「一緒にVTuberやってみない?」
初めて小説家になろう様で投稿するのでやりかたがわかりません。
とりあえずテストです。
「ね、お兄ちゃん。一緒にVTuberやってみない?」
部屋で一緒にゲームをしている時に、高校三年生にもなるのに小さな頃からの『お兄ちゃん』呼びが変わることがない僕の妹、恩徳礼愛にそう言われた。
『一緒に』という物言いからわかるように、僕の妹はVTuberというものをやっている。
VTuberとは、オンライン動画共有プラットフォーム内で活動している一般的な配信者とは異なり、イラストやCGなど、自分のそれとは違う仮想の外見を使ってゲームの実況配信や雑談、歌を歌ってみたりする動画などを投稿したりライブ配信する人たちのことを指す。十代くらいの若い子たちを中心に広がっていき、今や幅広い年代に人気があるらしい。二十代もうすぐ半ばにさし掛かろうかという年齢の僕は、妹に教えてもらうまで知らなかったけれど。
ちなみにVTuberという存在は個人でやっている場合と企業に所属して活動するケースの二種類があるらしい。礼ちゃんは後者だ。
総合電子機器メーカーのIT関連の子会社が昨今の情勢を受け『New Tale』というVTuberのマネジメントを請け負う事務所を設立したそうで、礼ちゃんはそこに所属している。
礼ちゃんが『一緒にやろう』なんて誘うのだから、おそらくは僕もその事務所に所属して一緒にVTuberとして活動しよう、ということなのだろう。
まるで脈絡なんてない。礼ちゃんがモニターに向かいながらゲームをしていて、僕は隣で『ここはこう立ち回ったほうが次が動きやすいよ』だとかアドバイスした後にこのお誘いだったのだから、話の流れも何もあったものではない。
あまりにも唐突なことだったので返答に窮していると、僕のリアクションを待たずに礼ちゃんは続けた。
「お兄ちゃんはゲーム上手だしお話も面白いし、それに声だって聞き取りやすくていい声じゃない? きっと人気出ると思うんだよね」
まるで当然だとでも言わんばかりに礼ちゃんは僕を誉めそやす。身内贔屓を含めても度が過ぎている高評価に当惑するけれど、可愛い妹に手放しで褒められるのはもちろん悪い気はしない。
悪い気はしないけれど、やっぱり事実とは異なるのでやんわりと否定しておく。
「はは……ありがとうね。でもゲームが上手い人なんていくらでもいるからね。それに、僕の話が面白いって感じるのは礼ちゃんが聞き上手なだけだよ。僕には、未だに鮮明に覚えてる衝撃的なセリフがあるんだ。あれは学校に通ってた頃、高校一年の一学期。中庭でお昼ご飯を食べてた時に違うクラスの人と話す機会があってね。僕が一頻り話した後、その人に『君と話してると眠たくなる』と真正面から言われたことがあるんだ。実際にその人はお昼休みが終わる五分前までお昼寝しちゃってた。僕は話し始めて二分後には相手を寝かしつけられるくらいの逸材だよ? 話のつまらなさには定評があるんだ」
「それはきっとお兄ちゃんが落ち着く声をしてるからだよ! その人はきっとリラックスして穏やかでいい気持ちになって、だから寝ちゃったんだ! それくらいいい声をしてるんだから、使わない手はないよ!」
「そ、それはとても前向きで……うん、ポジティブないい考え方だけど……」
「自分の声なんて自分じゃわからないものでしょ? つまりお兄ちゃんの声の良さは客観的にしか判断できないの。この場にはお兄ちゃん以外には私しかいなくて、客観的に判断できるのは私しかいない。私が良い声だって言うんだから、つまり良い声なの」
「そ、そうなんだ……。えっと……あ、ありがとう?」
「どういたしまして」
反論を許さない強行的な、かつ一定の説得力を持たせた力強い論調だった。
礼ちゃんの評価は身内贔屓という色眼鏡によってだいぶ脚色が施されていると思うけれど、たしかに否定はできない。自分の声がどんなふうに聞こえてるかなんて自分ではわからないものだしね。
困惑とともに閉口していると、礼ちゃんはモニターに向けていた顔を僕に向ける。振り向いた勢いで、肩ほどまでの長さの柔らかな黒髪がふわりと弾んだ。いつもは前髪で隠れているおでこをちらりと覗かせた。
「楽しいよ、きっと。楽しくなるよ、今よりずっと。それに……」
お兄ちゃんと一緒にできたら私も嬉しい、と礼ちゃんは付け足した。
普段はわりと鋭く見える瞳が今は穏やかに細められていて、整えられた眉は八の字を作っていた。
礼ちゃんが多少強引にでも僕を動かそうとしているのは、僕のことを心配しているからだろう。
「ううむ……」
目を瞑って、VTuberについてよく考えてみる。これまでの事と、これからの事を、深く思量してみる。
VTuberになるにあたって必要になる技術的なことや知識的なことについては一度脇に置いといて、時間という側面だけに目を向ければ、僕に問題はない。
一か月前、僕は二年と少しほど勤めていた会社を辞めた。辞めた、というのも少し語弊があるかもしれない。より正確に表すと、いつの間にか辞める算段がついていた、という感じだ。
僕が勤めていた会社は俗に言う過酷なところだったらしい。らしい、と曖昧になるのは、僕にとってはその会社が初めて勤めた会社だったので、ブラックか否かなんて判断できなかったためだ。上司や先輩に、こう働くのが『普通』だ、なんて言われたら、そういうものなのかと納得せざるを得なかった。
その会社が異常な労働体制を敷いていたと僕が知ったのは、病院のベッドの上でのことだった。
記憶には残っていないが、職場から帰ってきた僕は家の玄関で寝ていたらしく、学校から帰ってきた礼ちゃんが発見してくれたそうだ。
あまりの多忙ぶりに実家を出る予定すら立てられなかっただけなのだが、倒れた時すでに一人暮らしをしていたらと考えるとなかなかに笑えない。
お医者様の診断したところによると、ストレス性の虚血性心疾患、狭心症だと仰っていた。なんだか胸の辺りが痛い時があったり動悸や息苦しさを感じるなあ、とは思っていたのだ、今になって振り返れば。僕としてはただの睡眠不足かと思っていた。
そこからは僕が入院していた病室に泊まり込む勢いで心配してくれた礼ちゃんが父に相談し、父経由で過重労働や労働災害などに明るい弁護士の先生を紹介してもらって対応した。
その後は驚く程とんとん拍子で話が進んだ。やはり専門の弁護士先生はすごいのだなと、素人丸出しの感想を抱いたものだ。過小に計算されていた労働時間と、未払いだった残業代、休日出勤などの手当て等々の手続きまで処理していただいた。口調は舌鋒鋭くといったものだが、物腰は柔らかで親身になってくれて、僕の容態まで気にかけてくれて、まだお若いのにとても頼りになる弁護士先生だった。これからもどうぞよろしくお願いしたいものである。弁護士先生のお世話になるようなことには、もうなりたくないけれど。
そんな一大スペクタクルチックな紆余曲折を経て、今や僕はどこに出しても恥ずかしい立派なニートと相成った。
結論。
時間ならある。潤沢に持て余している。
きっと礼ちゃんは、僕が家族以外とまるで関わりを持たずに過ごしているのを見て、あと仕事もしないでずっと家にいるのを見て、僕の将来を心配してくれているのだろう。とりあえず何か動いたほうが精神的にも社会的にもいいと思ったのだろう。
優しい子なのだ、礼ちゃんは。僕の妹にはもったいないくらい出来た妹なのだ。
そもそも倒れはしたものの、もう既に肉体的な問題は解決したし、精神的には最初からあまり影響を受けていなかった。ちょっと疲れがちというか疲労が抜けにくいくらいだったし、それも今はなんともない。
なんなら弁護士先生が辣腕を惜しげもなく披露してくれたおかげで纏まったお金が手元にあるわけなのだから、さっさと自立して一人暮らしでも始めて、再就職していてもおかしくはなかったくらいだ。
今僕は、こう言っちゃなんだけど先行き不透明かつ不安定なVTuberよりも、安定したお仕事を探すべきなのではないか。
生まれ育った家を出て新生活をスタートさせるのは勇気がいるし、なによりも礼ちゃんと離れ離れになるのはとても寂しいし悲しいし辛いし苦しい。半身どころか全身が引き裂かれるような思いだけれど、避けて通れない道だ。必ず訪れる遠くない未来だ。
いずれは礼ちゃんも良いパートナーと出会って結婚する時がくるだろう。家事はあんまり得意ではないけれど、最近はできないなりに手伝ってくれている。その上、こんなに可愛い優しい賢いその他諸々合計三拍子以上揃っているできた妹だ。嫁の貰い手なんていくらでもある。引く手数多だろう。
家族といえど、兄妹といえど、ずっと一緒にはいられない。
「うっ……ぐっ」
どうしよう、想像しただけで比喩ではなく胸が痛い。狭心症と診断された時よりも心臓が締め付けられるように痛い。過重労働と睡眠不足の日々を繰り返した二年と少しの間でさえ何ともなかった僕の頑丈な心臓と胃袋に風穴が空きそうだ。こんなことでは、礼ちゃんが嫁に行ったら確実に胃に穴が空く。いや、もう空いたかもしれない。空いた。
「ごふっ……」
「お兄ちゃんっ!」
僕が急に胸を押さえてうずくまったことで、礼ちゃんに誤解させてしまったようだ。体を気遣うように背中をさすってくれた。
「ご、ごめんっ! ごめんなさい! そっ、そうだよね?! お兄ちゃん、ずっと大変な思いしたんだもんね?! これまでいっぱい頑張ったんだもんね?! もっとゆっくり休んでてもいいよね!? ごめん、ごめんなさいっ……」
「……礼ちゃん、大丈夫だから。僕のほうこそごめんね。心配してくれてありがとうね」
「お、お兄ちゃ……っ」
悪いのは僕だ。
いや、悪いのは本当に僕だ。僕しか悪い奴はいない。
勝手に嫁に行くことを想像して勝手に心に深手を負って勝手に自爆した面倒くさいお兄ちゃんになんて、謝る必要は皆無なんだ。星を散らしたようにきらきらとしたつぶらな瞳を、今は涙でさらにきらきらと潤ませている礼ちゃんを見て、自己嫌悪でさらに胸と胃が痛んでくる。
いずれは必ず訪れる未来なら今のうちに予行練習として、慣らし運転として、可及的速やかに家を出て一人暮らしするべきだ。礼ちゃんがいないという生活に早く心臓を慣らしておかなければ危険だ。ヒートショックの例もある。急に気温が変化すれば心臓に負担がかかるのと同じように、いきなり礼ちゃんが結婚して家を出るなんて話になったら僕の心臓とメンタルに重大な負荷がかかる。結果、心停止は避けられない。即死する。胃には穴が空き、心臓は張り裂け、四肢は千々に弾け飛ぶだろう。でも大丈夫、木っ端微塵になっても僕は礼ちゃんの幸せを祈っている。
こうして日々の平和な生活に潜んだ生命の危機に気付けたのは、案外良かったのかもしれない。ついに僕にも妹離れをする機会が訪れたのだと、そう前向きに捉えることとしよう。
寂しいけれど、仕方のないことなのだ。
覚悟を決めて、礼ちゃんに向き直る。
言うのだ。『もう一緒にはいられない』と。『仕事を見つけて家を出る』と。今、この場で。
不安からなのか心配からなのか、礼ちゃんは透き通るような白い肌を青ざめさせて、溢れそうになるほど涙を蓄えて、震える唇を噛み締めて、嫋やかで繊細な指は縋るように僕の服を摘んでいた。
決心して、その冷え切ってしまっている小さな手を握る。
「楽しそうだよね、VTuber。できるなら、一緒にやりたいなあ」
ああ。ああ、神よ、意志の弱い僕をどうか許してほしい。
でも仕方のないことなのだ。
ここでいきなり『VTuberにはならない。僕は家を出る』なんて言い出したら、礼ちゃんはどう考えるだろうか。きっと『私が変なことをお願いしたせいでお兄ちゃんが家を離れようとしている』などと誤解してしまうだろう。
いやまあ、本を正せば礼ちゃんの一言をきっかけにして行き着いた『家を出る』という結論だったので、間違いではないどころか百パーセント正解なのだが、大事なのはそんなところじゃない。
なによりも大事なのは、僕の発言如何によって礼ちゃんが泣いてしまうかもしれないという、ただその一点のみが重要なのだ。
泣き崩れそうな妹を目の前にして、迂闊なことを口走るほど僕は素人ではない。この道十八年のベテランお兄ちゃんなのだ、甘く見てもらっては困る。
「ほ、ほんとに? 無理、してない? 私がお願いしたからって、無理してない?」
驚きと喜びと不安を綯い交ぜにしながら、礼ちゃんは大きく目を見開いた。目に湛えられた涙は一雫、その花瞼から滴った。頬を濡らした涙は一筋で止まってくれたようだ。お兄ちゃん的にはギリギリセーフ。
「無理なんてしてないよ。礼ちゃんが楽しそうにゲームの実況とかやってるの見て、すごいなあって、輝いてるなあって思ってたんだ」
「そんな、輝いてるだなんて……恥ずかしいなあ。……ん、ちょっと待って? 私の配信見てたの?」
「あっ……」
二年ほど前から礼ちゃんがVTuberをやっていることは知っていた。未成年なので親の承諾が必要だし、本人からも話は聞いていた。
しかし、配信は見ないで、と固く言いつけられてもいたのだ。僕としては頑張っている礼ちゃんを堂々と応援したかったが、本人から見ないでと言われたら表向きは従うしかない。
なので陰ながら、名シーンや迷シーン、見所を纏めた切り抜きと呼ばれる短い動画を視聴するに留めていた。
スーパーチャット──通称スパチャと呼ばれる、路上パフォーマーへ投げ銭を贈るのに近い機能を使って配信者への応援が出来るのだが、それも本人が嫌がるならやる意味がないと思って、僕は断固たる自制心で以て応援したい欲を抑えていたのだ。かなり妥協した上で泣く泣く切り抜きを拝見するだけで我慢していたのに、どうやらそれすら許してくれないらしい。
礼ちゃんは僕の服を掴んで前後に揺さぶり始めた。
「恥ずかしいから見ないでって約束したのに!」
「『私の配信見ちゃだめだからね』って言われたから、礼ちゃんのチャンネルでの配信は見てないよ? 有志が編集してアップしてくれている切り抜きを楽しんでるだけであって」
「屁理屈だよねそれ! もう! いつの見たの?! 昨日のとか見てないよね?!」
「お母さんから頼まれてたお手伝いを消化してたから、まだ見てないね。作業を済ませたあとの楽しみにしてたんだ。お茶菓子でもつまみながら見させてもらおうかと」
「優雅に見ようとしないで! 見ないで! 見ちゃだめだからね!」
「あはは」
「なんの笑いなの?! ごまかされないからね!」
このままでは切り抜きすら見られなくなってしまいかねない。ここは策を弄さねば。
「でも、仮に僕もVTuberとしてやっていくことになったとしたら、礼ちゃんは同僚……じゃないか、先輩になるわけでしょ?」
「え? ま、まあ……そうなるの、かな?……えへへ、お兄ちゃんが後輩かあ……」
先輩後輩というワードがそんなに琴線に触れるのか、嬉しそうに、それでいて照れくさそうに身を捩りながら小声で呟いていた。
この調子なら思いのほか簡単に注意を逸らせそうだ。
「だから、先輩が頑張っている光景を、その後ろ姿を目に焼き付けるのは、配信者として勉強をしていく上でとても大事なんじゃないかな? 配信を見てくれている人たちを楽しませるにはどうすればいいか、参考にしたいしね」
「……そっか、そうだよね。なるほど……それなら仕方ない、のかな? でも……そういう意味なら、私のよりも先輩がやってるのを見たほうが参考になるかもね。あ、先輩っていうのは『NT』の一期生の人たちのことね」
「そうなんだね。その人たちの配信も一緒に見てみるよ、ありがとう」
正直なところ、他の配信者さんについてはそこまで興味はない。礼ちゃんの口から直接『見ても良い』と受け取れるような言葉を引き出させれば、それで僕は満足だったのだ。どこまで見ていいかは指定されていないので、拡大解釈すれば配信は全部見ていいということになる。おかげでこれからは誰に憚ることもなく、切り抜きではなく直接礼ちゃんのチャンネルのアーカイブを遡って鑑賞することができるし、配信も生で見ることができる。
そういえば、見るのは許可が出たけどスーパーチャットもありなのかな。スパチャしちゃダメなんて言われてないし、してもバレないよね、きっと。早速次の配信からやらせてもらおう。
「それじゃ、さっそく応募の準備しよっか! 違う企業さんだといろいろ条件あったりするけど、うちの『NT』はそのあたり緩いからね。これといって制限はないし、動画で特色出していければきっといけるよ! お兄ちゃんだからやっぱりFPSかなあ。あ、でも声もすっごくいいからそっちでもアピールしたいなあ。歌とかかなあ」
僕よりもよっぽど楽しそうに、どんなアピールの仕方をするか考えている礼ちゃんだった。お兄ちゃんは楽しそうにしている礼ちゃんを見られるだけで幸せです。
『New Tale』はまだ設立されてそう時間が経っていない若い事務所だが、経営は順風満帆なようで、定期的に新しいVtuberをデビューさせている。
礼ちゃんも配信で近々四期生の募集があるとお知らせをしていた。
なぜ配信を見れないはずの僕が知っているかというと、礼ちゃんのお知らせの文言が毎回一言一句変わらないと話題になって切り抜かれていたからだ。あの声に抑揚を感じられない様子だとおそらく、メモか何かを読み上げているのだろう。文章もそうだが、読み上げる速度も声のトーンも毎回寸分違わないくらいに同じで、コメントでは〈前もって録音してお知らせの時に流している〉なんて言われるほどだった。
そういった四期生募集というタイミングと僕の生活状態を鑑みて、VTuberをやってみないかなどと誘ってきたのだろう。
お兄ちゃんという立場上、妹を悲しませるわけにはいかないので応募するだけしてみるという流れには乗りはした。
でも、乗り気な礼ちゃんには悪いけれど、応募したところで受かるとは僕自身まるで思ってはいない。
あまりVtuberという界隈に詳しくはない僕が知っている限りでは、という注釈は入るけれど、男女比率の壁がある。配信者さん個々人それぞれ変動はあるが、少なくとも『New Tale』に所属しているVtuberの配信を視聴している人は男性が多い。
それはそうだろうな、とは思う。所属している人数が女性のほうが多いのだから。
いや、多いというのは正しいが正確ではない。厳密に言えば『New Tale』に所属している男性Vtuberは一人しかいないのだ。その方は一期生の、えー、ちょっと名前までしっかり記憶していなくて申し訳ない気持ちになるが、そう、一人しかいない。礼ちゃんが健全に活動していけるのか心配になって一通り目を通したのだが、一人しかいなかった。
配信者の人気を推し量るバロメーターとして有効なものにチャンネル登録者数というものがあるのだが『New Tale』唯一の男性Vtuberと他の同期の方々を比べると、そのチャンネル登録者数に大幅な開きがあったりするので、やはり男性がやっていくのは生半な努力では厳しいのだろう。
加えて、リスナーの感情の問題もある。
他の企業では男性と女性のVtuberの割合が半々とまではいかないものの、三対七から四対六くらいのところもあるらしい。そういうところでは視聴者サイドも男性Vtuberを受容する環境が整っているのかもしれないが『New Tale』はそうではない。自分が推している女性Vtuberには男どころか、男の影すら近づいてほしくないという考えのファンもいる。そういった考えが行き過ぎれば、たとえ同じ事務所内であったとしても良い感情は抱かない。もしかしたら特に深い関わりなどがなくても、存在を否定する理由になり得る。
そういった可能性が潜在しているのがVtuberという世界。と、僕は勝手に認識している。
そのような過酷な世界で、しかもこれといって取り柄もなければ配信者としての心構えも技術も経験も持ち合わせていない僕がやっていけるとは、情けないことだが到底思えない。そういった部分も『New Tale』の採用担当者さんはきっと見抜いてくるだろう。仮に本気で自己PRして応募したとしても、正面から合格できる可能性は限りなく低いと予想している。
オーディションに落ちたら、礼ちゃんも少しはしょんぼりしてしまうかもしれないが、仕方がないと諦めてくれるだろう。職探しをしながらほとぼりが冷めるのを待ち、自立する準備を進めよう。そうすれば礼ちゃんが変に罪悪感を抱くこともないはずだ。
一分の隙もない計画だ。
ただ、隙はなくとも懸念はあった。
「ねえ、礼ちゃん」
「……歌、ボイス……ぃ人シチュエーションボイスとかも捨て難……え? どうしたの、お兄ちゃん?」
聞き捨てるにはあまりにも意味深がすぎる発言が一部あったが、触れるのも怖いので記憶に蓋をして流しておく。
「……えっと、僕が礼ちゃんのお兄ちゃんだってことはしばらく秘密にしておいてね」
「……どうして?」
妖精さんが住んでいるとしか思えない可憐な声を世界に発信する礼ちゃんの喉から、地獄の釜を開いたような音がした。それが『どうして?』という言葉を構成する音だと認識するのに数秒かかったくらいだ。しかも、先ほどまでは満点の星空に勝るとも劣らないきらきらしていた瞳が、今は澱んだ沼のように濁っている。
こ、怖、怖くない。とは言えないが、礼ちゃんの新たな一面を知れたことに感謝することにしよう。
「ほ、他の応募する人に対して不公平になったら、いけないでしょ? そういうのってあまりよくないと思うんだ」
乾いた喉を必死に震わせて、言葉を発する。
懸念というのがそれだった。もし万が一、オーディションを突破してしまう可能性が存在しているのなら、それは礼ちゃんの兄だからという縁故採用的なルートだろう。正面から入れないなら裏口から、ということだ。その可能性を潰すためにも、礼ちゃんには口を閉ざしていてもらおう。
そしてついでに、炎上対策のリスクヘッジでもある。
今のネット社会、何が理由で人の反感を買うか予想できない。コネクションを使って自分の都合を押し通そうとした、なんて悪意ある捉え方をされないとも限らないわけだ。その悪意の矛先が僕だけに向けられるのであればなんら問題はないけれど、もし礼ちゃんにも火の粉が及ぶようなことになれば僕は自分を許せない。リスクの芽は念入りに摘み取っておかなければならない。
「ああ、なんだ、そういうこと……。ほんと、お兄ちゃんってそういうところあるよね。自分に有利になりそうなら、なんでも使っちゃったらいいんじゃないかなーって、普通は思うよ」
呆れたように息を吐きながら礼ちゃんは肩をすくめる。実に愛らしい動きと表情だ。先ほどまで瞳の奥に闇を飼っていた人と同一人物とは思えない。
「Vtuberになったら否が応でも正々堂々やるしかないんだから、ずるい手を使ってオーディションに受かってもしょうがないよね」
「あはっ、やっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんだなあ」
おかしなことを言った覚えはないけれど、礼ちゃんはすごく笑顔になっていた。よくわからないけど、礼ちゃんが幸せそうならそれでいいです。
「それじゃあ礼ちゃん、応募する動画作り手伝ってもらっていい? 僕は詳しくないからさ」
「うん! まかせて!」
花も恥じらい月も隠れてしまうほど華やかにして輝かしい笑みで、礼ちゃんは迷うことなくお願いを引き受けてくれた。
どうせ落ちることになる応募で忙しい礼ちゃんの貴重な時間を削るのは心苦しいけれど、一緒に動画作りするくらいのおいしい思いはしていいだろう。この一件が過ぎ去れば、この家から離れることになるのだから、兄妹で共同して簡単な動画を一本作った、なんていうささやかな最後の思い出くらい、作っても許されるだろう。
あと何度見られるかわからない、目が眩むほどの礼ちゃんの笑顔を、僕は網膜に焼き付けた。
Vtuberさんたちやストリーマーさんたちを某動画共有プラットフォームで見ていて、見ているうちに気がついたら脳みそが勝手に物語を垂れ流し始めたので書き始めたのがきっかけです。
しばらくの間は自分で書いて、忘れた頃に自分で読んで楽しむという地産地消で満足してましたが一章を書き終えたあたりで人に読んでもらいたくなったので投稿しました。
気が向いた時にでも感想や評価などもらえると書き溜めのモチベーションになるので、お時間がありましたらどうかよろしくお願いします。