ソグド族の町
白い渦の中に一歩足を踏み入れると、そこは、見た目とは裏腹に、全く風が吹いていなかった。回りは、強風が吹き荒れているように見えるにもかかわらず、肌には何も感じず、風の音も聞こえない。
そんな中、先ほどの小柄な男が、ポツンと一人突っ立って、こちらを見ていた。その男は、アルスランたちの姿を確認すると、さらに白濁した先へと、溶け込むように消えていった。
ニルファルたちもついてきたことを確認したアルスランは、濃霧のように先が見通せない、あの男が消えていった先へと進んでいった。
進めば進むほど、辺りの白濁の濃さが増していく。その正体とは吹きすさぶ風なのだが、相変わらず、風の吹く音は聞こえない。そこは、水の奥深くに横たわっているような、全く無音の世界だった。
強風が吹き荒れる光景と、無音の世界。
通常であれば起こり得ない情景を前に感じる違和感からか、アルスランは、かすかに吐き気を覚えた。
胃の中で、鉛が沈んでいくような感覚。
他の二人がどのような気持ちでいるのかはわからなかったが、おそらく、同じような気持ちだったのではないだろうか。みな、不気味なほど、口数が少なかった。
伸ばした先の手さえ見えない中、ソグド族と思われる男は、姿を現しては消え、を繰り返しながら、アルスランたちを導いている。この白濁した世界で、彼だけが、唯一の道標だった。
周囲の様子が見えないので、やたらと疲れる。上っているのか下っているのかもわからない中、前の方から男の声が聞こえた。
「つきました」
思わず、アルスランは顔を上げた。
その瞬間、霧のような白濁した世界が吹き飛び、驚きの光景が目の前に広がった。
ゴーッとうなる風が吹く中、そこには、下が見えないほど深く切り立った崖が広がり、その下の方から高く突き出た何十もの岩の上に、頑丈な石造りの家が建ち並んでいた。そして、その間を、何人もの人々が、白い衣を翻して、ふわっと飛び交っていたのだ。
衣で風を受け止めるかのように、飛び交う人々。
そのさらに上空では、何匹もの飛竜が、今まで聞いたことのない、コロコロと鈴を鳴らしたような可愛らしい鳴き声をあげて、ゆったりと飛んでいる。戦以外で、こんなにたくさんの飛竜が一ヶ所に集まっているのを、アルスランは初めて目にした。
その信じがたい光景を前に、ニルファルの息を飲む音さえ耳に届かず、アルスランは、顎が落ちるほど口をあんぐりと開けた。
「ここは、「風を守護する者」の力を最も強く感じられる場所。その恩恵を受けて、人でさえ、その風を意のままに操ることができるのです」
男の説明さえ頭に入ってこないほど、目の前の光景が信じられなかった。
人が、空を舞う。
「風を守護する者」の影響下にあるシャモル地方に住むアルスランでさえ、初めて見る光景で、かつ、こんな話は昔話にさえ聞いたことがない。
しかし、その驚きとは別に、さきほどの吐き気が、段々と強くなっていた。どこか遠くで、「キーン」という音が鳴っているような気がする。
自由に空を舞っている人々は、老若男女問わず、案内人である男と同じような出で立ちをしている。一様に白い衣を纏い、肌も透けて見えるほど真っ白い。そして、皆一様に、感情が読み取れない表情をしていた。子どもでさえ、全くの無表情なのだ。
その生気が感じられない姿に、吐き気を催しているのかもしれない。驚くと同時に、ぞくっとするほど不気味でもあった。
「族長が、あちらでお待ちです」
男が指差す先に、大きな球体の風の塊が渦を巻いていた。案内人の男と会った場所で見た、風の塊とそっくりだった。それが、他の建物の間を、ゆったりと漂っている。
それを見たアルスランたちは、その場で立ち尽くした。
一体どうしたら、あそこまで行けるというのだろう。
その心を見透かすように、男が言葉を継いだ。
「風に乗って、あそこまで飛んでいきます。簡単なことです」
そう言うと、男は綿毛のようにふわっと浮き上がって見せた。
「心の中で、自分が空を飛んでいる姿を、想像してみてください。必ず、飛べます」
アルスランは困惑したが、目をつむって、自分が空を自由に舞う姿を想像した。
すると、地面からふわっと風が舞い上がり、すーっと体が浮いたように感じた。ぱっと目を開けると、ゆっくりと、しかし上へと体が上昇していたのだ。
(飛んでいる……!)
そう自覚した途端、急にバランスを崩しそうになった。しかし、すぐに男が飛んできて、助けてくれた。
なんとか平衡感覚を取り戻した。
すると、今度は、自分が空を飛んでいるという興奮が、一気に身体中を駆け巡り始めた。全身から、途方もない力がぶわっと吹き出すような感覚。まるで、鳥になったようだ。
しかし、その一方で、どこかどうしようもない不安が、自分の心の奥底に、どろっと留まっていることにも気がついた。それは、初めて飛ぶ、という体験に対するものではなく、どこか別のところから、自分の中に流れ込んでくるような、そんな感覚だった。
その感覚に気づいた時、興奮は、さざ波が引くように、すーっと消えていった。
それでも、アルスランは、空で平衡感覚を保つ練習を繰り返した。そして、じきに、その感覚を掴んだのだ。
その様子を、ニルファルとダストは、困惑した表情で地上から見上げていた。
アルスランは下に降りると、二人に声をかけた。
「確かに最初は難しいが、すぐに慣れる。変に力をいれないようにするのが、コツなんじゃないかと思う。目をつむって、自分が空を舞う姿を想像してみろ」
その言葉に困惑しながらも頷いた二人は、早速、目を閉じた。
すると、少ししてから、ニルファルの体がすーっと浮かび上がったのだ。
自分が浮かび上がったことに気付き、ニルファルは静かに目を開いた。
自分の足元を見つめ、驚愕のあまり、目を大きく見開いた。と同時に、アルスランと同様、バランスを崩しそうになる。すかさず、アルスランが手を取り、支えてやった。
体勢を立て直したニルファルは、アルスランの方を向いた。
彼女の顔色は悪く、額には、たくさんの大粒の汗が光っている。それだけではなく、どこか怯えているようにも見える。
その理由には、なんとなく、アルスランにも心当たりがあった。
それでも、アルスランの力を借りながら、ニルファルは練習を続けた。そして、彼女もまた、すぐに、飛ぶことに慣れていった。
その間に、ダストも案内人の助言を受けて、飛べるようになっていた。これで、準備万端だ。
「よろしいですか? それでは、参ります」
案内人が空へと飛び立ち、三人も次々に続いた。
点在する家々の間をすぃーと飛んでいく。
時折、ソグド族の者とすれ違う。誰もが、アルスランたちに視線を向けることなく、無表情で飛び去っていく。その虚ろな瞳は、見ていて背筋が寒くなるものだった。
突然、アルスランの手に、なにか温かいものが触れた。驚いて見ると、それは、ニルファルの伸ばした手だった。
「ごめんなさい、でも、なぜかとても怖いの。胸が、苦しくなってきて……。だからお願い、手を繋いでいてくれる?」
苦悶を浮かべて話すニルファルの表情は、先ほどより青ざめていた。
「大丈夫か? 顔色がかなり悪いが」
そう言いながら、アルスランは、ニルファルの手を優しく握りしめてやった。
「うん、さっきから、なぜか頭が痛くて……。吐き気もするんだよね」
「頭の中で「キーン」という音が鳴り響くような感じか? 胃の中に、重石があるような感覚だったりしないか?」
「……なんで、わかるの?」
「俺も、さっきから感じるんだ」
ちらと、ダストに目をやった。
気持ち悪いのか、手で口を押さえている。彼もまた、体調が悪そうに見えた。
進むにつれ、風の球体が大きく見えてくる。と同時に、「キーン」という音や、不快感も増してくる。
繋いでいるニルファルの手に、力が入る。その手は、じとっと汗ばんでいた。アルスランは、励ますようにその小さな手を強く握りしめ、引っ張るように飛んでいった。
風の球体のすぐ近くまで来た。
ゴーッといううなり声をあげて、風が、何本もの白筋をたてて渦巻き、大きな球体となしている。放たれる風圧による圧迫感は相当強く、触れようとすれば、直ちに弾き飛ばされ、体が引き裂かれるだろう。
頭痛は、さらに激しさを増していた。こめかみが、ドクンドクンと脈打っている。
「族長は、この中にいます」
案内人がそう言った途端、目の前の風の球体から、触手のような一筋の風が吹き出すと、案内人にさっと触れ、掠めとるように球体の中へと取り込んでいった。
唖然とした三人だったが、すぐに、三本の風の筋が吹き上げると、凄まじい早さで、アルスランたちの方へ飛んできた。
「きゃっ!」
ニルファルの悲鳴が聞こえたが、それも、すぐに聞こえなくなった。
アルスランたちは、あっという間に風の筋に捕まると、振り回されるように風の球体へと取り込まれていったのだった。




