ハンテングリ山へ
翌日、荷物の補充やスユンチたちを休ませるために、クク町に滞在した。
アルスランは、残り少なくなってきた土の魔法石を購入するため、ニルファルを連れて、町に出た。最初は、自分一人で出掛け、町の様子を見て回ろうと思っていたが、どうしても一緒に行きたい! と無理について来たのだ。
空は、朝から気持ちのいい青空が広がっていた。
時折、通りを風が吹きわたる。その風は、わずかではあるが、ひんやりとした冷たさを孕んでおり、秋がすぐそこまで近づいているのを教えてくれた。
(野営地を発ってから、ずいぶん、経ってしまった……)
焦る気持ちを抑えながら、アルスランは町を見て回った。
店先には、各地から集められたありとあらゆる品が並び、通りも、時に肩が触れるほど、たくさんの人が歩いている。
そんな人混みの中を進むにつれ、アルスランはふと、あることに気がついた。
通りを行く人がみな、一様に明るい表情をしているのだ。
それは、性別や年齢を問わなかった。一見、忙しなく見える人たちもみな、満ち足りた笑顔を浮かべている。その笑顔が、とても眩しく写った。
そのことに、昨日のアルスランは、全く気がつかなかった。おそらく、最初から斜めに構えていたからなのだろう。歪んだフィルタを通して見るのと、先入観を持たずに見るのとでは、ここまで違うものなのか、と少々驚きを覚えた。
(これが、これからのシャモル地方の、あるべき姿なのか……)
覇気のないアルサル族の人々が、目に浮かぶ。まさに対照的だった。
そんなことを歩きながら考えていると、ふと、ニルファルの姿が見えないことに気がついた。
慌てて辺りを見回すと、少し後ろの方で、なにかを覗き込んでいる彼女を見つけた。
「どうした? なにか、欲しいものでもあるのか?」
そう言いながら近づくと、ニルファルがぱっと顔をあげて、こちらを向いた。
「欲しいとかじゃないんだけど、ちょっと気になって……」
ニルファルが立ち止まっていたのは、ナズースなどの刺繍布を扱う店だった。
「刺繍布って、こんなにいい値段で売れるんだね。私も、家事の合間に縫っていたけど、こんなにいい値段で売られているなんて、知らなかった。仲買人が買い集めにきた時の値段なんて、この半分もしなかったんだよ。……ナズースなら、私もけっこう得意だし、こういう商売、私もできるかなぁ」
そう話すニルファルの被着を見た。鮮やかな赤い布地に、金色の絹糸が、細かく刺繍されている。確かに、腕はありそうだ。
「俺は、商売のことは、全くわからない。だから、ダストに相談するといい。
……でも、刺繍の腕は、問題なさそうだな」
ニルファルの被着を見ながらそう言うと、ニルファルは、また顔を真っ赤にした。そして、被着を深く被り直した。
その後、二人で町をぶらぶら散策してダストの店に戻ってきたのは、家路に着く人々が行き交う、夕暮れ時だった。
荷物は最小限に、と伝えていたが、実際ダストが用意してくれた荷物を見て、アルスランは卒倒しそうになった。それほど、量が多かったのだ。
すぐさま、必要最小限に荷造りし直すよう指示し、なんとか荷馬だけで三頭まで減らすことができた。
明日は、夜明け頃に出発する予定だ。
三人は夕飯を済ますと、すぐ床についた。
翌日、辺りがまだ薄暗い中、アルスランたちは出発した。
風は穏やかで、出発にはもってこいの日和だ。アルスランの他、ニルファルとダスト、スユンチたちを始めとする馬六頭という集団だ。
出発してからすぐ、スユンチとアララトは風の通り道を見つけると、他の馬もそれに続いた。
「過去に一度だけ、偶然にも風の通り道に入ったことがありますが、さすが、オグズ族の天馬ですね! 素晴らしい!」
興奮気味に話すダストを背に、馬たちは快適な走りを見せて、長い距離をどんどん進んでいく。
進むにつれ、辺りは茶色く荒涼とした大地から、緑溢れる草原へと替わっていった。時おり、遠くの方で、家鴨の世話を任されたこどもの「ほー、ほー」という声が聞こえてくる。どことなく、オグズ族の領地と似ており、ソグド族との接触が上手くいくかどうかという緊張の中、なんだかほっとさせられる情景だった。
遥か遠くに見えていたハンテングリ山が、次第に迫ってくる。
頂上付近は、常に強い風が吹いているようで、いくつもの雲が、現れては吹き飛んでいく。周囲に他の山はなく、その凛然たる佇まいは、畏敬の念さえ抱かさせた。
一方、旅路は順調に進み、出発してから一週間が過ぎる頃、ついに、ハンテングリ山の麓にある、キシュキナ村に到着した。
村は本当に小さく、家は十軒ほどしかない。どの家も、木を丁寧に積み上げており、僅かに出来た隙間を、泥で埋めていた。窓は小さく、しかも二重窓で、この地域の冬の厳しさを、物語っていた。
こんな寒村だが、このあたりは、時に冬虫夏草という、希少で高価な薬草が採れるので、ダストはたまに交易しに訪れるという。なので、来たときにはいつも世話になるという家まで、案内してくれた。
その夜、アルスランたちは、この日、この村へ到着したことを、幸運に思った。というのも、毎年この時期にシャモル地方を襲う強風が、この地を襲ったからだ。
シャモル地方では、毎年夏の終わりに、強風が吹き荒れる。だいたい、三日ほどで終わるのだが、止んだ後は一気に季節が進み、秋が訪れるのだ。
今年も、三日ほど強風がうなり続けたので、その間は、ずっと外に出られなかった。
三日後、風も止んだので、外へ出た。
空は真っ青で、高いところに浮かぶ小さな白い雲が、ゆったりと流れていく。空気は、一変してひんやりとしており、山から吹き下ろす風が、時に首をすくめるほど冷たい。
すでに、オグズ族の野営地を出発してから、一ヶ月ほど経過している。時間はない。
アルスランたちは、すぐさま荷物をまとめると村を後にし、道なき道へと分け入っていった。嵐前と比べて、急激な気温の低下に、三人とも、薄手の毛布を、身を包むように羽織っていた。
スユンチの背に揺られている間、アルスランは、嵐で閉じ込められていた際に、村の老人から聞いた話を思い出していた。
(……ハンテングリ山に、行かれるのか。……あそこは、近づかん方がいいぞ。なにせ、近づこうとしても、強風に押し返されるんじゃ。時に、細い道から崖下に転落し、命を落とす者もおる。「風を守護する者」が、拒絶しているんだとな……。生まれてこの方、ずっとこの地に住んでおるが、未だかつて、この山を登ったという話は、聞いたことがないんじゃ……)
「果たして、この俺は、受け入れてもらえるのだろうか……」
その声は、段々と強さを増していく風に、吹き飛ばされていった。




