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虚無感

(すぐに、見つかって良かった……)

 アルスランはスユンチにまたがり、ユルトへと戻る途中だった。

 心は軽く、右手にはシフキという薬草の束が握られている。この薬草をきれいな水で洗った後、布で包み、火で熱すると、葉が柔らかくなる。それを患部に直接当てると、腫れが引くのだ。この地方ではよく見られる、民間療法の一つだ。

 もともと湿気を好む植物なので、生えている場所は限られているが、近くに川が流れているのが幸いした。川辺に行くと、いくつものシフキの群生を簡単に見つけることができたのだ。忙しい合間を縫って介抱してくれたニルファルへの、せめてものお礼だった。

 地面からゆらゆらと立ち上る熱気に、地平線が揺らいで見える。日は、真上を少し西に傾いたところにあり、今が一番暑い時間帯だと教えてくれる。

 ふと、視線をやると、遠くにあるなだらかな丘の上に、豆粒くらいの大きさの羊たちの群れが見えた。男たちが、放牧しているのだろう。牧羊犬が追い回す度に、小さな綿雲のような羊が一斉に動き回る様は、見ていて心和む光景だった。視線を移すと、少し離れたところを流れる川のほとりで、あひるの世話を任されているのであろう子供たちが、あひると一緒になって遊んでいるのが見えた。後で叱られなければいいが、とアルスランは、一人苦笑した。

 ユルトから少し離れた所では、女たちが話に花を咲かせながら、せっせと「カシュ」を織っていた。

「カシュ」とは、目が荒くて、毛足が長い絨毯のことで、粗末な木枠に張られた経糸に、同じく染色した羊毛から作られた緯糸を結びつけていくことで、織り進めていくものだ。大きさにもよるが、仕上げるのに数ヵ月かかることもある、とても手間暇かかる品だった。これも「ナズース」と同様、貴重な現金収入源になるので、女たちに奨励されている、手仕事の一つだ。

「カシュ」は、一つとして同じ模様はなく、草繁る草原にたくさん侍る白い羊の群れだったり、子孫繁栄を願って描かれるザクロや、弓を手に、馬にまたがる勇ましい人物を象ったものなど、作り手の夢が、そこには描かれていた。

 アルスランは、色とりどりの衣服を身に付けた女たちの中に、ニルファルの姿を探したが、目の覚めるような、真っ赤な衣服を身に付けている女は、見当たらなかった。

 そうこうしている間にも、どんとんユルトへと近づいてきた。

 ふと、アルスランは、ユルトの入り口あたりに、何人もの子供が群がっているのに気がついた。彼らは頭を寄せあい、中を覗き込んでいる。すると、そのうちの一人が、スユンチの軽快な足音に気がつき、ぱっとこちらを振り返った。他の子供たちも、一斉にこちらを振り返った。

 ユルトの前に到着したアルスランが颯爽とスユンチから降りるのを、子供たちは抑えきれない好奇心をその瞳に輝かせながら、見つめていた。十人近くいるだろうか。皆、一様に、色褪せ擦りきれた衣服を身に付けている。

(この年頃の子どもは、好奇心の塊だからな)

 そう心の中で苦笑していると、七、八歳の、いかにもわんぱくそうな坊主頭の男の子が、一歩前に進み出た。黒と、おそらく元々は白だったのだろうが、汚れて灰色になった縦縞模様の服を、帯で結んでいる。その後ろに控えている子供たちは、なにやら肘をつつきあいながら、くすくす笑っている。

 進み出た男の子は、この年頃の子どもにありがちな遠慮のなさで、アルスランをじっと見つめると、口を開いた。

「あんたが、アルスラン?」

 いくら子どもでも、目上の者にその口の利き方はないだろう。そう思ったアルスランは、いくらか気分を損ねたが、先ほどのニルファルの様子が頭に浮かぶと、その気持ちをなんとか抑え、平静さを装った。

 自分のことで、彼女をつらい立場に追い込むことは、もうしたくなかったのだ。それに、相手は子供なのだ。

「そうだ、おれが、アルスランだ」

 その返答を聞いた子供たちの態度は、アルスランを驚かせるものだった。

「やっぱり、この人がアルスランだ! 大人たちが言ってた、厄介者のアルスランだ!」

 そう男の子が叫ぶと、うわぁっと皆が歓声を上げ、雲の子を散らすように、てんでばらばらになって走り去っていった。

 アルスランは、その場で呆然と立ち尽くしていた。

(今、なんと言ったんだ? 厄介者だと?)

 耳にした言葉が、信じられなかった。

(厄介者? 大人が言っていた?) 

 言葉が、頭の中を駆け巡る。

 とその時、ふと、ある会話のやりとりが思い出された。

(……奴は、オグズ族族長の息子、アルスランなんじゃないか?)

(……確かにな。身なりもいいし、名前も同じだ)

(……ずいぶん、厄介なものを抱えちまったな)

 厄介なもの……。確かに、自分のことをそう言っていた。

 その言葉が、どうしようもなく心をかき乱す。

(どこが、厄介者なんだ? 確かに、傷を負った状態で突然押しかける形となり、手間はかけさせてしまったが、それでも、そんなことはよくある話じゃないか。旅人が困っていたら、手を差し出すのは当たり前のことだ。

……いや、それとも、俺がオグズ族の族長の息子だから、厄介だということなのか? ……聞こえてきた会話から推測すると、そう受け取ることができる。……しかし、なぜだ? なぜ、オグズ族の族長の息子だと、厄介なんだ? むしろ、有力部族の一つであるオグズ族に恩を売ったわけだから、手放しで喜んでもいいはずではないか……)

 いくら考えてもますます混乱するばかりで、どうして自分が厄介者扱いされるのか、一向に分からない。心がざらつき、落ち着かないような居心地の悪さを感じる。

 次第に、アルスランには、目の前に広がる光景が色褪せていくように感じられた。

 雲一つない青空や、ところどころに生える緑の草、時おり強く吹く風に土ぼこりを上げる乾いた茶色い土や、色とりどりの女たちの衣装……。全てが色褪せ、遠くに遠ざかっていくように映った。

(十分ここにとどまった。先を急ごう……)

 所在なく突っ立っているアルスランは、そう決心した。


 荷物は、ニルファルの言う通り、すべてユルトに運び込まれていた。

 茶器や敷物、それに、二人分の鞍……。

 それらをじっと見ていると、自然とクリチュのことが思い出され、その場にとどまっていることができずに、外に出た。すぐにでも出発したかったが、世話を焼いてくれたニルファルに何も言わずに出ていくのは、さすがに礼を欠く行為だと思い直し、その場で彼女の帰りを待つことにした。

 スユンチは、すぐ近くでのんびりと草を食んでいた。そばには、アララトもいる。頭上では、鷹が悠然と空を舞っていた。暑い午後の昼下がりだ。

 アルスランはユルトの日陰に身を置くと、ときおり、風に乗って聞こえる女たちの笑い声に背を向け、ニルファルの帰りを待ち続けた。


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