案内人
半時間ほど進むと、緩やかな上りに入っていった。
辺りには、人や生き物が踏み固めたような道はなく、生き物の痕跡が全く見当たらない。植物もまばらで、むき出しの大地が、あちらこちらに広がっている。ただ、ゴーッという風の音だけが、我が物顔で吹き荒れていた。
上るにつれ、風が、さらに強さを増していく。
と、突然「あっ!」という叫び声が聞こえた。
ぱっと後ろを振り向くと、ニルファルが羽織っていた毛布が、風にさらわれていくところだった。毛布は激しく身をよじり、空高く舞い上がると、あっという間に見えなくなった。
「大丈夫か?」
アルスランはそう言うと、自分が羽織っていた毛布をニルファルに巻き付け、しっかりと結んでやった。
「ありがとう……」
真っ赤な顔をして呟くニルファルの声も、風に吹き消されていく。
「本当に、ソグド族に会えるのでしょうか……」
ダストの声が、辛うじて耳に届く。
「……とりあえず、あの老人が言っていた、二つの岩の所まで進んでみよう」
村の老人が言うには、強風が吹き荒れる中、道なき道を進むと、両側に大きな岩がある、広い場所に出る。おそらく、その先に、ソグド族や「風を守護する者」がいるのだろう、と。ただし、その先は、それまでとは比べ物にならないほどの強風が吹き荒れ、一切、人を寄せ付けようとしない。それでも、一歩足を踏み入れると、その者は、ただちに風に吹き飛ばされ、空高く舞い上がった後、地面に叩きつけられ、絶命するという。
空に舞い上がり、地面へと落下していく自分の姿が、脳裏に浮かぶ。思わず、ぶるっと身震いをした。
「それでも、俺は、前に進まなければならない……」
奥歯を強く噛みしめ、アルスランは前を向いた。
どれほど、歩いただろうか。
辺りには、すでに緑はなく、荒涼とした山道が続く。
目を開けていられないほどの風が、時に、音を立てて吹きすさぶ。それは、まるで化け物の咆哮のようで、背中が一気に粟立った。
それでも黙々と進むと、なにか大きな物が二つ、そびえているのが見えた。それらは、少し距離を開けて屹立しており、その先は、白い霧のようなものが立ち込めている。
あれが、老人が言っていた岩なのかもしれない。
「見えてきたぞ」
アルスランの声に他の二人も気を取り戻すと、疲れはてた馬を鼓舞し、さらに先へと進んだ。
近づいてみると、それは、ゆうに人の背丈の数倍にも達する、大きな岩だった。その岩が二つ、少し開けた大地の奥まったところに鎮座している。
そして、その先には、想像を絶する強風が、白濁した球体となって、渦を巻いていたのだ。ヒューッという甲高い音から、ゴーッという低音まで、幾層にもなる不協和音が、鳴り響いている。
「……」
ここまで来れば、なんとかなるのではないか。
しかし、それは甘い幻想にすぎなかった。
無情にも、アルスランたちを前に、吹き荒れる風。
自分の無力さが肌身に染みて、アルスランは、奥歯をぐっと噛みしめ、項垂れた。
すると、微かではあるが、風の音とは違う、何か別の音が聞こえてくるのに気がついた。なんだろう、と耳をすませて辺りを探すと、それは、自分の腰辺りから聞こえていた。
アルスランは手を伸ばし、音源となっている物を取り出した。
それは、クリチュが亡くなって以来、奏でることのなかった笛だった。
あまりに風が強いのか、笛の中にまで吹き込み、音を鳴らしている。その音は、この世のものとも思えない、なんとも奇妙な音階で、かつ妙に不安を掻き立てるものであった。
その音を耳にしていると、ふと、アルスランは、あることに気がついた。
笛の音と風が吹きすさぶ音が、次第に交わり合っていくようなのだ。
最初は、全く、てんでばらばらに鳴り響いていたが、次第に寄り添い、ゆっくりと溶け合っていく。
笛の音と風の舞が重なり合い、一つになっていく。
気がつくと、周囲の空気は震え、ひとつの壮大な音楽を奏でていた。
それは、今までに聞いたことがない音楽だった。
しかし、決して耳に心地よくはなく、むしろ、ぞわっと肌が粟立ち、耳を塞ぎたくなるようなものだった。
スユンチが、時にぶるっと鳴きながら、落ち着きなく動き回る。どんな時でも冷静でいられるよう、幼い頃からしつけられ、実際、今までどんな時でも動じることのなかった愛馬が、だ。なんとかして、冷静さを取り戻してもらおうとしたが、全く効果がない。
ふと、他の二人が気になったアルスランは、視線を移した。
すると、ニルファルを乗せたアララトが、乗り手を振り落とそうとするかのように、頭とお尻を交互に激しく上下させていた。その動きに振り落とされまいと、ニルファルは、必死に首もとにしがみついている。
すぐに助けようとしたその瞬間、急にバンッという爆音が辺りに鳴り響いたかと思うと、突風がぶわっと吹き荒んだ。
驚いたアルスランが、前に向き直ると、白く渦を巻いている球体の中に、小さな男が一人、こちらを向いて立っていた。
こどもと見間違うほど小柄で、白いとんがり帽子に、地面を引きずるほど長くて白い、一重の衣をゆったりと羽織っている。顔色も、血の気がないほど真っ白で、髭も白い。全身白ずくめで、唯一異なる焦げ茶色の瞳だけが、くりくりと動いていた。
その男は、ゆっくりと口を開いた。
「貴公が、オグズ族の次期族長、アルスラン殿ですね」
それは、風がそよぐような音だったが、抑揚がなく、人間の発した声とは思えなかった。
「……そうだが。あなたは、一体……」
そう言いかけた途端、アルスランの言葉を遮るように、その男は言葉を継いだ。
「奥で、族長がお待ちかねです。ついてきてください」
そう言うと、男の姿は、渦巻く中にすっと消えていった。
突然の出来事に、アルスランは一瞬呆然となったが、すぐに後についていくことを決心した。
相変わらず、スユンチは落ち着きを取り戻しておらず、不安げに、頭を上下左右に振っている。後ろを振り返ると、ニルファルを乗せたアララトが、落ち着きなく歩き回り、ダストを乗せた馬も、指示なく勝手に辺りをギャロップしていた。
(馬に、落ち着きがない。このまま連れていくのは、危険だ……)
そう判断したアルスランは、下馬すると、ニルファルのところに近づき、その手綱を押さえて、馬から降ろしてやった。その様子に、ダストも飛び降りるように下馬した。
周囲に集まった二人を改めて見回しながら、アルスランは言った。
「俺は、あの男についていこうと思う。おそらく、彼はソグド族の者だろう。ついていけば、ばらばらとなったシャモル地方を、一つにまとめあげることができるかもしれない」
間髪入れずに、ニルファルが反応した。
「もちろん、私も行くわ! あなたが行く先なら!」
「私も参りますよ、少し、怖いですが……。でも、そのためにここまで来たのですから……!」
瞬時に顔を真っ赤に染めたニルファルの横で、ほんの少し怯えを瞳に湛えながら、ダストは言った。
彼女らの言葉にアルスランは頷くと、馬に目をやった。
「スユンチたちは、この状況に神経質になっている。彼らの背に揺られながら山道を行くのは、危険だ。ここから先は、歩いていくぞ、いいな?」
力強く頷くニルファルとは対照に、ぽっちゃりした体型のダストは、一瞬怯んだ。しかし、すぐにぐっと顎を引くと、深く頷いた。
「よし」
そう言うと、アルスランはスユンチの側へ寄り、その首筋を優しく撫でた。
「スユンチ、俺たちは、今からあの中へ入っていく。お前は、アララトたちと一緒に、ここで俺たちの帰りを待っていてくれ」
濡れた艶かな黒い瞳で、スユンチは、じっとアルスランを見つめている。それは、いつもの冷静なスユンチだった。
スユンチは、自分の話を理解している。
そう確信したアルスランは、アララトたちをスユンチに託し、ニルファルたちのところへ戻った。
「では、行くぞ。はぐれないようにな」
そう言うと、アルスランは白い渦へと踏み出していった。その後を、二人が続いた。




