親友のお兄さん
「あれ? 礼愛から通話? なんだろ?」
帰り道の事だった。親友の恩徳礼愛からメッセージアプリで音声通話が入った。
学校でも散々話していたのに、まだ何か喋り足りないことでもあったのかな。
周りの人の迷惑にならないように歩道の端っこに寄ってスマートフォンを耳に当てた。
「礼愛、どしたん? なんかあった?」
『夢結ー! 今日これから時間ある?!』
あたしの問いには華麗にスルーを決めて、礼愛は自分の要件を押し通してきた。基本的にメッセージばかりの礼愛がわざわざ通話してきたのだから大事な用件があるのだろう。
ちなみに学校で出された課題がわからないから教えて、なんていう連絡はありえない。あたしよりも圧倒的に成績のいい礼愛があたしに聞くことなんて何もない。その逆ならたくさんある。テスト前とかになるともう日常茶飯事になる。
「え? まぁ、今は急ぎの用事はないけど……なに? 怖いんだけど……」
『前に夢結と私とお兄ちゃんで動画作ったでしょ? あの時に完成おめでとう会やったけど夢結来れなかったからさ、今度は夢結呼んでまたやろうってなったんだよ。お兄ちゃんも直接会ってお礼したいっていって言ってるし、どう?』
「あー、そっかぁ……。どう、しよっかな……」
お兄ちゃん。礼愛のお兄さん。あたしの頭の中のお兄さんのイメージを思い浮かべて考える。
率直に言えば、とても会ってみたい。直接会ってお喋りしてみたい。
でもその気持ちと同じくらい、会うのが怖い。
顔を合わせたことはないし、会話したのも前の動画作りの時が初めてだったくらいにあたしとお兄さんは関わりが薄い。あたしからすれば親友のお兄さんなだけだったし、お兄さんからすれば妹と仲のいい子という関係なのだから当然だろう。
でも、お兄さんの為人は知っている。というか詳しいくらいだ。
学校でも憚らない、ただのクラスメイトにすら周知されているほどのブラコンである礼愛。その親友があたし。お兄さんの話を望む望まないにかかわらず、どれだけ聞かされ続けたかわかったものではない。礼愛と頻繁に話をしない一介のクラスメイトでもお兄さんの好きな食べ物程度は知っているのだから、そのブラコンの深刻さは推して知るべしである。あたしくらい礼愛に近くなると、一度として会ったこともないし顔も知らない(礼愛はこちらが胸焼けするくらい話をしてくるくせに写真は頑として見せようとしない)のに、お兄さんの右二の腕の内側にほくろがあることまで知っている。ていうか礼愛もなんでそんなこと知っているんだろう。
違う意味で顔を合わせにくいけど、会いにくい理由はそれがメインではない。
大部分を占める理由は、あたしが重度のオタクだからだ。
世間の一般常識という物差しで測れば、かなりゲームが上手なお兄さんだってオタクと呼ばれるだろう。
でもそれはあくまで社会的な枠組みから見た広義的なニュアンスだ。一口に車と言っても大きさや用途などでいろいろ種類があるように、オタクにも方向性や深度などによって細かく種類が分けられている。
あたしが礼愛から聞き及んでいる限りでは、お兄さんはゲームは嗜んでいるけれど漫画やアニメには薫陶を受けていない。礼愛はゲームも少年漫画も少女漫画もアニメも幅広く好んではいるけど、それにしたってメジャーなタイトルから一歩踏み込んだところまでだ。腐海に身を浸しているわけでもない。
お兄さんがあまり触れてこなかっただろう漫画やアニメや小説やゲームへと極度に前衛的先鋭化(精一杯お茶を濁した表現)した手の施しようがないほど深刻なレベルのオタクを目の当たりにした時のお兄さんの反応が、あたしは怖い。
学校でもそうしているように、お兄さんが近くにいる間はオタク趣味を隠していれば、取り繕っている外見も相まって誤魔化せるんじゃないかと思ったけど、きっとそれはできない。
あたしの悪癖のせいだ。
テンションが上がっちゃうと周りが見えなくなるというか、口が勝手に回ってしまう。ディープな話を我慢できない。そうしてぺらぺらと、周りの顔色を気にすることもなく昂った気持ちのままオタク話を早口で繰り広げるだろう。
耐性のない人の前でやらかして、それで一度痛い目にあったというのに、きっとあたしは性懲りもなく繰り返す。
あたしは、お兄さんに会うのが怖いんじゃない。
奇妙な生き物を見るかのような目を向けられることが、怖いのだ。自分の好きな物を貶められて否定されることが、あたしはなにより怖いのだ。
『大丈夫だよ、夢結』
逡巡するあたしに、礼愛はいつもの凛とした、それでいて優しい声で背中を押してくれる。
『お兄ちゃんは、人の大事な物や好きな物を笑うようなことしないよ』
電話越しでも柔らかく微笑んでいることがわかるほど、礼愛の声は穏やかだった。
「……そっか、わかった。それじゃ、お呼ばれしちゃおっかな」
『うんっ、お呼ばれされちゃって! よかったあ! せっかく買ってもらったケーキが余っちゃうところだったよ!』
あえて明るく振る舞っているのか、それともただ純粋に喜んでいるのかわからない礼愛の無邪気なはしゃぎっぷりだった。この子は頭も顔もいいんだけど、ちょっとねじが緩みがちなのだ。どちらにせよ、あたしを気にかけてくれていることに違いがないというところが、この子のいいところ。
「どうせ余ったら礼愛が食べるつもりだったんでしょ?」
『あんまり夢結に甘い物持っていったら夢結太っちゃうかもしれないからね、これは私の優しさだよ』
「いーや違うね、嫌味だね」
以前、どうすれば礼愛みたいにスタイル維持できるかと尋ねてみたことがある。すると『昔お兄ちゃんが早朝にランニングしてて、それについてってたら習慣になった。夢結もやってみたら?』と言われた。今日日のブラコンは体型維持にも効果があるらしい。
あたしを舐めているのか。体育どころか普段の通学すら億劫な人間にランニングとか続けられるわけがない。
ごく一般的平均的普遍的な高校生と同様に運動の苦手なあたしは、礼愛と比べられると分が悪い。勘違いしてもらっては困るが、分が悪いのはスタイルではなくて運動能力や体力についてだ。決して体重とかではない。
ともあれ、勝ち目のない話は早々に終わらせるに限る。
「それじゃ、今から礼愛の家に行けばいいの? ちょっと時間かかっちゃうと思うけど」
何度も行ったことのある礼愛の家までの経路を頭に浮かべながら所要時間を計算していると、礼愛の声が聞こえた。スマホと、車道側の二方向からだ。
「『ううん、大丈夫! 迎えにきたよ!』」
「え……えっ」
声のしたほうを見やれば、車道の脇に停めた車から助手席の窓を開けて、制服姿の礼愛が手をひらひらとさせていた。今日はお兄さんが迎えに来るからと学校の正門で別れたが、その足であたしを拾いにきたのか。
とてもありがたいけど、あたしとしては向かう道中は覚悟を決める時間に使おうと思っていたので、早速初動から計画が崩れてテンパっている。というか、あたしが誘いを断った時はどうするつもりだったのか。完全な無駄足になるぞ。
戸惑いの渦中にあるあたしの心中も知らずに、礼愛は助手席から降りてきた。
「なにしてるの夢結。ほら、はやく乗って!」
「わっ、ちょっ……」
礼愛が助手席から降りたことで、運転席までの視界が通った。あたしが乗り込むのを待ってくれているお兄さんは、ハンドルに手をかけたまま顔をこちらに向けた。
やはり兄妹は似るものなのか、その整った面立ちは礼愛と方向性が同じだった。わかりやすく違うところといえば、礼愛が少し切長の涼しげな眼差しなのに比べて、お兄さんは垂れ気味の温和そうな目元をしていることだろうか。兄妹揃って美形とかどんな遺伝子をしているんだ。世の理不尽と不条理を垣間見た気がした。
柔らかく微笑みながら会釈してくれたお兄さんに慌てて頭を下げる。車の内と外で自己紹介するわけにもいかないので、礼愛に手を引かれるがまま後部座席へばたばたと乗り込んだ。落ち着きがない子に見られていそうで、とても気恥ずかしい。
シートベルトを着用したことを確認すると、お兄さんは一言声をかけてから車を発進させた。驚かせないようにとの気配りと、揺れを感じさせない緩やかなアクセルの踏み方に、お兄さんの繊細な性格を窺わせた。
「初めまして。礼ちゃんの兄の仁義です。こんな形でごめんね。万が一にも事故を起こすわけにはいかないから」
こんな形というのは、運転中だから顔を向けられない、という意味だろう。安全運転を心がけてもらっているし、何よりわざわざ迎えにきてもらった立ち場だ、文句などあるはずもない。
というか、こちらから名乗るつもりだったのにわたわたしているせいで出遅れてしまった。
「い、いえっ……ありがとうございます。あたし、吾妻夢結です。礼愛とは、一年の時から友だちで、えと……仲良くさせてもらってます! きょ、今日は、ごっ……ご招待ありがとうございます!」
普段敬語を使っていない弊害が出てしまっている。その上、あたしは人見知りだ。言葉がうまく出てこない。
そういえば先生とお父さん以外で、男性と話をしたのなんていつぶりだろう。うちの高校は女子校なので男子生徒はいないし、学校が終わればほぼ毎日まっすぐ家に帰る。異性と喋る機会なんてコンビニの店員さんくらいしかない。いやコンビニでの受け答えは喋っているとは言えないか。そう考えるとすぐに思い出せないくらい久しぶりに男の人との会話になる。緊張がいや増してきた。余計な時にはよく回る舌は、こういう大事な時には働いてくれない。顔から変な汁が出そう。汗であることを祈る。
「ゆーゆ!」
「わきゃっ」
がちがちに固まったあたしの肩に、どんっ、と礼愛がぶつかってきた。交差点を曲がる時にも遠心力を感じさせない、この道うん十年のベテランタクシードライバーみたいな丁寧な運転をするお兄さんだ。体が傾くなんてことはないのだから、無理矢理に体を寄せてきたのだろう。
あたしがこんなに大変な時に何をするのこの子。驚いたせいで変な声が出た。
「そんなに緊張しなくて大丈夫だってば! 歳上相手だなんて思わないで、いつも通り気楽にしていいよ。お兄ちゃんは言葉遣い程度じゃ怒らないから」
「礼愛……」
気を張ってたあたしをリラックスさせようとしてくれていたようだ。緊張している理由は微妙にずれているけれど、その気遣いは嬉しいし頼もしい。
「礼ちゃんの言う通りだよ、吾妻さん。僕は敬語を使ってもらえるほど立派な大人でもないからね。普段礼ちゃんと話しているように気楽に話してくれていいよ」
「は、はひ……」
お兄さんがとても優しい言葉をかけてくれる。その心配りは痛み入るけれど、とてもじゃないがすぐに砕けた口調に修正できるような心理状態ではない。
その理由は、お兄さんのこの声だ。
「家に着いたら改めてちゃんとお礼させてもらうけど、動画作りの時はボイスドラマの台本、ありがとうね。僕も礼ちゃんもそういったことに詳しくなくて、とても助かったんだ」
この声。疲れた心に染み入るような、そっと頭を撫でられるような、鼓膜すら透過して脳みそをくすぐるような、世俗から特出する類い稀なエロ、もといエモい声があたしを冷静にさせてくれない。
ありがとうだとか、助かっただとか。ふざけているのかと申し上げたい。ありがとうも助かったもこっちのセリフだ。あの声とあの演技で性癖を詰め込んだボイスドラマを二本も録ってくれて、あたしのほうがとても助かってますありがとうございます。
「いえ、そんな……急いで作ったせいで拙い仕上がりになってしまって、申し訳ないれす……ないです」
くそ、あたしの舌。ちゃんと動け。引っ込んでんじゃない。この機を逃したらいつまたお兄さんと喋れるかわからないんだぞ。
「拙いだなんてとんでもない。吾妻さんの台本が良かったおかげで僕の素人演技でも聴くに堪える作品になったんだから、堂々と胸を張ってよ」
「お兄ちゃんセクハラ」
「えっ……た、ただの慣用句……」
「身体的特徴を取り上げるのはいくら堂々と張れるだけのモノを持っててもセクハラ。今決めた。私が決めた」
「……世間知らずのおじさんでごめんなさい。そうか、昨今は慣用句でもセクハラになる時代なんだね……」
慣用句を使ってセクハラ扱いされるような世間はあたしも知らない。
というかお兄さんは礼愛と五歳差って聞いてるから、きっと二十三歳前後のはずだ。その歳でおじさん扱いはあまりにも早すぎる。その計算だと同じく五歳差のあたしの姉もおばさんということになる。いや、あれはおばさんみたいなものかもしれないけど。
「い、いえ、セクハラだとは思ってませんから、大丈夫です。お兄さんの言う通り胸を張って、次の機会があればもっといい物を提供してみせます」
「夢結はこれ以上胸張っちゃだめ。ボタン弾ける」
「いや、そこまでは大きくないから」
礼愛よりかは育ってるけれど、という言葉はかろうじて呑み込んだ。迂闊なことを言うと、指の一本くらいは逆方向に曲げられそうな圧を感じた。
しかし礼愛は何を気にしているのか。たしかに胸はあるほうじゃないけど、全体のバランスがいいのだから気にすることないのに。
礼愛はとくに足がいいのだ。あたしとは違って、しなやかな筋肉を纏いつつ、それでいて無駄な肉のないすらりと伸びる長い足。体育の時、礼愛のショートパンツ姿に、同級生が見惚れている光景を何度も見たことがある。運動もできるもんだから、なおさら格好いい。はー世の中ってなんでこうも不公平なのか。
「ええと……台本を書いてくれた吾妻さんとしては、ボイスドラマの出来はどうだったかな? 前にも感想もらったけど、率直な意見を聞きたくてね」
ダークサイドに堕ちかねない礼愛を見て、お兄さんが助け舟を出してくれた。この舟に相乗りさせてもらおう。
前に電話口で感想を聞かれた時は、三徹して朦朧としていたバックグラウンドがあって、そこに夢女子を虜にする声と演技が掛け合わされてテンションのメーターが振り切れていた。
どうせあたしのことだ、かろうじて日本語だった、くらいの取り止めもない感想をのべつ幕なしにお兄さんに叩きつけたはずだ。実に恥ずかしいが、しかし実に素晴らしいものでもあったのだから、あの日のあたしを今日のあたしは責めることができない。後日、お兄さんは演技の経験はないと礼愛から聞かされて驚いた。
「お世辞とか抜きで、とてもよかったです。販売されているボイスドラマと遜色ないくらい、なんなら並の作品よりもぐっと来るものがありました」
まぁ、あたしの趣味趣向性癖をなぞらせたようなシナリオにしたのだからあたしにぶっ刺さるのは当然なのだけども。でもそれを抜きにしても抜群のクオリティだった。
お兄さんの声は天性の素質だ。それはまさしく天稟と呼んで差し支えない。訓練次第で発声や滑舌、演技などは改善・向上しても、大本の声質は生まれ持ってのもの。今の時点であれだけクるのに、まだこれから伸び代があるなんて信じられない。脳みそを沸騰させる日も近いかもしれない。是非ともまた関わらせてほしい。
そう、あたしが平静さを失っているのは、これが理由なのだ。
あたしは、お兄さんのファンになってしまったのだ。
ボイスドラマを二本も録ってもらっておいてなんだけど、新作がもう待ち遠しい。
えっと、礼愛はなんと言っていたんだったっけ。よく覚えていないのだけど、お兄さんが何かしらのコンテストだかオーディションだかの応募用に動画を作らなくちゃならなかったらしい。今回あたしはそれを手伝った。
いやさ、手伝わせていただいた。
応募の内容も礼愛から聞いた気がするが、ボイスドラマに集中するあまり詳細を聞き逃してしまった。
あんなに脳みそを痺れさせるいい声を使って動画を作るくらいだ、きっと声のお仕事をするのだろう。そして完成した作品があの動画だ。どんなオーディションだろうと合格するだろう。ということは、これからも定期的にボイスドラマは供給される、と皮算用してもおよそ問題ない。
なんてことだ、どうしよう、今からどきどきが止まらない。あたしがファン一号を名乗っていいかな。いいよね。たくさん貢ぐから腕組みして古参面していいよね。初作品に携わったんだって自慢していいかな。いいよね。これからお兄さんはこの業界で名を馳せるはずだ。その時に『お兄さんはあたしが育てた』って言いたい。言っていいよね。言う。
あの傑作で落選するとは思わないけど、もし落ちてしまったら多少強引にでもこちらの界隈に引っ張り込もう。あたしにだってコネや伝手はある。最後の手段で姉を使ってもいい。全力でコネも伝手も人脈も使ってボイスドラマを制作する。あの声の沼にはまる人は絶対いるし、仮にいなくても全部あたしが費用を負担してでもやる。自分の欲求を満たすためだけにやる。
あのボイスドラマを思い出すだけで感想なんていくらでも湧き出してくる。一応はオーディションだかなんだか用に送るものなので、みだりに他人に動画を見せないようにと礼愛に釘を刺されていた。どこかから漏洩してお兄さんに迷惑はかけたくないので、同じ趣味を持つ姉妹にさえボイスドラマを聞かせていないし動画も見せていないのだ。感想を言い合いたいという飢餓感にも似た渇望を我慢していたが、もう我慢しなくていいと言うのなら是非ぶちまけさせてもらおう。本人に直接感想が言えるなんて、ファンとして至上の喜び。なんてご褒美。
「一本目のボイスドラマも良かったですけど、あたしはやっぱり二本目のほうがお気に入りです。礼愛も協力してくれた甲斐あって、気持ちの込め方が段違いというか感情の入り具合が別次元っていうか。録音機材も本格的なものがそこまで揃っているわけではなかったのに、実際に自分がその場にいるような感覚を味わえました。『彼女』と一緒にゲームしたいっていう『彼氏』の感情を表現しながらも、その裏で、無理に押し付けるようなことはしたくないっていう複雑で繊細な心情を声色だけで伝えてくるところとか心停止するくらいぐっときました。一人で演じているという雰囲気じゃないのがいいんです。『彼氏』のすぐ近くに話している『彼女』がいて『彼女』のリアクションを受け取りながら喋っているリアル感がハマるんです。そう! あそこやばかったんですよ! ゲームしてる途中にテンションが上がっちゃって『彼氏』が大きな声を出しちゃった時! あの時あたしもびっくりして、びくってなったんですけど、その後に『驚かせてごめんね』って謝る『彼氏』の気遣いと優しさ! 労るような声音! 耳元で囁かれているかのような色気のあるウィスパーボイス! 『彼氏』が実際に自分と会話しているかのような『彼女』として自分が膝の上にいるかのようなあの没入感はほんとにもう、心臓に悪くて、でもそれが良くて、何度もつ……」
おっと、いけない。これ以上はいけない。
興と調子に乗ってしまった。お兄さんが相槌を打つ間すら与えずに捲し立てて、挙げ句の果てに『使う』などど口にするところだった。言わなくていい感想まで口走るところだった。演者本人と、親しい友人であり推しの妹の目の前でそんなことを白状してしまったら、あたしは死んでしまう。羞恥心と罪悪感に殺されてしまう。
「つ?」
お兄さんが聞いてくる。いけない、不審に思われている。現時点で既に高くはないであろう評価をこれ以上下げるようなことはしたくない。推しに嫌われたくない。
「つ……つ、通学中にも聴いてたくらいお兄さんのボイスドラマがよかったって言いたかったんです!」
軌道修正完了。お兄さんばりのドライビングテクニックで事故死寸前のところから生還した。よくやったぞ、あたし。
「通学中に……あはは、それはちょっと恥ずかしいね」
「それだけよかったってことだよ、お兄ちゃん」
「そうだね。恥ずかしいけど嬉しいな」
「…………」
通学中に聴いているだけで『恥ずかしい』なんて思うのなら、誤魔化せてなかったらどうなっていたことか。背筋に冷たいものが走った。心臓が早鐘を打つ。呼吸が荒くなりそう。
ちなみに通学中に聴いていたのは本当だ。ただ、聴いている時に口角が上がってしまうのを我慢できず、周りの人に不審者を見るような目で見られたので今は通学時もそれ以外も含めて外出中には聴かないようにしている。なにもかもお兄さんの声が悪い。あの声には脳みそと表情筋をバカにする効果がある。
そこから礼愛の家に着くまで、お兄さんは礼愛の学校での様子を聞いてきた。あたしたちの共通点である礼愛を話題の中心にすることで、気まずい空気にならないように、とのお兄さんの配慮だろう。コミュ障にも話をしやすい場を作る。これが大人の余裕というものか。
これだけ気配りできるイケメンだ。も、もしかしなくても、か、彼女とかいたり、するのかな。ちょっとそれは解釈違いなのでご遠慮願いたい(厄介オタク)。
お兄さんに訊ねられるままに学校での礼愛を、夜遅くまでゲームやってるくせにめちゃくちゃ勉強ができたり、あたしとは方向性が違うだけでかなりのオタクなのに運動ができたり、マインドコントロールを疑うくらい後輩や同級生から慕われているという話を披露した。ミラー越しにちらりと見えたお兄さんの顔は、まるで自分が褒められたかのようにとても嬉しそうだった。
話していて感じたが、お兄さんはとても聞き上手なようだ。何かを話す度にお兄さんは相槌を打ってくれて、リアクションを取ってくれて、話し下手なあたしでもすごく自然に楽しく喋ることができた。口が滑らないようにするのは苦労したが。
嘘はついていないけど、礼愛のとある部分を丹念に取り除いて話をすると、すごくできた子のように聞こえる。
礼愛の場合、賢いとか、スポーツならだいたいできたりとか、オタクの風上にも置けないくらいコミュ力が高かったりとか、学力同様に顔面も偏差値が高かったりとか、その他いろいろあるけれど、そういう好印象の悉くが霞んで影も形もなくなるくらい、ブラコンというイメージが強すぎる。ブラコン絡みの話をごっそりと除去すると、自然、誰だこれと言いたくなるような、ただの美人な文武両道優等生というクセもアクも面白みもないようなキャラクターができあがる。実際の中身がこんなにまともだったら絶対あたし近寄ってないな。
自分で話していても拭えない違和感に襲われたけど、隣から『余計なことを話すなよ』という肉食獣じみた眼光を向けられたら被食者たるあたしでは抗う術がない。物理的な脅威に襲われるよりかは違和感に襲われているほうがまだましだ。
なぜ礼愛は、自分がブラコンなのをお兄さんには隠そうとするのか。こうして頻繁に送迎してもらっている時点でもう手遅れだろう。みんな知ってるんだよ。きっとお兄さんも知ってるんだよ、あんたが末期のブラコンなことくらい。
夢結視点しばらく続きます。