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アルサル族野営地

 何よりもまして驚かされたのは、このことだったのかもしれない。

 今まで年上だと思っていたことを正直に伝えると、悲鳴と共に、まだ熱々とした湯気をあげる湯飲みが、中身ごと飛んできた。

 間髪いれずにわあわあ文句や物を投げつけてくるニルファルに、アルスランは頭を庇いながら、何度も釈明を繰り返した。そんなかまびすかしいやり取りを繰り広げていくうちに、二人の間に漂っていた険悪な雰囲気は、いつの間にか消え失せていった。

 思いの丈をぶつけてすっきりしたニルファルと、アルスランは最後には仲直りをした。そして、朝早く出発する明日に備えて、早速、それぞれ床につくことにした。

 横になってから数分、こちらに背を向けて毛布にくるまっているニルファルから、小さな寝息が聞こえてきた。前日もあまり眠ってない上に、長距離を移動してきたのだから、無理もない。

 しかし、アルスランの意識は、はっきりしていた。

 夜盗に襲撃された二の舞は踏まじと、適度な休息を取りながらの移動を心がけたため、そこまで強い疲れは感じていなかったのだ。

 夜風が、時に頬を撫でる。

 アルスランの脳裏に、昼間のニルファルとのやりとりが思い出される。かなり、辛辣な言葉も投げつけられた。それを思うと、心の奥底に言い知れない怒りがふつふつと沸き起こってくるのを感じた。

 しかし、いつもとはなにかが違う。

 怒りだけではない、なにか心を掻き乱すような、ざらざらとした、引っ掛かるようなものも感じるのだ。

 今まで、アルスランは、六部族がこのシャモル地方を統治し続けることが最も望ましい、と信じていた。そして、それは、この地に住まう人々も同様の考えを持っている、と信じて疑わなかったのだ。だからこそ、族長である父との間に深い亀裂が生じても、さらには、大切な弟を失ってまでも、前に進むのを止めなかったのだ。

 しかし、ニルファルの発言はそれを根底から覆すものだった。

 そのことが、どうしようもなく、アルスランの心を掻き乱すのだ。

 いつしか夜も更け、満点の星々が夜空に輝きだした。

 それでも、アルスランの頭の中は、休まることを知らない。

 今までなかった迷いが、少しずつ、頭をもたげ始めようとしていた。

 そんな迷いを振り切ろうと、アルスランはぎゅっと目を閉じると、頭の上まで毛布を引っ張り上げた。

 風が、大地を静かに撫でていった。


 翌朝も、気持ちのよい天気だった。

 東の空が白々と明ける頃、二人は出発した。

 昨夜は夜遅くまで寝付けなかったアルスランも、今、自分にできることはこれしかない、と言い聞かせ、気持ちを切り替えることに努めた。今のシャモル地方の現状を、ただ指を加えて見ていることはできなかったからだ。

 しかし、一度浮かんだ迷いが小さくなることはなかった。

「アルサル族の野営地まで、あとどれくらい?」

 正面から差し込む朝日に目を細めながら、アララトの背に揺られているニルファルが訊ねた。

「そうだな、あと五日ほどで、着くと思う」


 その後、二日ほど東の方角へと進んだアルスランたちは、進路を南にとった。

 進むにつれて、辺りの景色が次第に変わっていった。

 東に向かっていた時は、次第に植物が減り、代わりに乾燥した剥き出しの茶色い土があちらこちらで見られるようになっていったが、南に進むと、ハダカムギやイチゴツナギといった丈の長い植物が見られるようになり、また、ところどころに沼地が現れ、アオサギなどのような湿地を好む動物たちを目にする機会も増えていった。

 大地を吹きわたる風は湿り気を帯び、生暖かさを残していく。日が暮れ、夜が訪れても、吐く息が白くなることはなかった。

 旅は順調に進み、サカ族の野営地を出てから一週間後、ついに、アルサル族の野営地に到着した。と言っても、本拠地ではない。オグズ族の縄張りに一番近い野営地だ。

 その日はあいにくの天気で、朝から振りだした雨は、昼には本降りへと変わった。

霧も発生する中、下馬した二人は、馬たちとともに、ところどころにできたぬかるみに足をとられながら進んだ。

 そんな視界の悪い中、突然、スユンチが立ち止まった。アララトも立ち止まる。二頭はその場でピンと耳を立てると、じっと前方を見つめていた。

「どうした? なにかいるのか?」

 全身びしょ濡れのアルスランが訊ねたその時、遠くの方で、馬のいななく声が聞こえた。

「今の、馬の鳴き声じゃないの?」

 そう話す、同じくびしょ濡れのニルファルに、唇に指を当てて静かにするように伝えると、アルスランも耳をそばだて、前方をじっと見つめた。すると、いく筋もの灰色の煙が、空へと立ち上っていくのが見えた。と同時に、また馬のいななく声が、耳に届く。明らかに人がいる。

「おそらく、アルサル族の野営地だ。やっと到着したな」

 後ろをいくニルファルを振り返りながら、アルスランは言った。


 たなびく煙を目印に進むと、突然、さぁっと風が横に吹き抜けていった。

 その風で、辺り一帯を覆っていた霧が一気に拭い払われ、突如として、目の前にいくつものユルトが現れた。その入口にかけられている戸布には、黄色い天秤が施されている。間違いない、アルサル族のユルトだ。

 そのユルトの前で、じっとこちらの様子を伺っていた若い男が一人、小走りでこちらに向かってきた。

「ここは、アルサル族の野営地だ。どうされたか?」

 北方の内陸部という、寒い地域を拠点とするオグズ族とは異なり、黄みがかった七分丈のズボンに、膝上までしかない薄手の緑色の胴着を帯で結んだ軽装の男は、頭を覆うように巻き付けている幾重にもねじられた白くて長い布の下から、歓迎するような、それでいて、どこか警戒するような眼差しで、アルスランたちを見た。ニルファルと同じく、小麦色の肌をしている。

「私は、オグズ族族長ファルハードの息子アルスランだ。ラフマン殿にお目通し願いたい」

 その言葉に男は目を見張ったが、アルスランの姿を下から上へとざっと眺めると、「しばし、お待ちください」と言って、その場を後にした。

「ラフマン様と、知り合いなの?」

 目の前に立つ、大きくて威風堂々たるユルトに圧倒されたのか、その言葉には、いつもの威勢のよさは感じられなかった。

「そうだ。知ってるだろうが、ラフマンは、この辺りの統治を任されている男だ。六部族の縄張りは広い。それを統治するには、部族をいくつもの集団に分けるしかないんだ。その中でも、我がオグズ族の縄張りに接する地域の統治を任されているのが、ラフマンだ」

 そんなことを話していると、少し離れたところにある、特別大きなユルトから、複数の者たちがこちらに向かってくるのが見えた。草原で暮らすアルスランたちの視力は極めてよい。向かってくる集団の真ん中にいるのは、紛れもなくラフマンだった。

 向こうもアルスランの姿を認めたのか、厳しい眼差しから一転、表情を緩ませると、片手を挙げ、こちらに一直線に向かってきた。

「久しぶりだな、アルスラン。元気だったか?」

 背丈はアルスランと同じくらいだが、やせ形で、頭に巻いた白いターバンの下から覗く顔には、柔和な笑みが浮かんでいた。

 代々、隣の瑞穂帝国との交易で栄えてきたアルサル族には、相手に警戒心を抱かせないタイプの者が多い。その中でも、特にラフマンとは年が近いこともあって、気が合う間柄だったのだ。

「あぁ、元気といえば元気だ。突然訪問して、すまんな」

「いや、それは構わないんだが……」

 そう答えるラフマンの顔に、一瞬、戸惑いの色が浮かんだ。

 通常、六部族であれば、相手の野営地に訪れる際には、事前に通達するのが慣習だった。なので、戸惑うのも無理はない。

「少し、話がある。」

 アルスランは端的に言うと、ちらと周囲を見渡した。その視線に、気づかないラフマンではない。

「わかった。せっかくの客人だ、歓迎するよ」

 そう言うと、ラフマンはにっこり微笑んだ。


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