壱. 警察庁公安諜報部
三谷幸成は、緊張していた。
知らない人間が、狭い上に全く知らない空間に集まって座らされている、これは中々にストレスの溜まる行為である。
彼は、紹介で就職した、警察庁の公安諜報部の新入説明会のためにここにいる。周りにいる、数十名も同じ理由で、この席に座らされているのだろう。
ただでさえ、勝手の知らない場所に入れられて緊張しているにもかかわらず、それを助長しているのが、四隅に立っている黒スーツのにこりともしない大人たちである。彼の上司になるであろう人たちだ。失礼な行動が取れないと、緊張して、頬を掻くのも、汗を拭くのも我慢して座っていた。
彼の隣に座った、制服を着たミニスカの女子は、足を机の上にのせて、携帯電話をいじり始めた。
反対側に座った、彼より年上であろう男は、机に突っ伏して、眠り始めた。
(どんな精神してんだよ、この状況でなぜ?)
三谷は鳥肌がたった。
「ねぇね、私、佐藤佳子って言うの。あなたは?」
三谷の前に座ったスーツの女性が、隣に座った少し幼く見える少女に尋ねた。
「ミヤ。あたし、ミヤって言うの。よろしく。」
「おい、お前ら、ここで騒ぐな。」
そこに割って入った男は、不愉快さを顔にありありと表現して、2人を諌めようとするが、
「はぁ?別に、誰かが話してるわけでもないんだし、いいでしょ? おっさんこそ、何よ。なんの権限でミヤと佳子に言ってんの?」
ミヤのその質問に詰まった男は、グッと我慢して、席についた。
まるで、学級崩壊したクラスのようだった。
(こんなところに居たくない、一刻も早く…)
そんなとき、部屋の前の方の扉が音を立てて、開けられた。
入ってきた男はスクリーンの前に立った。そのガタイのよいスーツの男性は、強面で、威圧だけで周囲を黙らせた。
「私は、公安諜報部1課所属の渡壁博一だ。この度の新人への説明を請け負っている。我々は諜報部の新しい仲間となる諸君らを歓迎する。」
有無を言わせずにこの説明会を始めたのだった。
「ここでは、簡単に諜報部の組織の仕組みと課の振り分けを行う。その後は、マンツーマンで指導員がつくので、それに従うように。」
事務的な語り口は、とっつきにくく、頑固な人という印象を与えた。
「まずは、諜報部の課について説明する。4つしかないため、覚えるのに苦労はしないだろう。」
そう言って、渡壁は説明を始めた。
公安諜報部には4つの課があり、基本的に番号で呼ぶ。
1課 国内諜報(i)
2課 海外諜報
3課 国内諜報(ii)
4課 そのほか
「ここにいる面々は主に1課か3課に配属されることになる。」
そう言って、次のスライドで渡壁は1課と3課の違いについて説明を始めた。
「1課は、大企業の社員や政治家の秘書、裁判官の書記官などとして、近くで情報を集める。3課は、そういう者たちが利用するホテルや飲食店、そのほかサービスを提供する店などで情報を集める。また、暴力団関係の薄暗い情報収集も行なってもらうことになる。簡単に分けるのなら、1課は仕事中、3課はプライベートから情報を集めるといえるだろう。」
「2課に所属する者はほとんどいないだろうが、2課は人数が多いため、内部で地域ごとに部署が分かれているので、訪ねる場合は気をつけるように。ここまで、質問がある者は手を挙げろ。」
「そこの、手前の。名前を述べてから、質問しろ。」
「はい。名前は、ミヤ、宮川奏音。質問は…、4課ってなんですか?」
「4課は通称、特課と呼ばれる、少し毛色の違う課だ。1~3課に該当しない仕事を統括的に行う。そして、その仕事内容はほとんどの場合が機密であり、なにをやっているかは上層部と4課しか把握していない。存在だけ知っていればそれでいい。これ以上は言えることがない。」
宮川はそれに頷いて渋々席についた。
「他になければ、次の説明を始める。」
「ここでは、部署とは別にランク制度が存在する。ランクによって、給与や与えられる情報、仕事内容が大きく変わる。」
S (非公開)
A (非公開)
B 組織である程度の地位に着き情報を引き出す/盗み出す
C 組織である程度の地位に着き情報を流す
D 民間人/組織に紛れて過ごす
E 新人(研修中)
「給与については配布資料にあるから、確認すること。Eが一番下でSが最上だ。AとSの条件は機密上非公開になっている。だが、実際に昇級するときに打診が来るから気にする必要はない。」
ぶっきらぼうに、これ以上深入りするなというような口調でいう。
「新人はもれなくランクEとなる。研修が終了次第、成績に応じてランクが振り分けられていくため、研修ではいい成績を収めるように努力することをお勧めする。」
「質問がなければ、課の振り分けに移るが。」
渡壁はそう言って周囲に挙手している人がいないことを確認してから、彼の用意していたバインダーを広げた。
「これから、それぞれの課と指導員を発表する。1度しか言わないからしっかり覚えろ。覚えてないやつはその時点でクビだ。聞いたものから順にこの部屋を出て、案内表示に従って移動し、自分の指導員を探せ。今日このときだけは、指導員は名札をつけている。以降は指導員の指示に従え。では始める。」
いつ自分が呼ばれるのか分からない緊張感に怯えながら、三谷は座って耳を傾けていた。
「五十音順というわけではないのか…」
そんなとき、三谷はずっと寝ていたらしい男がいつのまにか起きてそんなことを宣うのを聞いた。
(聞き逃せないってのに、なんでコイツは声を出しやがる。聞き逃したらどうするんだ!)
三谷の脳は怒りで支配された。
「三谷幸成。3課、指導員は椎名。」
そんなとき、ふとそんな声が聞こえた。
彼の耳に入った音を、意味のある言葉として認識するまでに、ラグがあった。
(三谷幸成…3課、で、しいな?)
危うく、聞き逃すところだった三谷は内心、戦々恐々としながら、静かに席を立って、部屋を後にした。
部屋を出ると、張り紙に誘導する矢印が書いてあって、課ごとに向かう先が違うようだった。
三谷は3課と書いてある矢印に従って、別の部屋に移動した。
20人くらいのスーツの人が、喋りながら待っていた。
(しいな…しいな…)
三谷は、胸についている名札を頼りに自分の指導員であろう人を探した。
(やけに、美人が多いな。スタイルも綺麗な人が多いし。胸とかも、大き…いや、俺は名札を見てるんだ。)
そして、『椎名』と書かれた名札を見つけた。
(いた! って女性?それも、超美人! これは当たりだろうか?いや、でも指導担当なんだから、でも、そうなら、ワンチャン…)
「あの、しいなさん、であってますか?」
「はい、しいなで読み方あってますよ。」
指導員の女性は、三谷に目線を合わせて、にこりと笑って柔らかに応じた。
「あ、あの、椎名さんが、その、指導員で、えっと、俺、三谷といいます。」
三谷がキョロキョロしながら、言葉に迷いつつ、そういうと、
「ふふっ、かわいい子ね。ええ、正解です。三谷くん、向こう行って話そうか。」
「はひっ。」
緊張して変な声になってしまったのですら、椎名はかわいいと笑っていった。
「三谷くん、ブラックコーヒー飲める?」
「あ、はい。」
「わかった。そこ座って、ちょっと待っててね。」
ラウンジには、食堂のようにテーブルと椅子が並んでいて、寛げるようになっていた。
三谷は座ると、去っていった椎名を目で追った。
椎名は部屋の隅にある自動販売機で缶コーヒーを2つ買うと、三谷の座っているテーブルに戻ってきて、向かい側に座った。
「改めまして、君の指導員になりました、椎名です。」
「お、俺は、三谷幸成と申します。」
椎名は、改めてそう言ってから、コーヒーの缶を開けた。
目線で三谷にも飲むように促すので、三谷も缶を開けてコーヒーを啜った。
「知らない人にこれから指導って言われてもねー、けど、名前以上に自己紹介というのも、難しい。趣味とか、休日には何されてるんですか、とか。お見合いでもないし、そんなプライベートな話はいらないよね。」
のらりくらりと、くねくねしながら話す椎名はどこか子どものようだ。
けれど、その言葉はどこか、三谷を突き放しているようにも聞こえる。
(プライベートな話は聞かれたくなさそうだし、でも、会話が繋がらないし…)
「あ、あの…ランクって聞いても…?」
焦って困った三谷は、先ほど聞いたばかりのことでなんとか質問した。
椎名は、驚いたように目を見開いてから、クスッと笑った。
「うん、いいよ。私のランクはC。指導員はほとんどがCじゃないかな?周りはDとCしかいないよ。Bは本当にたまにしか見かけないし、AとSは都市伝説じゃないかな? けど、Bは確かにいる。全体の説明してた渡壁さんなんかはBだったと思うよ。」
「へぇ〜、そうなんですか。」
「うん、そうなの。それで?」
三谷は適当に相槌を打ったものの、これ以上どうしていいのやら、別に知ったところでどうにもできない情報に、ほとほと困り果ててしまっていた。
「ふふふふっ、ふははははッ」
そんなとき、椎名が急に笑い出した。
「ふふふふ、グフっ、いや、ごめんね。こんな笑い方、そうそうしちゃいけないんだけど。」
涙を拭いながら、椎名は言った。
「会話、下手だね、三谷君。あまりに困っているから、おかしくて。まあ、事前情報とも概ね一致だね。」
(事前、情報…?)
三谷の頭の中は疑問でいっぱいだった。
「私の潜入先は、いわゆるキャバクラと呼ばれるところ。私は、お酒と会話とあとは、色々?を武器にして、お金持ちから情報と金をふんだくるの。」
ふふっと笑った笑顔が朗らかで、つい三谷は見惚れた。
「だから、三谷くんにはここで会話と給仕の技術を身につけてもらいます。」
今度は指導員として、凛々しく言った。