旅立ち
そうと決まれば話は早い。早速、準備に取りかかった。
と言っても、遊牧民である彼らの身支度は、極めて早い。
弓や矢の他、携帯食や水もいくらか用意したとは言え、ものの十五分で準備を済ませると、ユルトを後にした。
外は月明かりもなく、宴の賑わいが、遠く風に乗って、アルスランの所まで届いていた。誰にも気づかれないよう出発するには、ちょうどよい夜だ。
今回の外出は、族長である父の許可を得たものではない。皆に知られるわけにはいかないのだ。
ひんやりとした風に、頭がすっと冴えていく心地を感じながら、夜の闇に身を潜めて、いくつものユルトを音を立てないよう通りすぎていくと、馬の放牧地に到着した。
放牧地といっても、羊やヤギに使用する囲いがあるわけではなく、ただただ、だだっ広い草原がどこまでも続いている地を、放牧地と呼んでいるに過ぎない。囲いを作ったとしても、脚力のある馬のことだ。軽々と飛び越えてしまい、全く意味を為さないのだ。
とは言っても、時に、馬を盗む野盗が出ることもあるので、所々に篝火を焚き、見張りを置いて用心していた。その見張りたちは、篝火の明かりの下、食事を取っていた。誰かが持ってきてくれたプロフを美味しそうに食べながら談笑している姿が、勢いよく燃える炎の下、よく見える。
その光景を、暗闇からじっと見つめていたアルスランは、見張りたちに気づかれないよう、篝火の明かりから遠く離れた暗闇を選び、右に大きく迂回していった。その後を、クリチュが続いた。
馬は、広い放牧地のあちこちに点在している。また、鞍をつけていない。
明かりも乏しい中、この広大な放牧地で自分の馬を目で探すのは不可能に近い。
だが、アルスランには、きっとすぐに見つけだせるという確信があった。馬は夜目が利くし、なにより、主人のことを気配かなにかで感じ取っているように思われることが、今までに何度もあったからだ。
見張りから離れ、どんどん放牧地の奥へと進んでいく。
二人が通ると、ときおり餌を食むのを止め、こちらを見つめてくる馬もいたが、どれも二人の馬ではなかった。
さらに進んでいくと、突然、アルスランは立ち止まった。
カポッカポッという、ゆっくりではあるが、こちらに向かってくる馬の蹄の音に気づいたのだ。しかも、二頭いる。
二頭はゆっくりこちらに近づいてくると、目の前で止まった。
アルスランの愛馬スユンチと、クリチュの馬アララトだ。
二頭とも、この漆黒の闇の中、濡れたような艶やかな黒い瞳をこちらに向けていた。
「やはり、馬は賢いですね」
クリチュの感心するような声に、小声で「あぁ」と答えると、アルスランは手を伸ばし、スユンチの頬を軽く撫でてやった。思わず、笑みがこぼれた。
アルスランは周囲を見渡し、すぐそばに別の二頭を見つけると、近くに来るよう合図を送った。
「まずは、土の魔法石を使って証跡を消そう。それから、見張りに見つからないよう、しばらくは歩いていく。そして、ある程度のところまで行ったら乗るぞ」
二頭が近くまで来たことを確認したアルスランは、押し殺した声でそう言うと、腰に結びつけていた袋から土の魔法石を三つ取り出して、一つをクリチュにやった。
土の魔法石には、人が辿る軌跡を消してしまう効果がある。
シャモル地方にいる風読み司は、草原を吹きわたる風から様々な情報を入手する。それは、人の足跡や現在位置という情報も例外ではなかった。
しかし、土の魔法石を使うと、そういった情報が風から読めなくなるのだという。はっきりとしたことはわからないが、プラト曰く、風によって運ばれる様々な情報を、土の匂いが邪魔するのだそうだ。そのため、このシャモル地方では、土の魔法石の価格のみ、他の魔法石と比べて高く設定されていた。ゆえに、必然と、有力部族の手元に多く置かれる結果となっていた。
アルスランは、手の平に転がっている土の魔法石を口許に近づけると、ふぅーと息を吹きかけ、自分と愛馬スユンチの足元に放った。
草の上にコロンと転がった土の魔法石は、一度、カタッと身震いすると、突然、大量の土や砂を空に向かって噴き出した。
ぶわっと舞い上がる土埃。
それが、瞬く間に、アルスランとスユンチの周りをぎゅっと取り囲んだ。風もなく、つーんとする土の独特な匂いの他は、何も見えず、聞こえもしない。苦しさや窮屈さを感じたが、それも一瞬だった。すぐさま、土は、どさっと地面に落ちた。
今、目の前にあるのは、先程と同様、漆黒の夜の闇だった。
他の二頭にも同様に土の魔法石を使い、クリチュが使用したのも見届けたアルスランは、魔法石が入っている袋を帯の間に挟み込むと、ちらと、見張りに視線をやった。
そして、彼らがこちらに気づくことなく、話に花を咲かせているのを確認すると、空に輝く星を頼りに南西の方角へと歩きだした。
まずは、六部族の中で一番危機的状況にある、アルサル族の野営地を目指すことにしたのだ。
アルスランの後を、クリチュや馬たちも続く。
すぐに、二人と四頭の姿は、闇夜に溶け込んでいった。