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野営地にて

 ここは、シャモル地方と呼ばれている地域だ。

 大陸の東に位置し、大部分を豊かな草原で覆われている。土壌が痩せており、農業にはあまり適さない土地だが、遊牧が盛んである。特に、この地で産出される馬は、持久力や速さを兼ね備えていると評判で、重要な交易品となっていた。また、ワインやこの地方だけで採れる薬草も、高値で取り引きされていた。

 そんなシャモル地方では、六つの部族が強い影響力を保持していた。

この地に住まう人々は、みなどこかの部族の一員である。その規模は大小様々だが、特に勢力を誇っている六つの部族が、この広大な草原の中でそれぞれ縄張りを持ち、そこに住む人々に強い影響力を及ぼしていた。

 縄張り、と表現したが、それは、その範囲が常に流動的だからだ。彼らは、いつも友好的な関係を維持していたわけではない。時に争い、その勢力図が変わることも珍しくなかった。

 しかし、ひとたび外部から攻撃されると、今までの争いは嘘だったかのように、一致団結し、飛竜という強力な火力と、良馬による機動力を駆使して戦うのだった。今までも、北西にある、高い山々を国境として接する閉ざされた国イギ国や、南西に位置し、肥沃な大地を抱える一大食料生産国の瑞穂帝国から攻撃を受けることがしばしばあったが、全て撃退することに成功していた。

 アルスランが属するのは、六部族の一つ、オグズ族だ。

 シャモル地方の中でも北西に位置する、特に名馬の産地として名高い地域を治めていた。

 長い間、この地域は、小競り合いはあれども平穏な状態を保っていた。

 しかし今、大きく変わろうとしていた……。


 夜の闇に支配されそうな草原で馬を走らせていると、遠くの方に、温かみのあるオレンジ色の明かりがポツポツと見えてきた。ゆらゆらと揺らめくその明かりは、まるで道標のように輝き、アルスランの心を和ませた。。

「後少しです、兄者」

 そう話すクリチュの声は明るい。あの明かりこそ、夏場にオグズ族の野営地で焚かれる炎なのだ。

 シャモル地方の遊牧民は、夏場は組立式のユルトを住まいとしてあちこちを移動し、寒さが厳しく、家畜の餌となる草が乏しくなる冬場は、決まった場所に落ち着く、という生活を送っていた。今は夏も真っ盛り。餌となる草が豊富な今のうちに、家畜を太らせる必要があるため、部族一丸となって、朝早くから夕暮れまでせっせと働いていた。アルスランも、その一翼を担っていたというわけだ。

 遠くに見えていたはずの小さな明かりも次第に大きくなり、忙しなく夕餉の準備をしている女たちの姿もわかるようになった。と同時に、美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐる。どうやらプロフを作っているらしい。大きな鍋に油を熱し、羊肉や野菜を入れて炒め、火が通ったら味付けをして、最後に米と水を入れて蒸し焼きにするという、この地方の伝統的なおもてなし料理の一つだ。大切な客人を迎えるときや、婚礼の場といった特別な日にしか食べられない料理のため、子供の時はそういう日がずいぶん待ち遠しく感じられたものだった。

 野営地に到着した。

 馬の足音を聞き付けて、ユルトから幾人もの人が出てきた。

「お帰り、アルスラン。餌は豊富にあったか?」

「あぁ、問題ない。まだずいぶん残っていたよ」

「そうか、それはよかった」

 そんな会話をしながらアルスランは馬の世話をその者たちに任せると、クリチュとともに父がいるユルトへと向かった。

 辺りにはいくつものユルトがあり、そこかしこで人が出入りしている。

 ユルトとは、簡単に組み立てることができる家だ。真ん中に支えとなる二本の柱を建て、そこから放射状に伸びる梁に羊の毛皮でできた生地をかぶせ、屋根や壁の代わりとする。それから、壁の外周部分に木組みの骨格を張り巡らし、さらにフェルトで覆うと完成だ。通常、一家族で一つのユルトを使うが、十人以上収容できるものもある。すぐにでも移動できるよう、簡単に分解・組み立てることが可能で、だいたい一つのユルトを片付ける、あるいは組み立てるのに、男、五、六人で一時間とかからないものだった。 

「お帰りなさい、アルスラン」

「ただいま」

 普段であれば、それぞれの家庭で夕餉の支度をするのだが、今日は族長の帰還ということもあって、皆で食卓を囲もうとしているようだ。

 いつもと違う状況に興奮している子供たちや、手を動かしながらもおしゃべりが止まらない女たちの賑やかな声を耳にしながら進むと、一際大きいユルトの前に出た。部族長でもあり、アルスランの父でもあるファルハードのユルトだ。族長が中にいるということもあって、外には見張りが立っている。しかし、アルスランの姿を目にすると、すぐに軽く頭を下げ、一歩脇に下がった。入ってもよいという合図だ。

 アルスランは前に進み出ると、戸代わりの布が垂れ下がっている入り口の前で止まった。そして、声を張り上げ、挨拶を述べた。

「オグズ族族長ファルハードの子、アルスランでございます。このたびの長旅からのご無事の帰還、大変喜ばしきことでございます」

 すると戸布がさっと開き、中から叔父が顔を覗かせた。

「中へ入れ」

 アルスランはその言葉に従い、中へ入った。クリチュも後に続いた。

 中は、ユルトの中央に据えられた暖炉から漏れる明かりで明るかった。壁には、これまでの狩りで捕らえた虎の毛皮が飾られており、細やかな刺繍が施された掛布団がかかけられたベッドや、この地方ではなかなか手にいれることができない黒檀で作られた机、椅子なども隅に置かれていた。

 しかし、アルスランはそれらに見向きもせず、奥でどっしりと椅子に腰かけている父の元へと進んだ。アルスランと同じ癖のある毛髪は、白髪こそ多いが、その痩せこけた頬に刻まれる刀傷は、歴戦を潜り抜けてきた証であり、また太い眉の下の瞳から放たれる眼光は非常に鋭く、彼がいまだ強い長であることを明確に物語っていた。

 そんな父の前まで来ると、アルスランは跪き、その手をとって自分の額に軽く当てた。敬意を表す仕草だ。それから、さきほど入り口の前で発した挨拶の言葉を繰り返した。それが済むと、クリチュと交代した。

 挨拶を交わすクリチュたちを、アルスランは立ったまま見つめていた。

 幾度の戦を乗り越えてきた父の顔には、風格が漂っていたが、旅から帰ってきたばかりだからか、疲労の色が深く刻み込まれているようにも見えた。

 それは、本当に旅の疲れだけから来るものなのだろうか……。

 そんなことを思っていると、ふと、父が口を開いた。しわがれているが、太くてよく響く声だった。

「留守中、変わりはないか?」

「はい、特段変わりはございません」

 アルスランが答えると、そうかとつぶやきながら口元に手をやり、ふう……と息を吐きながら、あごひげまで撫で下ろした。相当疲れているようだ。

 父の傍らに控えていた叔父の「族長は休息を欲している」という言葉に素直に従い、二人は敬意を表す挨拶を繰り返すと、ユルトを後にした。

 辺りは暗く、あちこちで焚かれている炎が、様々な影をその壁に浮かび上がらせているユルトの間を、二人は無言で歩いた。

 兄の気持ちを察してか、クリチュが口を開いた。

「父上はずいぶんお疲れの様子でしたね」

「……そうだな」

 アルスランは呟いた。


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