『どぎつい同人誌事件』
お兄さんが学校で優等生をしている礼愛を褒めたり、そんな礼愛に付き合っているあたしに感謝を述べてくれたりしているうちに、しばしば訪れていた礼愛の家に到着した。
最近は礼愛のほうにいろいろあったり、あたしも忙しかったこともあって足が遠のいていたが、相も変わらず大きいお家だ。以前にお邪魔した時は少し荒れていたお庭が、今はとてもきれいに剪定されている。花壇にはお花が彩り鮮やかに咲き誇っていた。ずいぶん華やかになったものだ。
丁寧な制動で家の門扉の前に車が停められる。
お兄さんにお礼を言って、車を降りようとドアに手を、かけられなかった。
ドアに触れる前に開いた。
空振ったせいで体が前のめりになる。
「……あぇ?」
「ちょっと夢結、早く降りてー」
先の例えではないが、タクシーではないのだから自動で扉は開かない。
お兄さんが、ごく自然な表情と仕草でドアを開けてくれたのだ。嫌々やっているわけでもなく、格好つけや見栄のようにも見えない。ごく自然、ごく当然といった様子だ。
「吾妻さん?」
面食らって足が出なかったあたしに、お兄さんが声をかけてくれた。小首を傾げつつ、あたしに手を差し出している。
このお家の花壇よりも百花繚乱咲き乱れるお花畑を頭の中に備えているあたしには、なんだかお姫様扱いのように感じられて照れくさくも嬉しかった。とてもではないが目は合わせられないので頭を下げながら、お兄さんの大きな手のひらに震える手を預けて降車する。
コミュ障は目を見て話すなんてことはできない仕様になっている。手と手を触れ合わせただけでもあたしからすれば上出来なのだ。
「わ、わざわざ……あ、ありがとうございます……」
「どういたしまして」
あたしのなにがおかしかったのか、少し笑いながらお兄さんが返してくれた。ど、どこか変なところがあったのだろうか、すごく恥ずかしい。
髪の毛でも跳ねてるのかな、と手櫛で整えながらお兄さんの横を通り過ぎた時、こういう言い方をするとあたしの中の気持ち悪いオタクみが露骨に漏れ出てしまって自分で自分が気持ち悪い(二回目)けど、すごく良い匂いがした。柑橘系みたいな石鹸みたいな、よくわからないけれど爽やかな匂いだった。自分で自分が気持ち悪い(三回目)。
もうあたしが気持ち悪いのはどうあっても避けられないので、いっそのこと開き直る。後ろに回ってお兄さんを盗み見た。
服装は地味めだけど、すらりとしたスタイルだからか印象よく映る。そしてなにより背が高い。礼愛も女子の中では背が高いが、百六十四だか百六十五センチだかある礼愛よりもさらに十五センチは優に高い。もしかしたら百八十センチ以上あるのだろうか。身長の高い家系なのかもしれない。いつも見上げている立場としてはとても羨ましい。
なお、礼愛より身長が五〜六センチほど低いあたしと礼愛の体重は同じくらいの模様。違う。あたしは太っていない。礼愛が痩せすぎなのだ。あたしは太っていない。
「お兄ちゃんありがとー」
「いえいえ。礼ちゃん、車をガレージに入れるから先に吾妻さんをリビングに案内しててね」
「わかったー」
あたしの後に続いて礼愛がお兄さんに手を引かれながら、ぴょんと跳ねるように車を降りる。
礼愛は何も違和感がなかったのか、お兄さんに簡潔に礼を言うとあたしの手を引き、玄関へと向かう。礼愛はいつも送迎してもらっているから慣れているのだろう。
なるほど、お兄さんは礼愛とあたしのリアクションの差が面白かったのか。
ここで一旦お兄さんとは別れ、あたしと礼愛は玄関へ向かう。
「何回も来てるんだからだいたいの場所わかるよね?」
「まぁね。そういえば、何回も来てるわりにお兄さんとは会ったことなかったね」
礼愛の後ろについて行って恩徳家にお邪魔する。玄関でローファーを脱ぎ、廊下を進む。
「お兄ちゃんは前のお仕事してる時は、帰ってくるのは私の世話する時と寝る時だけみたいな感じだったからね。……私を学校に送って、ご飯作るのも絶対に欠かさないで、少ない休みの日には私のわがまま聞いて……ばかだよね。そんなことしないで、少しでも休んでればよかったのにね」
「礼愛……」
二〜三ヶ月くらい前のことだっただろうか。礼愛が突然学校を休みがちになった時期があった。心配になって連絡したけれどその時にお兄さんが倒れた、という話を聞いた。過労が原因だったと記憶している。
あの頃の礼愛の情緒不安定ぶりは見ていて辛いほどだった。正直に言って痛ましかった。こうして今のように明るく笑っているのが奇跡のように感じるくらいには。
学校を休んでいたのは、お兄さんの目が覚めるまで寝ずにずっとそばに居続けていたから、だそうだ。『目が覚めた時に誰もいなかったら寂しいでしょ?』と、そう笑って礼愛は話していたのだが、あたしは笑えなかった。いつものブラコントークなら笑えたけど、その時ばかりはさすがに笑えなかった。お兄さんが倒れてから目覚めるまでの二日間、ずっと隣で寄り添っていたと言うのだから苦笑いすら作れなかった。
きっと、なんて曖昧な物言いすら必要ない。断言できる。礼愛はお兄さんが起きるまで、ずっと隣で見守り続けていたことだろう。それこそ、何日でも、何十日でも。
礼愛のご両親は共働きで、また立場も責任もあるご職業をされているらしく家を空けがちにしていて、長い間お兄さんが家の事と礼愛の面倒を見てきたそうだ。普通の兄妹以上に二人きりでいる時間が長かったからこその、緊密な距離感と関係性なのだろう。
兄であり、母親代わりであり、父親代わりでもある。
家族に分散して向けられるべき愛情がお兄さん一人に集中していると考えれば、礼愛の度を超えたブラコン具合にも納得できる気がしないでもない。しないでもないが、やはり同性の兄弟姉妹ならともかく異性兄妹でこれほど近しい距離感はかなり稀だとは思う。
「それはそうと、お兄ちゃんと喋る時の夢結、めちゃくちゃかわいかったあ。なにあれ、あんなキャラじゃないでしょ。借りてきた猫だったよね」
一瞬しおらしくなったかと思えばすぐこれだ。湿っぽくなった空気を変えるためなのかもしれないが、あたしへの皺寄せがすごい。
礼愛が振り返って、艶のある黒髪をふわりと踊らせながら、含みを持たせるようににやりと笑った。背が高く、大人びた顔の礼愛がそんな仕草をすると悪女感が溢れ出る。
なんだよ、様になりすぎだよ。どこでそんな格好いい仕草やいい女ムーブを教えてもらえるの。そういう塾でもあるのか。あたしも通いたい。
し、しかし、ま、負けないぞ。ここまでのあたしの体たらくを振り返ると(きっとここからのあたしもそうだろうけど)わりと言い訳のしようもないほど情けないが、せめてもの反抗で睨みつけながら食い下がる。
「しょ、しょうがないじゃん。男の人と話す機会あんまりないんだし、そもそも人見知りだし……」
全面降伏だった。反論にもなっていない。
だって仕方がないじゃない。顔よし、性格よし、声よし、香りよし、スタイルよしと、ただでさえ近寄り難い人が相手なのに、こちとら(気が早いが)推しを目の前にしたオタクぞ。平常心なんざ木っ端微塵だ。
礼愛が学校でお兄さんの話をめちゃくちゃするくせに顔は絶対に見せない理由がわかった。
女子校の女なんぞ、外ではお淑やかぶってお高くとまっているが、内側は飢えた獣のようなものである。若いだけのたいしてかっこよくもない男性教師が生徒の間で持て囃されるくらいだ。普通くらいの顔をしていればモテるといっていい。
それがお兄さんレベルともなれば、紹介してくれとクラスメイトが押しかけてくるのは自明の理。礼愛はそれをよく理解しているのだ。
ただ、礼愛みたいなブラコン拗らせた面倒くさい妹が四六時中くっついてくると予想できるのに、それでもお兄さんにアタックしようとする猛者がそう何人もいるとは思えないけど。
からかわれながら、ドアを開いてリビングダイニングへと入る礼愛の背に続く。
礼愛は一度、清掃と整理整頓がなされたアイランドキッチンに寄ってケーキの入った箱を置くと、また戻ってきて奥にあるテーブルへと進む。あたしは自分の家のものとはいろいろと様相が異なっているキッチンを横目に見ながら、礼愛を追う。
椅子を一脚引いて、礼愛はあたしに目を向けた。
「はい、夢結は座って待っててね」
「あたしも手伝おうか?」
「ううん、いいから。座ってて」
礼愛があたしに客人対応するなんて、とても珍しいことだ。
あたしをこき使うことに関してはあたしの姉妹と肩を並べるくらい横着な礼愛が、あたしに気を使うなんていったいどんなパラダイムシフトがあったのか。成長しているのね、礼愛も。
「いつもならもちろん手伝わせるところだけど、今日はお兄ちゃんがいるからね。お兄ちゃんが見てるところでお客さんに手伝わせるわけにはいかないよ。お客さんをおもてなしすることもできない子だって思われちゃう」
「あぁ……そっか。そうだよね。あんたはそういう子だもんね」
あたしがどうこうではなくて、お兄さんに見栄を張るためだった。違和感がこれっぽっちもないくらい腑に落ちた。あたしのためじゃないのかよ、と落胆するよりも先に、そうそう礼愛はこうじゃないと、って安心した自分が悲しい。
「そういえば。あんた、お兄さんの前じゃブラコン隠してんの? あぁいや、ぜんぜん隠れてはないんだけど」
「隠すも隠さないもないし。そもそもブラコンじゃないし」
「……は?」
「そもそもブラコンじゃないし」
「聞こえなかったわけじゃないから! ちょ、ちょっと、ちょっと待って。そこからの否定は無理があるよ。あたしも姉妹いるし仲良いほうだとは思ってるけど、そこまでべったりじゃないし」
「それはきっと同性の姉妹だからだよ。兄妹だと勝手が違うの」
「えー……そういうもんなの?」
「そう。それか頼りがいの有無。安心感」
「ものすごい鋭角に姉がディスられたんだけどあのお兄さんを見たらなんも言えないわ。たしかにあたしの姉に頼りがいはない。安心感もない」
「つまりはそういうことだね。これがふつうなの。頼りがいのあるお兄ちゃんが夢結にもいれば、きっと共感できたはずだよ」
「う、ううん……すぐには納得できない……」
「ってことで、私はお兄ちゃんにちゃんとできるところをアピールしなくちゃいけないから、夢結はそこでぼけっと能天気に座ってて」
「お兄さんがいなくなった途端に口が悪くなったな! この猫被り!」
「ふっ、なんとでも言うがいい借りてきた猫め。さーてと、お湯沸かしておかなくちゃ」
鼻歌を歌いながらキッチンへと向かう礼愛に、あたしはぐぬぬ、と一人歯噛みする。
あたしはきっとすでにお兄さんに変な子だと思われていることだろう。今日はまだ奇行に及んでいない自信はあるが、以前通話越しでテンション高くオタク特有の早口トークなどやらかしてしまった、ような気がする。あの日の記憶は鮮明ではないけれど、何かいろいろしでかした気がする。きっとそれがあたしのイメージに爪痕を残している。とても大きくて深い、致命傷に近い爪痕だ。もはや傷跡だ。
でもこのまま手を拱いてはいられない。なによりも自分をだしにされるのが悔しい。
そうだ、邪魔をしてやろう。
「礼愛一人じゃ時間かかるでしょぉ、手伝ってあげるよぉ」
「手伝う気が感じられない猫撫で声だ! いいから座っててってば!」
「礼愛置いてる場所わかるぅ? あたしティーカップ用意するねぇ」
「この家に住んでるんだから知ってるよ!」
椅子から腰を上げ、勝手知ったるというふうに食器棚の前に行く。戸を開いてティーカップを取り出そうとしたところで礼愛に手首を掴まれた。
「ちょっ、礼愛……カップ落としたらどうすんの」
「いっぱいあるから一個くらい落としても大丈夫! それより手伝わなくたっていいってば!」
「まぁまぁ」
「まあまあじゃない! 夢結はお客さんなんだから座ってたらいいの!」
「いまさら感のある気遣いだね」
「わかったんならはやく席に座る! お兄ちゃん戻ってきちゃうでしょ!」
「やっぱり猫被りじゃないの! 少しは取り繕う努力をしろ!」
右手の指先でつまんだソーサーと左手のカップを落とさないようにしているあたしと、そんなあたしの手首を掴んで力づくでテーブルのあるところまで押し込もうとする礼愛。
きゃあきゃあやいやいと姦しく泥試合を繰り広げていたからだろう、廊下を歩く足音にも扉の開く音にも気づかなかった。
くす、と笑いを噛み殺したような声に驚いて肩が跳ね上がった。カップを落とさなかったのは奇跡に近い。
「ああ、ごめんね。こほんっ……決着がつくまでどうぞ続けてもらって」
「続けないよ! 入ってきてたんなら声かけてよお兄ちゃん!」
「あ、あわ、あばばば……」
「仲良さそうに戯れてたから、邪魔しちゃ悪いなあって」
そう言いながら、またお兄さんはくすくすと楽しそうに微笑ましそうに笑みをこぼしていた。
なに笑とんねん。こちとら恥ずかしいところばっかり見られて心臓ばくばくじゃい。
でもお兄さんの笑顔はとても柔らかくて、どことなく嬉しそうで、なにより暖かなもので、そこはかとなく幼く見えた。
なにこの人めっちゃ好き。絶対推す(推してる)。
「もうっ……って、お兄ちゃん。その袋は?」
からかわれてほんのりと上気した顔で礼愛が臍を曲げていたが、お兄さんの手にある袋を認めて小首をかしげた。
尋ねられたお兄さんは一瞬きょとんとした表情を浮かべると、思い出したかのように細く長い指で摘んでいた袋を目線のあたりまで掲げた。なにやらよくわからない葉っぱがプリントされている、手のひらくらいのサイズの袋だ。英語で商品名が書かれている。しかし残念ながら、見慣れない英単語をすぐに読み取れるような英語力をあたしは持ち合わせていない。
「ん? ああ、ハーブティーを淹れようかと思って部屋から持ってきたんだ」
「紅茶やコーヒーじゃなくて?」
「吾妻さんが車から降りた時に深呼吸してたからすこし酔っちゃったのかなと思ったんだけど……」
ちら、とあたしに目を向けるお兄さん。
あたしはあたしできょとんとしていた。
丁寧な運転をしてもらっていたので車酔いになんてなった覚えがない。車内の香りも、よくあるような強烈な消臭剤などの匂いではなく、よく礼愛が纏っているような嗅ぎ慣れた香りに近かったので逆に落ち着いたぐらいだ。
なんでお兄さんはあたしが車酔いしただなんて思ったのだろう。あの時はどちらかというと、車よりもお兄さんに酔っていたくらいなのに。
と、そこまで考えてお兄さんの言葉を思い出した。『深呼吸してた』という言葉を。
「……っ!?」
もしや、ばれていたのか。あたしが無意識のうちにやらかしていたこれ以上ないくらい気持ち悪いムーブを。お兄さんの近くに忍び寄って嗅いでいたことを。気づかれていたというのか。
どうしよう、まったく言葉が出ない。言い訳も誤魔化しもなにも出てこない。頭が真っ白だ、どうしよう。
「そうなの? 夢結、元気そうだったけど……えっ、ちょっ……大丈夫? なんか急に顔色真っ青になってるけど……」
気を抜くと足が震えそうになるあたしの顔を、礼愛が心配そうに覗き込む。心からあたしの体調を慮ってくれているその表情に、心が痛い。
やめて、違うの、礼愛。車酔いなんかじゃなくて、あたしの完全無欠の不審者ムーブだったの。そんなに慈愛に満ちた瞳で見ないで。
もちろん正直なことを言ってあたしの唯一の親友とも呼べるかけがえのない存在を失いたくないし、出逢って数十分で推しから激烈に嫌われたくもないし、入って数分でこのお家から追い出されたくもない。なのでお茶を濁すことにした。
そう、あたしは車から降りたばっかりの時は酔っていたのだ(車にとは言ってない)。嘘はついてない。
「え、あ、うん! もうぜんぜん大丈夫! ありがとね礼愛! お兄さんもお気遣いありがとうございます!」
「ううん、元気になったのならよかったよ。もう大丈夫そうなら紅茶にしようか」
「気分が悪くなったらすぐ言ってよ? なんなら泊まってってもいいんだからね」
「だ、だいじょぶだよー……あはは……」
兄妹揃って精神が善良すぎる。太陽光で滅菌されているような気分だ。
というかお兄さんがいない時ならともかく、お兄さんが在宅している今日にお泊まりとか、あたしの徹夜が確定してしまう。推しと同じ屋根の下で健やかに眠れるほどあたしの肝は据わっていない。
「それじゃあ礼ちゃんと吾妻さんは座っててね。すぐ用意するから」
「あっ! 夢結に邪魔されたせいでお湯しか沸かしてない!」
「ちょっと礼愛、あたしのせいにしないでよ」
「夢結のせいだもん」
「仮にあたしのせいだとしてもあたしのせいにしないでよ」
「夢結の倫理観はいったいどこで育まれたの……」
それはきっと姉の背中を見て育ったからだ。
そんな礼愛とのやり取りを見て、またお兄さんはくすくすと笑みをこぼしていた。
くっ、いつものノリで考えなしに喋ってしまっていた。
「お湯沸かすのに時間がかかると思ってたから助かるよ。吾妻さん、いつもは?」
「え? あ……えと、あの……」
急にお兄さんに訊ねられ、あたしは口をぱくぱくしながらしどろもどろになっていた。え、あたしは何について訊かれたの。それともいつの間にか話が飛んでいたのか。
「お兄ちゃん、言葉が足りなさすぎるよ。ちなみに夢結はミルクティーを飲むことが多いかな」
普段は紅茶をどうやって飲むか、という質問だったようだ。お兄さん、ちょっと言葉が圧縮され過ぎではありませんか。
「あ……ごめんね、吾妻さん。僕はふだん家族としか話さないからどうにもお喋りが下手で……。ミルクティーが好きならウバにしようか。ちょうど最近届いたのがあるしね」
「い、いえ、そんな……あ、ありがとうございます」
さらっと衝撃的な発言をされたようにも思うが、そんなのが気にならないくらい細やかな気配りが嬉しい。
正直、あたしのばか舌では紅茶の微妙で繊細な趣の違いを感じ取れる気はしないけれど。
礼愛と雑談しながら、ふとキッチンに目を向けると、お兄さんが手際よく準備をしていた。急いでいるようには見えないのに仕事が早い。お湯をポットに注ぎ、しばらく蒸らしている間にケーキをお皿に移していた。フォークやティースプーンを用意したところでまだ時間が余っていたのか、一回り大きくて少しだけ底が深いお皿を取り出した。冷蔵庫を開き、何が出てくるのかと思えばクッキーだった。
お茶請けの準備ができたあたりでいい時間になったのか、温めていたと思しきカップに紅茶を注ぐ。ふわぁっといい香りがこちらにまで漂ってきた。
推しがあたしのために紅茶を淹れてくれている。お茶請けも一緒に用意してくれている。
なんだろう、この光景は。出来のいい乙女ゲーかな。幸せ空間だ。心がぽかぽかする。
「……ねえ、夢結。ねえってば」
「なんなの礼愛。あたし今忙しいんだけど」
「忙しいって……お兄ちゃんのこと、ずっと『ぬめっ』と見てるだけじゃん……」
「せめて『じっと』って言ってよ!」
ぬめって、そんなに粘り気のある目つきだったのか、あたしは。もし仮にナメクジが這うような視線だったとしても、そんな言い方はあたしの心の健康のためにもやめてほしい。
礼愛を見やると、あたしに複雑そうな視線を向けていた。困惑というか動揺というか、あるいは不安なのか焦燥なのか。その黒目の大きいつぶらな瞳が揺れる理由が判然としないのは、さまざまな感情が渾然一体に絡んでいるからなのかもしれない。
「…………取らないでよ?」
もしくは、もっと単純にブラコンを拗らせているからかも。
「んふっ」
「なにその気持ち悪い笑い?! ちょっと!」
「大丈夫大丈夫。あたしはこうして尊い光景を眺められるだけで幸せだから」
「……そう。ならいいけど」
「くふふ……ブラコンめ」
「ぶっ、ブラコンじゃないから! お兄ちゃんが夢結と何かあったらお兄ちゃん捕まっちゃうから、その心配をしてるだけだから!」
「はいはい。ブラコンブラコン」
「ちょっ……本当にそんなんじゃないから!」
真っ赤な顔をしながら反論になっていない反論を捲し立てている礼愛を、頬杖をつきながら眺める。
実にいい気分だ。礼愛に対してマウントを取れることなんてそうはない。悦に浸れる時に浸っておこう。
礼愛を軽くいなしていると、お兄さんが真っ白なトレーにティーカップやティーポット、ケーキ、クッキーなどを載せてテーブルまでやってきた。
口元を綻ばせているところを見るに、あたしと礼愛がわちゃわちゃやっているところをまた見られてしまったようだ。
「さっきも見たけど、二人は本当に仲良いね。たしか中学までは違う学校だったんだよね?」
「そうだよー。高校で知り合って、なんだかんだで一緒にいるね。ずっと同じクラスだったし」
お兄さんがカップとソーサーをあたしの前に音もなく置きながら訊ねると、それに礼愛が答えた。あたしもこくこくと頷く。
うちの学校は一学年五クラスあって、毎年進級するときにクラス替えもあるのだけど、奇跡的に三年連続礼愛とは一緒だった。これは本当に助かった。なんせあたし、女子の友だちは少ないから。
女子の友だちは少ない。
こんな言い方だと、まるで男子の友だちは少なくないかのように錯覚させてしまうかもしれない。正確に言うと、こちらに関しては少ないどころかゼロだ。ポジティブに言い換えると、男子よりかは女子の友だちの方が多い。
「二人はどんなふうに知り合ったの? だいぶ礼ちゃんと吾妻さんは……どう言うべきだろう。雰囲気? 見た目の方向性? が違うから、ちょっと気になって」
あたしが友だちの人数を多く見せかけるという悲しい言葉遊びをしていると、お兄さんに問い掛けられた。
「あー、ええと……それはですね……」
礼愛との初エンカウントを思い出すと、苦笑いとともに言い淀むしかできなくなってしまう。
たしかに普通ならあたしと礼愛の見た目では関わり合いになることはなさそうだろう。
あたしは髪もかなり明るめに染めてるし、制服も羞恥心が悲鳴を上げない範囲で着崩している。アクセサリーもちらほらつけていて、意図してやっているとはいえ派手めだ。
しかし、あたしのそういった装いは、強いて言うならばヤマアラシの針みたいなものなのだ。不必要な干渉や女子社会ならではの悪意を向けられないようにするための武装と言っていい。ハリボテだけど。
対して礼愛は校則遵守の優等生だ。艶のある黒髪には一度も色を加えられたことはなく、スカートは膝下丈だし制服はいつも皺なくアイロンがかけられていて、校則に引っかかるような装飾品なども身につけていない。
あたしと礼愛は、まさしく高校生のイメージとして正反対、両極端だろう。
ふつうに過ごしていれば絶対交わることはなかっただろうけど、今はこうしてお家に呼ばれてお兄さんを紹介されるくらい親しくしている。
その起点、きっかけは、一年の時のあの出来事だ。ゴールデンウィーク明けに登校した日、一時限目が始まる前、あたしが落とした『とある本』を礼愛が拾ってくれた、あの。
「夢結が休み明けに『どぎつい同人誌』を教室で落としちゃって、それを拾ったところから交流が始まったんだよ」
「礼愛?!」
礼愛の名前三文字全部に濁点をつけかねない勢いで叫んだ。冷静でなんていられなかった。
体ごと礼愛に向いて抗議する。
いつの間にか紅茶とケーキ、クッキーを配膳し終わったお兄さんがあたしと礼愛の正面に着座していたが、顔は見れそうにない。
「わざわざ『どぎつい』なんて形容詞つけなくてもいいでしょっ……同人誌の部分は本当だからこの際いいけどっ……。いやなんなら同人誌の部分も『本』とか『マンガ』とかって誤魔化してくれてもよかったんじゃないのっ……」
隣に座る礼愛の服を引っ張りながら、語調強めに、でも静かに言い募る。
「でも実際表紙どぎつかったよ? 表紙の時点であんなに濃厚に絡んでいる同人誌もそうないんじゃない? イケメン二人があわあわになって洗いっこ(意味深)して……」
「やめてーっ……せめて声を抑えてーっ」
「その同人誌を見て礼ちゃんが興味を持って仲良くなった、って感じなのかな?」
「だいたいそうだよ!」
あたしが『どぎつい同人誌』を学校に持って行っていたと言う前提でお兄さんが確認し、あたしが『どぎつい同人誌』を学校に持って行っていたことを含めて礼愛が認めた。
「……ああ。……終わった」
これをもちまして、お兄さんに対するあたしの印象を良くしよう作戦は失敗で幕を閉じることとなりました。応援ありがとうございました。
一切の嘘も誇張もなかったけど、礼愛の魔の手によってあたしの印象は地に落ちた。せめてもう少しソフトで可愛げのあるタイプの同人誌だったらまだよかったのに。しかも話を盛っていないせいで弁解の余地がかけらもないのが悲しい。
今日日、学校にいかがわしい本を持ってくるだなんて男子高校生ですらそうそうやらないだろう。脳みその代わりに性欲が詰め込まれている思春期男子でも、持ってきたことがバレた時のデメリットを考えれば二の足を踏むに違いない。それでも持ってくるようなアホは相当稀だ。もはやフィクションの中にしか存在しないんじゃないだろうか。今は周囲にバレるリスクを冒してわざわざ証拠の残りやすい紙媒体の本を買わなくても、いくらでもスマホやPCで代用が利くという話をインターネットのとある掲示板で見たことがある。
性欲の権化たる男子高校生ですら昨今しないようなことを、二年前のあたしはやってしまっているのだ。
きっとお兄さんは『学校に行って帰る時間すら我慢できなかったのか……』と思われたことだろう。
でも、ここで一つだけ、あたしの尊厳に関わることなので一つだけ訂正をしておきたい。あたしは同人誌を読みたいという欲求を我慢できずに学校に持ち込んだわけではない。その日私は、自分の鞄に同人誌が入っていたなんて知らなかったのだ。
姉が、姉が原因だったのだ。
あたしが欲しかった同人誌を姉が伝手を頼って、というか同好の士による情報網を使って手に入れてくれたのだが、姉が同人誌を持ってきてくれた時、あたしはお風呂にでも入っていたのか、それともコンビニにでも行っていたのか、とにかく不在だった。なので姉は近くに転がっていたスクールバッグに同人誌を入れておいた。それに気づかずあたしは教科書やらノートやらを鞄に詰め込み、そして学校で教科書を取り出した際、同人誌がまろび出たという経緯だったのだ。
同人誌が手に入ったのならあたしの机の上にでも置いておけよと思ったし、いつでも連絡の取れるこのご時世なのだからメッセージの一つでも送っとけよと思ったし、たくさんバッグがあった中であえてスクールバッグを選んで同人誌を入れたのは悪意以外の何物でもないだろとも思った。
ただ、悪意はあったとはいえ一応姉はあたしが頼んでいたブツをしっかり手に入れてくれたし、なによりもすでに姉に同人誌の料金は支払っているのでその同人誌は自分の物だ。訂正したところであまり意味はない。『同人誌が鞄にあるわけがない! だってこれは姉に頼んで云々』という、言い訳どころか自供にしかならない発言になる。サスペンスドラマの後半三十分あたり、推理小説の残り十数ページあたりで似たようなことがよくある。犯人はあたし。
あの時拾ったのが礼愛じゃなかったら、あたしの高校生活三年間は暗黒時代を約束されていただろう。でもその話をお兄さんにされたので、あたしの暗黒時代はこれから始まる。
「吾妻さん、大丈夫? 顔色悪いけど……紅茶口に合わなかった?」
何を言われるんだろう、どんな顔されるんだろう。
お兄さんの反応が怖くて目を逸らしていたあたしにお兄さんがかけたのはそんな言葉だった。
思わず顔を上げた。
なぜかお兄さんは心配そうな表情をしていた。
お兄さんがどうしてそんな表情をしているのか、どうしてそんな表情ができるのか、あたしにはわからなかった。ふつう学校に同人誌とか持ってくる人なんていないし、一般的な感覚だとドン引きするレベルなんじゃないだろうか。そういったカテゴリーに対して過剰な拒否反応を示す人だって存在することをあたしは知っている。
どうして、という気持ちが不意に口をついて出た。
でもお兄さんの目は見れない。かといって視線を泳がせていたら動揺しているのが丸わかりなので、テーブルに置かれているティーポットに視線を置いた。品のあるおしゃれなポットだなぁ。
「……引いたりしないんですか?」
「敷く? もうこのくらいじゃあ敷かないかな」
もうこのくらいじゃ引かないって、どんな人生経験を積めば、泡遊び(意味深)をしている濃厚なBL同人に耐性がつくんだろう。
「吾妻さんは普段からマットとか使ってるのかな?」
完全に下ネタに振り切られた話をようやく流せたかと思いきや、お兄さんは踏み込んできた。一歩どころか五歩十歩くらい踏み込んできた。
「え?! ま、マット……使う?! つ、使ってません! そ、それはレベルが高いというか……まだ早すぎるというか……あ、相手が」
泡遊びに強烈な関心を持っていたからといっても、実際に経験しているわけではもちろんない。見た目のせいもあるかもしれないが、そういった分野に奔放だと思われるのは嫌だし、普段からそんなの使ってる女とか思われるのはもっと嫌だ。必死で否定した。
「レベル? 格式とかのことなのかな……別に尻込みすることないと思うけど。ちゃんとした物はそれなりに高いんだろうけど、安い物だってたくさんあるしね」
「く、詳しい……。いやでも値段の話じゃなくて……。そういうのって、そっ、そういうお店でしか使わないんじゃ……というか使っちゃダメなんじゃ……」
「高級な物はあまり個人の家で置くようなことはないと思うけど、専門のお店でしか使っちゃいけないって決まりもないよ? うちにもあるし」
「あるんですか?! えっ?! あるんですか?!?!」
「そ、そんなに驚くような物ではないけど……なんなら使ってみる?」
「づっ、使っ……っ?! だっ、ダメです! さ、さすがにっ、それはまだいろいろ早いと思うのでっ! やっぱりそういうのは、こ、こう……段階を踏んでからかと!」
「い、いや、早い遅いはないと思うけど……よく礼ちゃんも僕も使ってるよ?」
「えぅえっ?! 兄妹でっ?! ま、まずくないですか?! というかなぜあたしにそんな話を……」
「まずい? え、あれ? 何か問題……あったかな?」
「だって、だって法的に……」
「え、法? それはどういう……作法ってこと?」
「え?」
「え?」
頭の中を疑問符で溢れさせていると、くふっ、と隣で吹き出すような音が聞こえた。もちろん、音の発生源はあたしを断頭台一歩手前にまで追いやった礼愛だ。
「ふ、ふたりともっ……かふっ、はなし、か、噛み合ってなっ、くふふっ……んふっ。だめだ、おなかいたいっ……けふっ、けふっ」
これ以上は耐えられないとでも言わんばかりに、礼愛はお腹を押さえながらテーブルに伏していた。ぷるぷると震えて吐息を漏らしている。
めちゃくそ笑とんねんけど、この元凶。あたしのイメージが地についたのは基本的にお前のせいやぞ(責任転嫁)。
それよりもなぜ礼愛はこんなに笑い転げていられるのか。ついさっき、お兄さんから衝撃発言があったばかりだというのに。
これはあれか。この程度のカミングアウトではあたしは見限ったりしないだろうと信用されているのか、はたまた親友の絆を試されているのだろうか。たしかに驚きすぎて脳みそひっくり返るかと思ったし、今も平静を保てているとは思えないし、かなり思考回路はしっちゃかめっちゃかになってるけど、それで距離を取ろうとかは考えていない。フィクションでは兄妹で、っていうのはよくあるシチュエーションだし慣れている。それが現実になったとしても、まあこれだけ見目の良い兄妹だと嫌悪感は抱かない。
笑い死にしそうな礼愛が落ち着くまで待つ間、あたしは頭を落ち着かせるためにミルクティーに手を伸ばす。お喋りに興じすぎて少し冷めてしまったが、それでもなお風味豊かな紅茶だった。
渋みが強いと聞くけれど、そのあたりはミルクで抑えられているのか、渋みはあってもまろやかになっていて口当たりがよかった。ミルクで特徴的な香りがダメになってしまっているかと思いきや、薔薇のような華やかな香りが鼻腔をくすぐる。かすかに甘い爽涼感が心地よい。本当にいい紅茶をちゃんとした手順と作法で淹れると、こんなにも味と香りが違うんだ。
以前妹が、配下の小間使いからお高い紅茶をプレゼントしてもらった時にあたしも一杯頂いたけど、それは今ひとつ味の違いがわからなかった。おそらく適当に淹れたせいだろう。ごめんね、小間使いくん。
そんなことを思い出しながら紅茶の余韻に浸っていると、お兄さんがふう、と短く息をはいた。一安心したような顔だ。何に安心したのかわからないけれど、あたしとしては推しの穏やかな微笑みを見られて大変満足です。
「ふふっ、くふふっ……はあ、やっと落ち着いた」
目元の涙を拭いながら、うっすら汗をにじませるほど笑っていた礼愛がようやく再起動した。
息が上がっている様子を見るにまだ落ち着いてはいないだろう。にやにやしてるし。
「健康になれそうなくらい笑ってたね、礼愛。あたしにはなにがそんなにおもしろいのかわかんないけど」
「えっとー、私としては夢結の黒歴史の一ページをあえてリアルタイムで書き記すこともないかなあって思うから、説明しないでこのまま話を流しちゃってもいいんだけど、どうする?」
いつもなら絶対いじるし、未来永劫話のネタにするところだけど、たくさん笑わせてもらったしね。と、にまにま悪い顔をしながら礼愛は言った。めちゃくちゃ含みのある顔だ。
「え、なに、怖いんだけど……聞かないほうがいいの?」
「…………礼ちゃん、それについてはもう、そっとしておいたほうが……」
これまでの経験上、こういう悪い顔をしている時の礼愛が、あたしにとって良いことをしたことなんて一度としてなかったので基本的には近づかないほうが吉である。
しかしお兄さんもすでに何かに気づいているようだ。お兄さんにも知られたまま、なのにあたしだけなにもわかっていないというのは、どことなく気持ちが悪い。なにか失礼なことをやらかしているかもしれない。あの礼愛が黒歴史だと断言した上で忠告するくらいだから、内心ではかなり怖気付いているが、意を決する。
「これで隠されたほうがもにょるよ。教えてよ」
「まあ、私とお兄ちゃんの関係を勘違いされたままってのもアレだしね」
まるで屠殺場へ運ばれていく家畜を見るような目で、礼愛は微笑む。
お兄さんからは『……ああ』という同情なのか憐憫なのかよくわからないため息がこぼれた。
「夢結ってば、あの時落とした『どぎつい同人誌』のことで頭の中いっぱいだったんだね」
「……んぎぇう?」
同人誌の話をほじくり返されて変な声が出た。
ごほん、と強めに咳払いして何食わぬ顔で礼愛と対する。
「そ゜っ! ……んんっ、そんな言い方だと、あたしがここでアレの内容思い出して興奮してたみたいじゃん。やめてよ、まだ表紙しか思い出してない」
一言目から声が裏返ったが、なんとか言い切った。
「くふっ、表紙も思い出すべきじゃなかったかもね」
「なにが言いたい」
「あ、最初に言っておくけどね? お兄ちゃんは、夢結が『どぎつい同人誌』を学校にまで持ってきていても引いたりしないよ」
「…………」
その言葉をあたしはすんなりと呑み込むことができず、恐る恐るお兄さんの顔色を窺い見ると、礼愛に同意するように笑みを返してくれた。
「没収された時のことを考えると言い訳が大変そうだから、学校にはなるべく持って行かないほうがいいとは思うけどね。プライベートで読んで楽しむ分には気にしなくていいんじゃないかな?」
各所に配慮した上でお兄さんはフォローしてくれた。
異性相手なら言うまでもなく、同性であっても受け入れてくれる人は限られるあたしの趣味。なんなら同じ趣味を持っていたとしても、ジャンルや受け攻めシチュ等々で決裂したりもする。
オブラートくらいなら容易に突き破るあたしのとんがった趣味を優しく包み込んで認めてくれるなんて、ちょっとどころじゃないくらい嬉しい。救われた気分だ。推しの包容力の高さに泣きそう。
「ぁ、あぃがとうござぃます……」
声の震えはどうにもならないにしても、ちゃんと感謝の気持ちは伝えられただろうか。
顔と声だけじゃなくて性格もいいなんてほんとずるい。めっちゃ推す。一生ついてく。
「そんなわけでお兄ちゃんはBL同人がどうとかなんて全然気にしないんだよね」
「そ、それはまあ、うん……よくわかったけど。ふへへ……」
「笑い方気持ち悪いな……」
「礼愛に言われたくはないな!」
自分では気づいてないかもしれないけど、あんただって笑いかた相当独特なんだからね。あたしは自分で気持ち悪いって自覚してる分まだマシ。
「まあ、だからこそお兄ちゃんは早々に同人誌の話なんか打ち切ってたわけ。ここまでわかる?」
「え? はぁ、まぁ……それが?」
「あー、まだわかんないか……。大丈夫。介錯はしてあげる」
「カイシャク?」
「だからね? お兄ちゃんは同人誌の話なんてしてなかったんだよ」
「それはさっき聞い……え?」
思考が停止する。
ちょっと、ちょっと待ってよ。おかしいよ。だってあたしが『引かないんですか?』って聞いたら、お兄さんは『このくらいじゃ引かないよ』って言ってたよ。
なんならシモ系の話を広げてくれたくらいだ。あたしが気にしなくてもいいようにと、あえて話に乗ってくれたのだ。男子と同じように女子もえっちな話には興味がある。恥ずかしい思いをしないようにとの気遣いに加えて、痴的好奇心への理解まで示してくれた、とても機微に聡いお兄さんだ。
その結果、親友と親友のお兄さんとの衝撃的な爛れた関係を耳にしてしまったのだけれど。
そう。
あの会話は、そういう話だった。
そういう話だったはずだ。
そのはずなのになぜ、今あたしは心拍数が上がってきているのだろう。なぜ、血が凍るような感覚に襲われているのだろう。
「お兄ちゃんは夢結が紅茶飲んでなかったから気にして、紅茶の話をしてたの。『口に合わなかった?』って」
お兄さんはそんなことも言っていた気がする。
しかし、その時のあたしはお世辞にも冷静とは言い難かった。なにを言っていたかなど正確に覚えていない。
でも。
「でも……だって、お話は……」
「うん、なぜか奇跡的に噛み合ってたね。いや噛み合ってないんだけどね? コントかなって思ったよ」
「ま、ちょっと、待って……まってぇ……」
耳鳴りまでしてきた。またしてもお兄さんの顔を見れそうにない。
もしかしてあたしは『どぎつい同人誌事件』という一つの爆弾を解除できたと安心した次の瞬間に、新たな爆弾をこしらえたというのか。礼愛が言っていたのはそういうことなのか。
「それで夢結はいったいナニを想像してたのかなあ? あたしとお兄ちゃんを使ってどんな妄想してたのかなあ?」
にやぁ、と端整な顔をいやらしく歪ませて、礼愛は笑っていた。無様に滑稽に踊っていたあたしを嘲笑っていた。
そんなことあるはずない。そんなコントみたいなやり取りが日常生活で成立するはずがない。そう自分を信じこませたいあたしは小さな希望に縋るように礼愛に反論する。
「でも……でもっ! マットがどうとかって言ってたし……言ってたし!」
「ティーポットマットのことだよ」
「てぃ、てぃーぽっと?」
「ティーポットの下に敷く厚い布巾みたいなやつのこと。鍋敷とかっていうイメージでいいよ」
「る゜ぇぅ……」
「今のどうやって発音したの? まあ、いいや……。お兄ちゃんは夢結に『ひかないの?』って訊かれて、紅茶の話をしてたし目線がティーポットに向いてたから流れ的にティーポットマットのことかなって考えて、もう紅茶はほとんど残ってないしポットも熱くないから『このくらいの温度じゃ敷かないよ』って意味で答えたの」
「そ、それじゃ、その……なに? あたしはしばらくの間、相当頭が愉快な勘違いをしていた……ってこと?」
「相当頭がイカれた妄想を繰り広げていたってことだね!」
「ううわああぁぁ……っ」
あたしは頭を抱えて蹲った。
お兄さんから見られないように顔を手で覆ってテーブルの影に隠れようとする。もちろん隠れられてはいないけれど。
冷たい地面の奥深くへ潜りたい。暗い海の底へ沈みたい。今は誰とも関わりたくない。世界から断絶されたい。恥ずかしさは極限を越えると、顔が熱くなるよりも先に、全身から血の気が引いて寒くなるのだと初めて知った。知りとうなかった。
推しとの一対一の会話中、あたしはずっと大人の泡遊びを思い浮かべながら邪な妄想をしていた。件の同人誌の配役を攻め側はお兄さん、受け側は礼愛に置き換えてイメージを膨らませていた。やっぱり優しそうな年上のお兄さんにご奉仕されて身も心もどろどろに甘やかされるのは鉄板だよね、みたいな感想を抱いていた。その上でさらに礼愛のポジションに自分を投影することで悦に浸っていた愚か者があたしです。
ぜんぶ勘違いです。
言葉も出ない。百点満点中百二十点のトラウマ級の黒歴史だ。しかもそれをお兄さんにしっかりと気付かれているあたり救いがない。
「ねえ……ねえ、夢結」
小さく縮こまるあたしの肩に手を置きながら、礼愛が優しく声をかけてくる。
慈しむような微笑を湛えて、礼愛は口を開いた。
「普段どんなこと考えて生活してたら日常会話からそんな妄想ができるの?」
「うわああぁぁっ?!」
こいつ、止めを刺しにきやがった。
あたしは心臓を突き刺すような言葉と現実から逃避するように、耳を塞いで叫んだ。
なんであんな聖母のような表情で死神の大鎌を振り下ろすみたいな真似ができるんだ。倫理や道徳を学んでいないのか。心の弱った人がいるんだぞ、優しくしろよ。
「ま、まあまあ礼ちゃん。そのあたりでやめておいてあげてよ。吾妻さんが戻れなくなりそうだから」
「お兄ちゃんに感謝してね、夢結。いつもだったら末代までいじり倒すところだよ」
「うぐ、えぐ……あたしが末代になりそうだよ……」
妄想の材料にされていたと知っても軽蔑するような視線をまったく向けない優しいお兄さんの仲裁のおかげで、あたしの傷ついた心がこれ以上抉られることはなくなった。抉る必要を感じないくらいには傷口は大きくて深いが。
「まあよかったじゃん。同人誌の話をしないままだったらずっとお兄ちゃんに趣味のこと隠してたでしょ? これでおおっぴらに話せるね」
「趣味のことだけじゃなくて性癖まであけっぴろげに暴露されたんですが……」
「暴露っていうか自爆じゃん」
「やめろぉ!」
なにも言い返せない正論パンチをぶちかましてくるんじゃない。そこは繕った笑顔で曖昧に流すところだ。すぐに渾身の右ストレートを打つんじゃない、様子見のジャブからって教わらなかったのか。
涙目でうぐぐと唸っていると、お兄さんがいいこと思いついたとばかりに提案する。
「吾妻さんだけ秘密を打ち明けるっていうのも不公平だから、せっかくだし礼ちゃんの秘密も打ち明けるっていうのはどう?」
「……へ?」