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闇夜に乗じて

 その日の夜は、出発にはもってこいの夜だった。

 夜の帳が下りるにつれて風が強まり、すぐさま強風へと変わった。

風が強いと、どうしても移動に時間がかかってしまうが、逆に、ゴーゴーと吹く風が、馬の足音や荷物がぶつかり合う音を消してくれる。それに、主人を含め、何人かの働き盛りの男たちは、遠くの方まで放牧に出掛けているとのこと。数日は戻ってこないということも、好都合だった。

 深夜、雲一つない満天の星の下、ニルファルは、アルスランのいるユルトへやってきた。荷物は最小限に、と伝えていたこともあり、その手にあるのは、片手で持てるくらいの小さな包み一つだけだった。

「もう一度だけ聞く。本当にいいのか?」

「えぇ、いいの。こんな機会、二度と来ないから」

 月光が射しこむ入口に背を向けて立つニルファルの表情は、窺えなかった。それでも、その声は力強く、迷いは感じられなかった。

「分かった、後悔するなよ。じゃあ、出発だ」

 そう言うと、アルスランは立ち上がった。


 ゴーという唸りをあげる風が吹き荒れる外には、スユンチとアララトが大人しく待機していた。今夜出発することは、すでに二頭に告げている。きちんと理解しているのだ。

 アルスランは、素早く鞍とはみを二頭に装着すると、ニルファルの荷物を受け取り、自分の荷物と一緒にした。荷物は、クリチュと出立した時と比べると、非常に少なかった。

 現在、馬は、スユンチとアララトの二頭しかいない。出立した時にいたほかの二頭は、夜盗の襲撃の際にどこかへ逃げていったきり、その行方は分かっていない。なので、たくさんの荷物を運ぶことはできないのだ。

 アルスランは荷物を二等分にすると、それぞれ、二頭に括り付けた。ものの五分とかからない作業だった。

 それが終わると、少し離れた場所で一連の作業を見守っていたニルファルに向かって、手招きをした。

 風ではためく被着を手で押さえながら、ニルファルは走り寄ってきた。

「最後に、これを使うぞ。なるべく、近くに集まってくれ」

 なんだろう、といった表情を浮かべながらも、すぐそばまで近寄ってきたニルファルを認めると、アルスランは、帯の間から袋のようなものを取り出し、なにかをつまみ上げた。それは、月明かりの中、茶色く鈍い輝きを放っていた。

「これは?」

「ん? これか? これは、土の魔法石だ。お互い、行き先を知られるわけにはいかないだろう? これで、追跡の目をはぐらかすんだ」

 さも当たり前のように話すアルスランに、ニルファルは驚きの表情を向けた。

「土の魔法石って! それって、とっても高いんじゃないの? そんなのわざわざ使う必要あるの?」

 その言葉に、アルスランは眉間の皺を寄せた。

「高いって、高が知れているだろう? それに、前回使ってから、数日経っているんだ。もう、そろそろ効力が切れてもおかしくはないんだよ。

……詳しくは話せないが、今は、居場所を知られたくないんだ。それに、ニルファルにとっても、好都合だろ?」

 うなりを上げる風の中、ニルファルは複雑な顔を浮かべた。しかし、明かりといえば月からの淡い光しかない中、その表情に、アルスランが気付くことはなかった。

「さあ、見つからない内に、急ぐぞ。念のため言っておくが、動くなよ」

 そう言うと、アルスランは手にしていた土の魔法石に息を吹き掛け、地面に放った。

 コロンと転がった魔法石は、少しすると、たくさんの土砂を一気に噴き上げ、その場にいる二人と二頭を包み込んだ。月明かりさえ見えない真っ暗闇に襲われたのも束の間、土砂は、ざっと地面に落ちていった。

 ニルファルは、その場で顔を庇うように両手で押さえていた。

 突然、大量の土砂に取り囲まれたのに驚き、咄嗟に顔を守ったのだろう。土砂がなくなった今でも、まだその姿勢で居続けていた。

 その光景に、アルスランは思わず微笑んだ。

「大丈夫だよ、安心しな。ただの魔法だよ」

 そして、アルスランはアララトの手綱を取り、ニルファルの前に差し出した。

「こいつに乗るんだ。亡くなった俺の弟の愛馬だ。名前をアララトという。女が乗るには少し大きいかもしれないが、よく調教されているから、振り落としたりはしない。安心して乗るがいい」

 顔を庇っていたニルファルは、指の隙間からそっと辺りを見回して、アルスランの姿を認めると、その手を静かに下ろした。そして、黙ってその手綱を受け取ると、あぶみに足をかけて、一気に馬上の人となった。乗ってみて初めて分かったが、このアララトは、今までニルファルが乗ってきたどんな馬より立派な体格をしていた。筋肉の厚みや、しなやかな動きが、触れている足を通して伝わってくる。それでも、体格の良い馬にありがちな、騎乗する人を値踏みするような傲慢さは感じられなかった。嫌がるそぶりもない。よくしつけられている馬だった。

 すぐ横では、アルスランも、颯爽と自分の馬スユンチに跨がった。

「よし、行くぞ。アララト、俺についてこい」

 そう言うと、アルスランは手綱を引きながら、スユンチの脇腹に軽く蹴りをいれた。その合図に、スユンチは、ゆっくりと歩きだした。そのすぐ後ろを、ニルファルを乗せたアララトも続いた。

 一刻も早くここから去りたかったが、さすがに駆け足で行くと、皆を起こしてしまう可能性があるので、しばらくはゆっくりと行くことにしたのだ。

(あんなに高価な土の魔法石を、ためらいもせずに使うなんて。私なんて、初めて目にしたのに……。さすが、有力部族の一つ、オグズ族の人だな。私とは住む世界が全然違う……)

 ゆっくりとした歩みに揺られながら、ニルファルは、一人考えに耽っていた。

 ふと、顔をあげると、すぐ前に、アルスランの大きな背中が見えた。

 よくしつけられた二頭の馬は、常に一定の距離を保ちながら、歩いている。その距離は短く、当然、アルスランとの距離もそんなにないはずなのだが、ニルファルには、その背中がやけに遠く見えたのだった。


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