プロローグ
チャランチャラン、ドコンドコン。
けたたましく鳴る鐘の音と、腹の底に響くような太鼓の音。
今日は年に一回僕たちの街で行われる夏祭りの日だ。僕は妻の楓と1歳になる娘の夕子を連れ、この祭りを楽しんでいる。こうして夏祭りに屋台を練り歩くことは、僕の小さな頃からの行事になっていた。楓は東京から転勤でこの街にやってきて仕事の関係で出会い、2年の交際を経て結婚した。最初は東京を離れることをかなり拒んでいたようだが、新鮮な魚介類が獲れるこの街の食文化に圧倒されたようで、「もう東京では暮らせないわ」と口にするほどこの街のことを気に入っているようだった。それでも、地方都市独特の人間関係の緊密さにはまだ慣れておらず、会社での同僚や上司との関係に悩んでいるらしい。
楓は去年夕子を無事出産し、夕子はすくすくと成長している。夕子は生まれつき何故か体毛が赤く、僕も楓も夕子の頭から生えてくる髪の毛を見て不思議がっていた。医者によると、家系に問わず髪の色素が濃くなったり、または薄くなったりすることはあるらしいが夕子ほど髪の色素が薄く、これほど赤味がかった髪の毛の赤ちゃんは見たことがないという。それでも、夕子の体には異常がないとのことだったので僕らはさして気に留めないようにしていた。
夕子といえば、気になることがもう一つある。赤ちゃんが意味のある単語を話すのは1歳5ヵ月前後だと言われているそうだが、娘は生後8ヵ月の時に初めて意味のある言葉を話した。こんなに早く単語をしゃべるとは、と医者も舌を巻いていたが実は赤ちゃんが喋り出すのは個人差がかなりあり、これも特に異常があることではないらしい。
しかし異常なのは夕子が意味のある単語を言えることではない。初めて夕子が口にした単語は、なんと「ほたる」だったのだ。
そう、蛍である。夕子はまだ蛍を見たことがない。地方とはいえ、この街はそれなりには栄えており、蛍が見れるような自然は近くに残されていない。当然、僕と楓も夕子に蛍を見せ、「これは蛍だよ」と教えたこともないのである。
なぜ、パパやママ、ブーブーといった身近な単語ではなく、見たことも聞いたこともない蛍という単語を夕子はいち早く覚えたのか。医者に尋ねてみたが、これについては一切見当がつかないようだった。
「ほたるー」
夕子が遠くを指差し、またそう口にした。
その方向を見てみると、河川敷があり、まばらな人ごみのなかにか弱い小さな光が見えた。
楓は、見つけられていないらしい。
「夕子―、どこに蛍がいるの?」
そう聞いても、夕子は「ほたるー」としか言わない。
「あの河川敷の方みたいやわ。行ってみる?」
楓はよいしょ、と夕子を抱きかかえる。夕子もだいぶ大きくなってきて、楓が抱っこするのもきつくなってきたようだ。
「行ってみよーか。てか夕子、ほたるって言葉だけじゃなくて何が蛍なのかちゃんと分かってるのかな。もしかしたら適当にほたるーって言っただけかもよ」
楓は苦笑しながらそう言った。
果たして、河川敷に蛍は本当にいた。この街にまだ蛍がいることが驚きだが、それよりも夕子が蛍が何たるかを理解していたことに困惑し、当たり前のようにこの街に蛍がいることを受け入れてしまった。
本当に、つくづく不思議な子だ。
「なんか私、蛍って初めて見たかも」
紫陽花の葉に止まった蛍を、楓は当人の夕子よりも興味津々に見つめる。都会生まれ都会育ちの楓にとって、蛍は図鑑上にしか見られない伝説の生き物のような、極めて距離感のある生き物だったのかもしれない。規則的に光る蛍の光は楓の黒く透き通った眼に、万華鏡のように綺麗に反射していた。
蛍は別に嫌いじゃないし、むしろ好きである。夏という季節にはいろんな表情があるが、蛍は夏を彩る重要なアクターだ。その事実を除いても、懸命に今ある命を燃やそうと輝くその光はどこか儚げで、美しい。
とはいえ蛍にも、実は最近奇妙な違和感を覚えているのだが。
それにしても、と楓が小さな声でつぶやく。
「全然逃げないね、この蛍」
楓が顔をかなり近づけても、蛍は意に介さずといった様子で葉に止まり続けている。おそらく弱っているのだろう。
「蛍はきれいな水のある川辺でしか生きられんとよ。工場の煙で汚れたこんな街の水やと、これから生きていくんは難しいんやろうね」
いつだったか忘れた、大昔に仕入れた情報を楓に吹き込んでやる。
「へぇーそうなんだ。なんかかわいそうだねこの蛍。一人ぼっちみたいだし」
周りには、仲間らしき光は見えない。
「ほら夕子、蛍だよ~」
自分から「ほたるー」と言っておいて全く興味を示していなかった夕子に、楓が蛍を見せてやろうとする。自身は顔を引っ込め、代わりに夕子の顔を蛍に近づける。
夕子は目の前で点滅する光をしばらく見つめ、そこに何があるのかを知ったかと思うと、突然大きな声で鳴き始めた。
「えっ夕子!?どうしたの、ほら、蛍だよ~?」
夕子は泣き止まない。そればかりか顔を背け、必死に蛍の光を眼に写さないようにと抵抗する。夕子は別に、蛍が好きというわけではないようだ。
では、なぜ?なぜ夕子は、「ほたる」という言葉を一番最初に覚えたのだろう。
か弱い光と、涙。そして――――――
「ええっ、なんで雨が降るのー?天気予報で雨降るとか言ってたっけ?」
降り出す雨。
雨宿りできそうなスペースを探し、河川敷から屋台のある場所へと戻ろうとする。
雨が降り出しても、夕子は泣き止もうとはしなかった。
濡れてもなお際立つ赤い髪の毛。
どこかで見たことがある気がするそんな光景。
でも、どこで?
誰かと見たことがある気がする、儚い光と、雨。
でも、誰と?
なんでこんなにも、この記憶は記憶の奥の奥の奥に存在するのだろう。
引っ張り出そうとしても、その他諸々の記憶が引っかかって思い出せない。もどかしい。
もう一つの違和感。
僕は昔、蛍が大嫌いだったのだ。
急ぎ足で河川敷から離れる時、一度だけ蛍の方を振り返る。
そこにあったはずの光は、もうなかった。