連れ立って
アルスランは、足元でさめざめと泣くニルファルを困った顔で見下ろしていた。状況は分かったが、それでも、主人の同意なく、その妻を連れ出すことなど、出来るはずもなかった。
「お願い……、どこかの町まで、連れて行ってくれるだけでいいから……」
「そうは言うが、どこかの町に連れていったとして、その後、どうやって暮らしていくんだ?」
「町なら、女でも仕事につけると聞いたよ。自分一人くらいだったら、食べていけるでしょう?」
「そうは言ってもな……」
アルスランは、ため息をついた。厄介なものを抱えてしまった、というのが本音だった。
男と女が結婚するというのは、それぞれの部族が血縁関係を結ぶ、ということを意味する。ニルファルの祖母がサカ族から嫁いできたように、両部族は、これからも嫁を嫁がせ、血縁関係を維持していくつもりなのだろう。
にも拘らず、ニルファルを連れ出してしまえば、両部族の関係は悪化し、今まで紡ぎあげてきた関係を断ち切ってしまうことになる。
そんなことは、たとえ有力部族の一つであるオグズ族のアルスランでも、部外者である以上、出来ることではなかった。
「……ニルファル、すまない。連れ出すのは無理だ。他の者は、親切にしてくれるんだろう? ここにいた方が、お前のためだ」
足元ですすり泣くニルファルに優しく語りかけようと、アルスランはしゃがんで、彼女の肩に手をやった。
少しの間、ニルファルは押し殺したような声で泣いていたが、それも止んだ。そして、ゆっくりと顔をあげた。
そこには、先ほどのような悲壮感が一転、能面のような、何ら感情の読み取れない顔が貼り付いていた。周りにあるすべてが夕暮れのもと緋色に染まる中、そこだけ、青白さをとどめている。
その様子にぎょっとしたアルスランは、思わず後ずさりした。
ニルファルは、その感情が消え去った表情で静かに立ち上がると、アルスランに背を向け、ふらふらとどこかに歩きだした。
「どこに行くんだ?」
覚束ない足取りで去っていこうとするニルファルの背に、声をかけた。しかし、立ち止まる様子がない。
「おい、待て!」
アルスランは、ニルファルの前に回り込むと、その進みを体で止めた。
それでも、ニルファルは、そのことに気づく様子もない。虚ろな目であらぬ方を見ながら、何かをつぶやいている。それは、口元まで耳を近づけてみて、やっと聞き取れるほどのか細い声だった。
「もう、死にたい……。死ぬしかない……」
アルスランは、苦い顔を浮かべた。
(そこまで、嫌なのか……)
ふと、アルスランは、ニルファルの手に視線をやった。鞭で打たれた痕は裂け、ぐじゅぐじゅとした傷に変わっている。見ているだけで、こちらにも痛みが伝わってくるような傷だ。
すると、突然、ふわっと風が吹いた。と同時に、クリチュの顔が、鮮やかに頭に浮かんだ。
彼は、じっとアルスランを見つめていた。それは、厳しく責めているような眼差しだった。
そのクリチュの顔も、すぐに消えた。しかし、その射るような眼差しは、今でも自分に向けられているような気がしてならなかった。
アルスランは、そんな視線を振り払うかのように首を左右に振ると、ふぅと軽くため息をついた。
そして、ニルファルの両腕をしっかりとつかんでその瞳をまっすぐ見つめ、話し始めた。
「わかったよ、ニルファル。連れてってやろう。ただし、どこかの町まで連れていくだけだからな」
話が終わっても、ニルファルは相変わらず、無表情のままだった。
しかし、死んだような瞳には次第に感情が灯り始め、その瞳は、はっきりとアルスランに向けられた。虚ろな瞳は次第に大きく見開かれ、その顔には、驚きの表情が広がる。その後、その驚きが、みるみる間に、喜びに取って代わられた。ニルファル(蓮の花)の名の通り、美しい花が花開いたかのような、清廉な喜びでいっぱいだった。
「本当に? 本当に、連れてってくれるの?」
そう話すニルファルの頬は、夕焼けに負けないほど、真っ赤に染まっていた。
「しょうがないだろ、あまり、気は進まないが……。でも、どうしてもというのなら、連れてってやる。その代わり、もう死にたいなど、二度と口にするな」
「うん! わかった! ありがとう、アルスラン!」
そう言うと、ニルファルはアルスランの足元に跪き、その手を取って、自分の額に当てた。敬意を表する仕草でもあり、また、最大級の感謝を捧げる仕草でもあった。
「今日の未明に出発する。家人に気づかれないようにな……」
取られた手をそのままに、アルスランは、これからについて話し始めた。




