父のもとへ
そんな時だった。また、さくっという草を踏みしめる音が耳に届いた。
ブリか? と瞬時に思ったアルスランは、憎しみが宿る瞳を、音がした方へぱっと向けた。
しかし、そこに現れたのは、一人の小柄な男だった。
と言っても、働き盛りの男性によくあるがっしりした体格をしており、ちょっとやそっとのことではびくともしない、たくましさがあった。
男はその場で立ち止まると、この部族ではあまり見かけない、青い瞳をくりくりと輝かせながらアルスランを見つめていた。
その姿を認めたアルスランは、ほっと息を吐くと、肩の力を抜いた。
「……プラトか。今帰ってきたばかりだよ」
「おお、わかっとる。風が教えてくれたからな」
風読み司のプラトは、にかっと笑うと、そう答えた。
風読み司とは、この大地を吹き渡る風から、様々なことを読み取る能力を兼ね備えた者たちのことである。
「風を守護する者」の影響下にあるシャモル地方では、常に風が吹き渡っている。
その風には、誰がどこにいるのか、とか、どんな話が人の口にのぼっているのか、とか、そういった情報が詰め込まれているのだという。その情報を読み取る力を持っている人を、風読み司とよんでいるのだ。
その中でも、特に優れた風読み司は、あの飛竜を操ることができた。一度、力を振る舞えば、人など容易く殺してしまう飛竜を、風読み司は意のままに操ることができるのだ。
ゆえに、大方の部族は、より能力の優れた風読み司を囲おうと躍起になっていた。優秀な風読み司を多く囲うことができれば、多方面に有利に働くというわけだ。
アルスランのオグズ族も風読み司を四名囲っていたが、その中でも、プラトの力は特出していると言ってよい。
しかし、アルスランにとっては、プラトは幼い時から側にいてくれた、もう一人の父親といっていい存在だ。物心つく時から、族長として忙しく動き回っていた父は、その厳しさも相まって、近寄りがたい存在だった。そんな時、側で優しく見守ってくれたのが、プラトだったのだ。いったい今まで何度、その優しく愛情のこもった瞳で幼いアルスランの心を和ませてくれただろうか。しかし、時になんともいえない悲しげな瞳で見つめられることもあり、そんな時は不安に襲われることもしばしあったのも事実ではあったが……。
プラトはアルスランに声をかけた後、クリチュたちがと馬と格闘が続いている方に視線をやった。
(ブリとの会話をプラトに聞かれたのだろうか……)
並んで立つプラトを横目でちらちらと盗み見ながらそんなことを考えていると、突然プラトが低い声でぼそっと呟いた。
「土の匂いがする……」
一瞬ぽかんとした表情を浮かべたアルスランだったが、すぐさまその意味を理解するとはっとした表情でプラトを見た。
一方プラトは、表情を変えることなく馬を眺めていた。しかし、また低い声で呟いた。さきほどよりも、さらに小さい声だった。
「親爺っさんからな」
アルスランの体の中心に、びりっと電流が走った。
それほど衝撃を受けたのだ。と同時に、やはりそうだったのか、と納得する自分がいるのも事実だった。
プラトのいう「土の匂い」とは、「土を守護する者」にかかわるものから生まれる匂いを指す。それはつまり、「土を守護する者」の影響下にある隣国イギ国にかかわるものを指すということだ。
プラト曰く、例えば風にまつわるものからは風、火にかかわるものからは火の匂いがするのだという。風読み司ではないアルスランにはよくわからなかったが、それぞれが自分が深くかかわるものの匂いをまとっており、特に強い関わりを持っているものほど強く匂うのだそうだ。
通常であれば、「風を守護する者」の影響下にあるシャモル地方にいるアルスランの父からは、土の匂いなどするはずがない。
しかし、プラトはそれがするという。
それが意味することとは、一つしかない。そして、それは先程のブリの発言を裏付けるものでもあるのだ。
「イギ国の者となんらかの形で接触をした、ということか……。さっきのブリの話は本当だったんだな……」
厳しい表情を浮かべると、アルスランは呟いた。
何らかの形で土の匂いを放つものと接していれば、その残り香が移っていてもおかしくはない。それ以外に考えられなかった。
「……俺にはよくわからねぇ。ただ、一つ言えることは、親爺っさんから土の匂いがするっていうことだけさ」
じっと馬を見つめたまま、プラトははっきりそう言った。
突然の展開に、アルスランは混乱していた。
誰よりもこの地で生きることを誇りに思い、オグズ族のために全身全霊を捧げてきた父だ。そんな父が、幾度となく交戦してきた隣国、イギ国の者と会っている姿など、想像することさえ難しかった。
しかし、未だかつて、プラトの言葉に誤りがなかったことも事実だ。そう考えると、会っていたのはおそらく間違いないのだろう。しかし、なぜなのか……?
答えは簡単だった。ブリだ。
イギ国国境周辺を守っているブリが、父に入れ知恵をしたに違いない。……いや、もしかしたら、イギ国の者と結託し、父を唆そうとしているのかもしれない。
アルスランの全身の毛が一気に逆立った。怒りが、血管を伝って身体中を駆け巡る。
「……父上に、直接訊いてみる」
自分でも気がつかないうちに、言葉が口からこぼれていた。
その言葉に、プラトは視線を馬からアルスランにやった。
その顔には、複雑な表情が浮かんでいた。
ちら、とその表情をとらえたアルスランは、急いで言葉を継いだ。
「プラトから聞いたとは言わない。ただ、どこに行っていたのか尋ねてみるだけだ」
「いや、俺はそんなことは気にしねぇよ。ただな……」
すぐさま首を振って否定したプラトだったが、表情は相変わらずだった。なにかをためらっているような、そんな様子にも見えた。
しかし決心したのか、今や、青筋を立てながら大地を踏みしめているアルスランを真正面から見据えて言った。
「伝えるべきか伝えないべきか迷ったんだが……。それでも、お前は知っておくべきだと思ったんだ。遅かれ早かれ、知ることになるだろうからな……。
……親爺っさんのことだ。ブリの気性はよくご存じだから、唆されてるってことはねぇだろう。もちろん、俺なんかには、真意はわかんねぇけどな。
だがな、アルスラン。親爺っさんは、誰よりもオグズ族のことを大事に思っている。それだけは、忘れちゃなんねぇぞ」
かっとなりやすいアルスランの性格をよく知っているプラトらしい言葉だった。
アルスランはその言葉に頷くと、踵を返し、元来た道を引き返していった。さきほど挨拶を述べた父の元へ、と。
その後ろ姿をプラトは見つめていた。
その瞳には、幼いアルスランが幾度となく不安にかられた、悲しげな色が浮かんでいた。