第98話「ファルファリエの憂い」
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それからしばらくの間、俺はひたすら入試問題の作成やサフィーデ軍との連絡に忙殺された。入学希望者の確保が急務だったからだ。
どうにかこうにか入試のめどが経った頃、俺は大事なことに気がついた。
「ファルファリエがまだ『念話』を習得していないな」
「いいことじゃないですか、あるじどの。彼女は敵ですよ」
猫型使い魔のタロ・カジャが、顔を洗いながら応じる。
だが俺は納得しない。
「念話を教える学校なのに、何ヶ月学んでも念話を習得できないのは我々の怠慢だ」
「本人の適性の問題じゃないですかね」
「それはあるかもしれん」
ファルファリエ皇女は聡明だし努力家でもあったが、魔力を扱うセンスが皆無だった。
「なまじ学問ができるせいか、五感で知覚できないものを軽く見ている節がある。魔力を理屈で扱おうとしているな」
「そういうものですか」
「魔術はサイエンスだが、それを取り扱う魔術師にはアーツの資質が求められる。大気に満ちあふれ体内を巡る魔力をどう操るかは、武術や工芸などと同様に熟練の技が必要だ」
「はあ……アーツですか」
定義しきれないものや知覚できないものについて、使い魔は考えを巡らすことができない。その点はファルファリエ皇女と似ているが、使い魔は魔力を知覚できるので困らなかった。
「そういえばゼファーも入門時は似たような感じだったらしいな……」
兄弟子は魔術を数学で理解しようとして師匠を困らせていた。
俺は剣術や具足術の要領で覚えたので技術は比較的早く上達したが、学問としてはさっぱりだった。既存の術を使うだけで、新しい術をうまく作れない。
「と考えると、ファルファリエ皇女は研究者タイプ、大器晩成型の魔術師かもしれないな」
どう成長するか楽しみだ。
「あるじどの、ファルファリエ皇女は敵ですよね?」
「敵だとも」
そこは変わらない。
「まあ焦らずに数学と物理を学んでもらうか。蓄えた知識が互いにリンクし、魔術と融合すれば一気に開花するはずだ」
「あの、あるじどの? ファルファリエ皇女は敵なんですよね?」
「そうだが?」
何が疑問なんだ。
タロ・カジャとそんな会話をしながら廊下を歩いていると、向こうからファルファリエ皇女がやってくるのが見えた。
もちろん偶然ではない。彼女の行動は、もう一体の使い魔であるジロ・カジャが監視している。
昨日、ファルファリエ皇女宛の手紙が帝国から届いた。あまり良いことではないが、国防上の理由から文面は未開封のまま読み取らせてもらった。
符牒を使った暗号文だったので正確なことはわからなかったが、どうも大きな問題が起きたようだ。
そして今、ファルファリエ皇女が一人で学院長室に向かっているという報告が、ジロ・カジャからもたらされた。
だから俺はここにいる。
「あら、スバル殿……」
ファルファリエ皇女が俺を見て立ち止まる。
俺は片手を挙げて軽く挨拶した。
「やあファルファリエ殿下。どうした、顔色が悪いぞ?」
顔色が悪いというのは嘘だ。彼女の印象は普段通りだった。
この子は皇女として訓練されているので、心の動きを外に漏らすことは滅多にない。だからもし何も知らずに会っていたら、異変を見過ごしていたかもしれない。
俺の嘘にファルファリエ皇女は少し動揺したようだった。
「そう、ですか……」
彼女は頬を撫で、何か迷っている様子だ。
「何か困っているのなら俺たちを頼れ。国や立場は違っていても、俺たちは学友だ」
ファルファリエ皇女はしばらく悩んでいる感じだったが、やがてこう言った。
「でしたら……少し散策に付き合っていただけますか?」
「いいとも」
俺たちは廊下を戻り、学院の中庭に出た。
マルデガル魔術学院は山城を改装したものなので広い庭がある。平時にはここで兵を訓練し、戦時には天幕を張って大勢の兵士を籠城させる。
今はサフィーデの伝統的な庭園形式の中庭になっており、果樹や薬草が植えられていた。
ファルファリエ皇女が庭を見て、ぽつりとつぶやく。
「サフィーデは良い国ですね」
「ベオグランツも良い国だぞ」
「ご存じなのですか?」
俺は正直に答える。
「昔、ベオグランツに住んでいたことがあった」
「どれぐらい昔ですか?」
ぶらぶら歩きながら俺は彼女の問いに答える。
「ファルファリエ殿下が生まれる前だよ」
ファルファリエ皇女は少し考え、それからクスッと笑う。
「でしたら何も覚えておられないでしょう? 赤ちゃんの頃ですよね?」
「確かにあまり覚えてはいないな」
もう二百年ぐらい前になるかな? とにかく大昔のことなので記憶がいろいろぼやけている。
「だがベオグランツの人々が家族や故郷を愛し、お互いに助け合って暮らしていたことは覚えているつもりだ。そしてそれはサフィーデと何も変わらない」
「そうですね。ここに来て私もそれを強く感じました」
ファルファリエ皇女は果樹の下で立ち止まると、うつむきながらささやくようにつぶやく。
「争いなど、なくなれば良いのに……」
本当にそう思う。
だが生物としての「ヒト」と、社会を構成する「人」の間には大きな隔たりがある。人が人である限り、争いはなくならないだろう。
しかし俺は希望を捨ててはいない。
「争うことは人の習性だが、それを制御する知恵を生み出せないほど人は愚かではない。ある程度なら争いを減らすことはできる」
「本当ですか?」
ファルファリエ皇女が顔を上げたので、俺は説明してやる。
「実際、サフィーデとベオグランツは一時的にだが争いをやめているだろう? 講和という知恵のおかげだ」
「それも知恵なのですか?」
そりゃそうだ。
「この知恵を持たない生き物もいる。例えば鳩は争いを途中でやめる知恵を持たない。だから鳩舎の中で鳩が喧嘩になると、どちらかが死ぬまで、いや死んでも攻撃をやめないそうだ」
ファルファリエ皇女は少しショックを受けたようだ。
「まあ……。でもなぜ?」
「野生の鳩なら飛んで逃げるからな。そういう知恵は必要ないんだ」
そして人間もまた、そういう知恵は持っていなかった。武装しない限り攻撃力は低く、一方で先見性や移動力は高い。争いになりそうなら逃げれば助かる。
しかし棍棒や石で武装するようになると、凄惨な殺し合いが起きるようになった。
俺はそんな説明をして、こう締めくくる。
「人はこれからも強力な武器や戦術を生み出し続けるだろう。そしてそれをどう扱うか、流血の中で考えていく。争いは続くが、争いを減らすために知恵を出し続ける」
「本当にそうでしょうか?」
「知恵を出さなくなれば人が絶滅するだけの話だ」
師匠が残した「書庫」の情報が、それを明確に指し示している。
大都市を消滅させるような兵器が無数に飛来する時代になれば、争いを防ぐ知恵がなければ生き残れない。
あの世界の人類は今も存続しているのだろうか。少し気になる。
いつか俺も世界を渡る力を身に付けたら一度行ってみたい。特にあのニッポンとかいう国には興味がある。
だからそれまで滅びないでいてくれよ。
俺は雑念を振り払い、ファルファリエ皇女に笑いかける。
「少なくとも俺はサフィーデとベオグランツに戦争をさせる気はないぞ。俺が守っているのは両国の未来だ。だからサフィーデ王室が馬鹿なことを考えれば、どんな手を使ってでも諌めるし止めてみせる」
「一学生の言葉とは思えませんね」
ファルファリエ皇女はクスクス笑う。どうやら普段の彼女が戻ってきたようだ。
彼女は大きく伸びをして、それから果樹の幹にもたれる。
「でも、スバル殿の言葉を聞いていると安心します。時世や立場が変わっても、あなただけは変わらないのだと」
「昔から頑固者で通っていてな。おかげで余計な苦労ばかりしている」
師匠が俺に変な教育をしたせいだ。感謝してるけど。
俺は果樹の根に腰を下ろし、ファルファリエと並んで中庭の景色をぼんやりと眺めた。
俺は彼女に何があったのかは聞かない。言いたければ彼女が話すだろう。
俺にできるのは、彼女が話しやすい状況を作ってやることだけだ。
しばらくぼんやりしていると、ファルファリエ皇女はぽつりと言った。
「私、学院をやめなければなりません」