ちを抑え込んでいたというのか。まるで読み取れなかった。
ちょっと優しく接されただけで、もしかして好印象なのでは、などと血迷って短絡的で楽観的な妄想をしていた自分が恥ずかしい。遅刻した時点で評価などマイナスからのスタートだ。気を使った言葉をかけてくれたのは大人としての礼を失さないためのものであり、いわば社会人の慣用句でしかなかったのだ。社交辞令を間に受ける愚か者がここにいた。
であるならばこれは圧迫面接などではなく、洗礼のようなものなのだ。学生であればともかく、社会人には遅刻など許されない。身を以て、痛みを伴って少々圧をかけながら教えてくれようとしている。
こんな目に遭うんだから遅刻なんかすんなよ、といういわば社会人のマナー教育の場だ。
この後行われることになるのであろう面接を想像すると血の気が引くし身の毛もよだつが、誠心誠意真摯に受けよう。
多少は溜飲を下げてもらえると嬉しいな。
廊下での和やかだった一幕がまるで夢か幻だったかのように張り詰めた室内。その渦中にいる僕は深く息を吸って、吐く。
安生地さんも言っていた。落ち着く時には深呼吸だ。
後ろの方々を出来る限り意識しないようにして、正面で座るにこにこ顔の雨宿さんに目線を合わせる。
なぜこの人はこんなにほわほわしているのだろう。でも、癒しのオーラを振りまいている雨宿さんのおかげで少し落ち着いた。
だいぶベーシックな面接のプロセスからは道を外れているが、そろそろ始めてもらおう。
僕は深く、頭を下げた。
「よろしくお願いします」