二人での旅
サカ族の野営地を出ると、アルスランは、進路をアルサル族の野営地がある南東の方角ではなく、東に取った。
ニルファルの出身部族の縄張りが、ちょうどサカ族とアルサル族の野営地を結ぶ直線上にあること、また、北西を縄張りとする有力部族のオグズ族のアルスランが、この辺りを通って向かうところといえば、アルサル族の野営地以外考えられないため、後に現れるだろう追手からの追跡を振り切るため、やむを得ない対応だった。
クリチュとともに、オグズ族の野営地を出発してから、早四日。
父の陰謀を阻止するためには、ほんのわずかな時間さえ惜しまれるのだが、焦ってはことを仕損じる、と自分に言い聞かせ、冷静さを保つよう努めていた。
幸い、ニルファルは馬の扱いにはかなり慣れているようで、足を引っ張ることもなく、また、出発した当初は強風が吹き荒れ、なかなか思うように進まなかったが、それも少し経つと穏やかな風に変わり、それまでの遅れを取り戻すかのような、順調な足どりで進むことができた。
夜を徹して進んで行くと、次第に、前方の空が明るみ始めた。それに反比例するかのように、辺りに淡い光をもたらしていた月光が、溶けるように消えていく。
スユンチの吐く息は白く、ときおり吹く風が、アルスランの鼻先を赤く染める。
ふと、後ろを振り返ると、ニルファルが、厚めのショールでしっかりと自分を包んでいた。そろそろ休憩時だ、とアルスランは思った。
太陽が、地平線のむこうから眩い顔を覗かせた。
その瞬間、夜の闇は音もなく消え去り、代わって、日の出直後にしか見られない、生命の息吹が一気に沸き起こった。辺りは様々な色彩に溢れ、鳥たちも一斉に飛び上がり、かまびすしく鳴き始める。新しい一日の始まりだ。
少し進むと、共用井戸があった。
放牧することを常としているシャモル地方の人々にとって、移動先の水の確保は、生命線なのだ。だいたい、二十キロ四方に一ヶ所は、水を確保できるところがある。それは、時に、湖だったり、湧水だったり。そして、このような、誰もが使っていい井戸だったりすることもある。
アルスランは、早速、ニルファルに休憩することを伝えると、スユンチから降りて水を汲んだ。そして、井戸のすぐ脇にある、花崗岩でできた水槽に水を溜めた。一晩中、駆けていたスユンチとアララトは、すぐさま水槽に頭をつっこむと、一心不乱に飲み始めた。
その間に、ニルファルは荷物を一部解くと、お茶の準備を始めた。
まず、敷物を二枚敷き、その上に茶器を並べる。そして、よく燃えそうな枯草や乾燥した動物の糞を探し始めた。夜明け前の草原は、まだ明かりも乏しく、動物の糞を見つけることはできなかったが、ここ何日も雨が降らなかったためか、枯草を見つけることは容易だった。
ニルファルがそれらをかき集めて戻った頃、ちょうど、アルスランも、水が入ったポットと、いくつかの小枝を手に戻ってきた。ニルファルが枯草を敷物から少し離れたところに置くと、アルスランが小枝を枯草の上に置き、また、帯の間から袋を取り出した。
「後は俺がやるから、ニルファルはノンを出しておいてくれ。少し早いが食事にしよう」
そう言うと、袋から赤い色をした石を取り出し、ふぅと息を吹き掛けた。そして、それを枯草の中に放った。少しすると、枯草から白い煙がたなびき始め、やがて、小さな炎が顔を覗かせるようになった。
それを見届けると、アルスランはポットを火にかけ、後ろを振り返った。すでに、ノンや皿は、ニルファルによって並べられていた。
アルスランはニルファルのそばまで行くと、隣に敷かれた敷物の上にどさっと座った。
「食事を取ったら、二、三時間ほど仮眠を取ろう。夜通しで移動してきたから、疲れてるだろう?」
大きなあくびを隠そうともしないニルファルは、目の縁に涙を湛えたまま、アルスランの方を見た。
「でも、追手に追い付かれないかな? 少しでも遠くに行ったほうがいいんじゃないの?」
「夫や他の男たちは、放牧に出掛けたんだろう? それに追うにしても、たぶん、こっちの方面には来ないと思う。遠回りだしな。
……それに、あの日の二の舞は、二度とごめんだ」
最後の言葉をボソッと呟くように言うと、アルスランは炎に視線をやった。その瞳は暗く、沈み込んでいるようにも見えた。
クリチュのことが、再び思い出された。
あの時、きちんと休憩を取っていれば……。あの時、あの場所を選ばなければ……。
……俺が、クリチュを誘わなければ……。
考えたところでどうしようもないことは、分かっていた。
人は、死に様を選べない。
皆に見守られながら大往生を遂げる者もいれば、昨日までは元気だったのに、怪我でポックリ逝く者もいる。アルスランやクリチュの母もまた、部族内で流行った病で呆気なく逝った。それに、そもそもシャモル地方は、部族間、あるいは外部との戦いが多い。その中で、命を落とす者も珍しくないのだ。
そういった時、決まって人々は、風が彼らを召したのだと口にする。
それは、予め決められていたことであり、人の力でどうこうすることはできないのだ、と。そして、この草原を吹きわたる風から亡くなった者の声を聞き、その存在を感じとろうとするのだ。
それは、この過酷な環境で死を身近に感じる機会の多い、彼らなりの生きていく上での知恵なのだろう。時に慰めとして、時に自分を奮い立たせるために。しかし、そのことは逆に、身近な人の死に触れ、苦悩する人が多いことの裏返しでもある。
人は、そんなに強くない。
たとえ、表面上は平静を装っているように見えても、心の中では、自問自答を繰り返し続けていることはよくあることだ。そして、アルスランもまた、例外ではなかった。
アルスランが心の痛みに向き合っているのを敏感に悟ったのか、ニルファルは、それ以上なにも言わなかった。
飛竜が一匹、大空の高いところを飛んでおり、そしてゆっくりと、日の昇る東へと飛び去っていった。




