境遇
ユルトに戻ると、どっと疲れが出た。
早く先に進まなくては、と逸る気持ちはあるのだが、体がいうことをきかない。どうやら、熱があるらしい。
ここは、ニルファルの休んだ方がいいという言葉に素直に甘えることにして、アルスランは、横になった。そして、すぐさま、眠りへと落ちていった。
眠っているようで、眠っていない。
熱で頭がボーッとする中、うつらうつらしているアルスランの耳に、誰かの話し声が聞こえてきた。
(……奴は、オグズ族族長の息子、アルスランなんじゃないか?)
(……確かにな。身なりもいいし、名前も同じだ)
(……ずいぶん、厄介なものを抱えちまったな)
言葉が、頭の中を横滑りしていく。アルスランはまた、深い眠りに落ちていった。
「この怠け者が! 全然進んでないじゃないか!」
突然、男の怒声があがったかと思うと、「ピシッ!」という、空気を切り裂く音が響き渡った。
はっと目を覚ましたアルスランは、体を起こすと、辺りを見回した。
周囲には、ベッドを取り囲むように衝立てが置かれており、アルスランのいる場所からは、声の主が見えない。それでも、人の気配は感じた。
「赤の他人のことは、どうでもいいんだ。早くこれを仕上げろ、役立たずが!」
「……申し訳ありませんでした」
震えるような、か細い女性の声が聞こえた。聞き覚えがある。世話をしてくれた女、ニルファルの声に間違いない。
アルスランは立ち上がると、そっと衝立てまで歩いて行き、向こう側を覗いた。そこには、やはり自分を世話してくれたニルファルがいた。彼女は地面に手をつき、頭を下げていた。怯えているのか、小さくうずくまり、その肩は小刻みに震えている。
そのニルファルが手をついている先に、一人の男が仁王立ちをしていた。
年の頃、四十代半ばといったところか。やせ形で、ぼさぼさの癖毛をしたその男は、ニルファルを睨むように見下ろしていた。その目つきには、優しさの欠片も見えず、ただただ、無慈悲な冷たい光が宿っていた。日焼けした顔の唇は怒りからか歪んでおり、また、その右手には、細い鞭のようなものが握られていた。
(さっきの空を切り裂くような音は、あの鞭だったのか?)
驚いたアルスランは、前に出ようと足を伸ばした。
とその拍子に、うっかり衝立てを蹴ってしまった。衝立ては、「ゴトッ」という鈍い音を立てて、動いた。その音に、ニルファルと男は、一斉にアルスランの方を見た。
一瞬、しんとした空気が訪れたが、最初にその空気を打ち破ったのは、鞭を持った男だった。
「あ、あぁ。お目覚めですか? どうですか、ご気分は?」
ニルファルを見下していた時とは一転して、その顔には、どこかおどおどしたような、それでいて卑屈な笑みが貼り付いていた。
その媚を売るような顔つきに不快感を抱いたアルスランは、すくっと背を伸ばすと、いつもの尊大な態度で相手を見下ろした。さすが、六部族の中の一つ、オグズ族次期族長として選ばれるだけのことはある、威風堂々とした佇まいだった。
格が違う。
本能的に悟った男は、額に汗をかき、赤らんだ顔で、「まだ仕事がありますから」と、もごもごと口の中で呟くと、そそくさとユルトを後にした。それでも、ユルトを出る際、憎悪が剥き出しになった瞳で、ニルファルを一瞥するのは忘れなかった。
アルスランとニルファルが、その場に残された。
「傷は、痛むかしら?」
立ち上がりながら、その場を取り繕うかのように弾んだ声で尋ねるニルファルを、アルスランは手で制した。そして、ポカンとした表情を浮かべるニルファルの元までさっと近づくと、すぐさまその左手を手に取り、目線の高さまで持ち上げた。
はっとした顔になったニルファルは、その手を振りほどこうとした。しかし、アルスランの強い力を前にどうすることもできなかった。すぐに、そのことを覚ると、観念したように項垂れた。
(やはり、さっきの音は、鞭で打たれた音だったのか……)
アルスランの顔は、曇った。
目の前にあるかさついた手の甲には、痛々しいほど赤く腫れあがったみみず腫れが出来ていた。よく見ると、傷は一つではなく、随分前にできたような傷痕が、いくつも残っている。
「日常的に、鞭で叩かれているのか?」
アルスランの問いに、項垂れているニルファルは、口を閉ざしたままだ。
「あいつは誰だ? 夫か?」
返事はなかったが、逆に、それが肯定している証とも言えた。
ふと、アルスランは、ニルファルの足元近くに、小さな籠と白い布地が転がっていることに気が付いた。布地には、色鮮やかなひまわりの花が半分ほど刺繍されていた。「ナズース」と呼ばれるものだ。
「仕上げろ、と言っていたのは、このことか?」
相変わらず、返事はなかった。
シャモル地方において、女性が刺繍を施すことは、当然のたしなみとされている。
女性たちは、娘の時分から、母親より刺繍の手ほどきを受ける。それは、出来栄えの良しあしによって、嫁の貰い手にも影響を及ぼすという、非常に重要な手業なのだ。
そうやって出来上がった品を「ナズース」と呼び、それらは、市場などで現金化される。現金の入手方法が限られている遊牧民にとって、「ナズース」は、貴重な現金収入源でもあったのだ。先ほどの男は、「ナズース」の刺繍の進み具合が悪いことに腹を立て、ニルファルに、罵声を浴びせたのだろう。
確かに、男女問わず、働かない者が皆から冷遇されることは、アルスランのオグズ族でもあることだった。だからと言って、鞭で人を打つ行為は、その人の尊厳をおとしめる行為であり、決して許されることではない、とアルスランは考えていた。ましてや、力の弱い女子供相手なら、なおさらだ。
しかし、このシャモル地方の中には、女性をないがしろにする部族が存在する、ということも知っていた。ニルファルのサカ族もまた、そんな部族の一つなのだろう。
そういったことへ思いを巡らしている内に、ついつい、ニルファルの手を握る力が緩んだようだ。
ニルファルは、アルスランの手をぱっと払い除けると、くるりと背を向けた。鞭で打たれた手が痛むのか、それとも、地面に手をついて謝っている自分の姿を見られたことへの羞恥心なのか、もう片方の手で、傷痕を庇うように包み込んでいる。
その後ろ姿を、アルスランは、哀れな気持ちを抱きながら見つめた。
子が親を選べないのと同様、どこの部族で生を受けるのかもまた、選ぶことはできない。不幸にも、ニルファルは女性の扱いが粗末な部族の下に嫁いだ。これは、アルスランにも、どうしようもできないことなのだ。
「やらなきゃならないことがあるから……。また、後で来るわね」
ぼそぼそと呟くと、後ろを振り返ることなく、ニルファルは、足早にユルトを後にした。
しんと静まり返ったユルトの中、アルスランは、一人立っていた。
普段は、荷物置き場として使用しているのだろう。塗装の剥げかかっている馬の鞍や、ひび割れた矢筒といったものから、時の経過によって色褪せた絨毯や、へこんだ鍋などが、雑然と積まれている。よく言えば、年季の入った、悪く言えば、粗末でぼろぼろの品ばかりだ。弱小部族の生活水準を、如実に表していた。
ふと、アルスランは自分の後頭部に手をやり、包帯の上から傷口あたりをそっと触れた。多少痛みはあるものの、ずいぶんと良くなったようだ。頭痛も、もはや感じなかった。
「ニルファルのおかげだな……」
そう呟くと、入り口へ視線を向けた。
自分の存在がニルファルの手を煩わせたのは、間違いない。そう思うと、じっとしていられなかった。
アルスランも、その場を後にした。




