別れ
頬に、生暖かい風が当たる。どこか懐かしい、ほっとできる匂いが、鼻腔を突く。
まどろんだ世界から急に呼び起こされたように目を覚ましたアルスランの頬に、なにか温かいものが触れる。スユンチだ。顔を、擦り付けてくる。
ぼんやりした頭でスユンチの鼻の横を撫でると、気持ち良さそうに目を細める。
一通り撫でると、アルスランは立ち上がり、辺りを見回した。
そこは、スユンチたちと別れた場所だった。
開けた大地で、大きな岩が二つ、まるで、門番のように直立している。その先には、低いうなり声をあげながら、強風が大きな球体となって、時に、バチッと光を放っていた。
と、アルスランは、少し離れた所に、ニルファルが倒れているのを見つけた。そばで、アララトが、心配そうな目つきで見つめている。
アルスランは急いで駆け寄り、ニルファルを抱き起こした。
「ニルファル? おい、しっかりしろ、ニルファル!」
「う、うーん……」
どうやら、ただ気を失っていただけのようだ。
ニルファルは、ゆっくり目を開いた。
そのとろんとした瞳がアルスランに向けられると、少しの間をおいて、急に、大きく見開かれた。
「アルスラン……?」
そう言うと、がばっと起き上がって、辺りをきょろきょろと見回した。
「あれ? さっきの人は、どこ? ここは?」
「さっきの人って?」
アルスランの言葉に、ニルファルはきょとんとしながら答えた。
「さっき、私たちを案内してくれた人よ。……そういえば、大きな風の塊の中に引き込まれて、それから……。あれ、それから、どうしたんだっけ?」
「あのあと、俺は、見たこともない荒野に立っていたよ。そこで、おそらく、ソグド族の族長だと思われる人物に会ったんだが……」
ふと、アルスランは、その場に、ニルファルとダストがいなかったことを思い出す。
「そういえば、ニルファルたちを見かけなかったな。どこに、行ってたんだ?」
ニルファルは指を顎に当てて、うーんと考え出した。
「えーと。確か、変な風につかまって、取り込まれたら……」
そう言うと、おもむろに、アルスランの方を見た。
「……ここにいた」
「え?」
アルスランは、驚いた。
「どういうことだ? 荒野には、行かなかったのか?」
「荒野って、どこの話? 取り込まれて、気が遠くなって……。そうしたら、今、あなたに起こされたのよ」
そんな話をしている内に、ダストも、覚束ない足取りで、ふらふらとやって来た。
「……私も、ニルファルさんと同じで、取り込まれた後、ここで倒れていた、というところですね」
(そうか。俺だけが、招かれたというわけか……)
「ねえ、荒野って、どういうことなの、アルスラン?」
アルスランは、一部始終話してやった。
二人は驚き、時に質問をはさむなど、中々話は進まなかったが、なんとか全て話し終えた。
「イェル古都に集まるように、ということなのね」
「ああ、そうだ。風を使って、各部族に伝えると言っていた。三週間後と言ってたな」
それ以外にも言っていたような気がするが、記憶の奥底にたゆたうだけで、掬い上げることはできなかった。
「三週間後……。すぐですね」
ダストが呟く。
「そうだな……」
しばし、沈黙が訪れる。その静寂を、ニルファルの呟きが打ち消した。
「……アルスランは、これから、どうするの?」
「俺は……、俺は、一度、自分の部族に戻ろうと思っている。ソグド族の族長は、俺も、その場に出ろと言った。それは、オグズ族の一員として参加しろ、ということを意味しているのだと思う。族長は、この地の結束はないに等しい、と言っていて、懸念されているようだった。俺も同意件だ。にもかかわらず、出身部族と距離を置いているなんて、説明がつかないだろう?」
ニルファルの瞳が揺れた。
「戻っちゃうの? いつ、戻るの?」
「三週間後だから、もうすぐにでも、戻ろうと思う。それでも、間に合うかどうか……」
「なら、無理に戻らなくても、いいんじゃないかな!」
努めて明るい声を出そうとしていたが、表情に焦りが見え隠れしている。
「舞台って、前に、近くを通ったところでしょう? でも、オグズ族って、もっと遠いところにいるんだよね? なら、無理に帰ろうとしなくても……」
「ニルファルさん、アルスラン様は、オグズ族の次期族長ですよ。別行動していたとしたら、アルスラン様のおっしゃる通り、他の部族に示しがつかないでしょう?」
ダストもアルスランに加勢したが、ニルファルは、引こうとはしなかった。
「でも、でも、間に合わないよりは、ましじゃない? それに……」
「ニルファル」
アルスランは優しい声でそう呼び掛けると、ニルファルと目線が合うように、腰を屈めた。
「ニルファル。俺は、一度戻るけど、これで会うのが最後というわけじゃない。例え、頼まれたとは言え、俺が連れ出したんだ。気にはかけるつもりだよ。
必ず、また会いに行く。だから、ニルファルはニルファルで、しっかりやれよ」
「で、でも……」
「ニルファルさん。アルスラン様には、やらなければならないことがあるのですよ。……わかるでしょう?」
ダストの言葉は、穏やかでありながら、有無を言わせない厳しさも滲んでいた。
ニルファルは黙った。
その顔は、今にも泣き出しそうなほど、歪んでいた。
風が、三人の間を吹き去っていく。
それは冷たく、しかし、内に生命力を宿しているような、そんな風だった。
ふと、アルスランの脳裏に、瑞々しい青葉が広がるオグズ族の草原の光景が広がった。




