第97話「帝王は針の如く」
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【見舞いの刺客】
ギュイ皇太子は今日も父の寝室を訪問する。
「父上、お加減はいかがですか?」
「おお、ギュイか……」
寝間着姿でベッドに腰掛けていた皇帝グスコフ二世が、弱々しく微笑む。
「どうも良くならん。さすがに歳かな」
「頻繁に地方へ御幸なさっていた疲れが出たのでしょう。半年ほど休養を取ってください。その間、地方へは私が参りますので」
ギュイはそう言いつつも、父の体調不良の原因をよく知っていた。
(あんな香辛料ひとつで、まさかこれほどまでに衰弱するとは……)
導師がくれた香辛料は本当にただの香辛料だったが、皇帝の体を緩やかに蝕んでいった。
あれを食事に混入させるようになってわずか百日ほどで、グスコフ二世は公務のできない体になっている。
グスコフ二世は困ったように頭を掻いてみせた。
「よくできた跡取りがいて安心だ。どうだ、いっそのこと即位してみないか?」
「またそのお話ですか? 私はまだ軽輩です。それに父上がすぐ快復なさると信じておりますので、即位などとんでもありません」
帝位を欲しがるそぶりは一切見せない。ギュイはじっと好機をうかがうつもりでいた。
簒奪者として戴冠すれば帝国に混乱を招く。あくまでも正当な皇帝として即位しなければならない。
グスコフ二世は腕組みして少し考え込んでいるようだったが、首を横に振る。
「いや、やはりお前が即位した方が良かろう。わしがもし急逝すれば、引き継ぎをする暇もなくお前が皇帝になってしまう。新皇帝を補佐する期間が必要だ」
「それは……仰る通りかもしれませんが」
グスコフ二世は青白くやつれた顔に、昔のような笑みを浮かべてみせる。
「わしはサフィーデ攻略に失敗し、威信が少なからず低下しておる。ここで新皇帝が即位すれば停滞した空気を吹き飛ばせるだろう」
「父上……」
「既に譲位の書類をまとめさせている。わしの体のことはわしが一番よくわかる。快復の見込みは薄い」
グスコフ二世はそう言い、自分の手を見つめる。
「指輪が抜けるほど痩せ衰えたのに体が重い。臓腑が鉛のようだ。読書や思索も長時間は続かん。肉体だけでなく、おそらく精神も衰えている」
「そんなことはありません。父上は病に冒されてもなお覇気に満ちあふれておられます」
「いや、あと半年も経てばおかしな妄想に取り憑かれだすだろう。わしは過去にそういう者たちを大勢見てきた。いかな猛将や賢臣といえども、体を蝕まれ日常を奪われればたやすく心を乱す。人とはそういうものだ」
善人も悪人も有能も無能も巧みに使いこなしてきただけあって、グスコフ二世の言葉はギュイには重く感じられた。
「だからこそ、わしの判断力がまだ確かなうちに譲位しておきたい。ベオグランツ帝国の頂点に立つ者は、心身ともに壮健であらねばならんのだ。わしはもう皇帝の資格を失った」
どうやら父の決意は固いらしい。
(よかった……)
ギュイは内心で安堵する。ここで譲位してもらえば、これ以上は父の体を蝕む必要はないだろう。導師によれば、あの香辛料さえ食べなければ病気は進行しないらしい。
そのとき不意にグスコフ二世の目つきが鋭くなった。
「ギュイよ」
「は、はい」
ギュイは父のまなざしに一瞬、激しく恐怖する。あの目は父が裏切り者を裁くときの目にそっくりだ。
(もしや計画が露見していたか!?)
そのときはこの場で父を亡き者にし、皇帝は病死したと嘘の触れを国内に行き渡らせるしかない。
(できるのか、私に? そんなことが?)
いっそ全ての罪を告白して裁きを受けてしまおうか。国を救うことはできなくなるが、少なくともその方が楽だ。ギュイはそう思う。
しかしグスコフ二世は表情を緩め、苦笑してみせた。
「ところで時刻はどれぐらいだ? 目が霞んでよく見えん」
「は、はい。そろそろ『冬門鐘』です」
早めの夕刻を告げる時刻だ。日没の時刻は季節によって違うので、城塞都市の閉門を告げる鐘の時刻も三種類ある。
「そうか。もうそんな時刻か」
グスコフ二世は静かにうなずき、時計を指し示してこう続ける。
「皇帝とは時計の針のようなものだ。一瞬たりとも休むことはできんし、過ちも停滞も許されん。皇帝の指し示す先を皆が見つめているからな」
喋りすぎて疲れたのか、グスコフ二世は少し呼吸を整える。
「だが時刻を計っているのは針ではない。文字盤の裏にある歯車や振り子たちだ。まともな時計なら針を取り替えても問題なく動く」
「では皇帝など誰がなっても良いということですか?」
「いいや、そうではない。どれだけ精密であろうとも、歯車や振り子では針の代わりにならん。針は針だ。そして針になれる者はごくわずかしかおらん」
グスコフ二世はベッドにもたれると、つぶやくように問いかけてきた。
「このベオグランツ帝国という大時計の針となって、向かうべき未来を指し示し続ける覚悟はあるか?」
「それはもちろんあります」
ギュイが本心からうなずくと、父は弱々しく笑った。
「では皇帝の座を譲ろう。そのまっすぐな気持ちで皆を導け」
「はい。……謹んでお受けいたします」
ギュイは後ろめたさを押し隠しつつ、深々と頭を下げた。
* * *
俺は今、魔術の限界を感じていた。
「こればかりはどうにもならん」
「やはりどうにもならんか」
ゼファーも溜息をつく。
マリアムがぽつりと言った。
「それはどうにもならないでしょう。入学希望者を増やす魔術なんてないわ」
そう。マルデガル魔術学院は今、深刻な受験生不足に陥っていた。
「男子も減ったが、女子の志願者がほとんどいないのは困るな。サフィーデで女子が通える学校はここぐらいしかない」
「卒業すれば戦地に行かされるのに、大事な娘を入学させる富裕層はいないわよ」
ぐうの音も出ない。
わかってはいたことだが、ベオグランツ帝国との戦争が始まったことでマルデガル魔術学院は敬遠されるようになっていた。卒業生には軍役が課されるからだ。
この学院の生徒は金持ちや貴族の子弟が多いので、何もそこまでして学校に通わせる必要はない。彼らの人脈と金があれば、学者や退役軍人を家庭教師として雇える。
「さてどうする、シュバルディン? 学費を安くして庶民でも入学できるようにするか?」
「どうだろうな。学費の埋め合わせを王室に頼むことになるし、それに庶民の子は読み書きができないのが普通だ。養成にもう一年かかるぞ」
俺はそう言って頭を掻く。
「学ぶ意志さえあれば誰でも等しく学べる場所にしたいが、今のマルデガル魔術学院は軍の通信士官を養成する士官学校だ。教育の理念はいったん横に置こう」
ベオグランツ帝国との休戦協定は残り四年余りだ。そして休戦協定は途中で破棄される可能性が濃厚なので、新入生を四年かけて育成しても開戦に間に合うか怪しい。
「こればかりはどうにもならんな。上位の術を教えて、少ない通信兵で国土全体をカバーさせるしかないだろう」
「使い魔を基地局にすれば通信兵をそのぶん減らせないか?」
ゼファーがそう言うが、俺は賛成できなかった。
「使い魔は不安定だからな。学習することで性能は増すが、すぐ勝手なことを始める。今の若い魔術師たちには面倒な代物だろう」
俺自身、タロ・カジャとジロ・カジャの扱いに苦慮しているところだ。一人で二体を管理するのは案外キツい。個体差がどんどん開くし、どちらにどんな指令や情報を持たせたかも覚えきれない。
「使い魔の管理にも専属の魔術師が必要になるしな」
「使い魔は面倒だからな……。私もここ百年以上触ってない」
ゼファーは溜息をつき、こう答える。
「生徒数の確保については王室に相談してみよう。王室なら名誉という付加価値で人を動かせる」
「お前……」
俺は思わず兄弟子の顔を二度見した。
ゼファーは苦笑を浮かべる。
「いかに私が賢者から程遠いとはいえ、お前のやり方から学ばないほど愚かではないつもりだぞ。世俗の論理ぐらい覚えたとも」
「いや……うん」
不本意だろうが、兄弟子も頑張っているんだな。
「それよりシュバルディン、入試問題の作成を急いでくれ。数学や物理は私が作るが、作文の問題は軍学に通じたお前が作った方がいい。作文能力は通信能力に直結するからな」
「ああ、わかってる」
こりゃしばらくはベオグランツ帝国の監視には行けそうにもないな。
何も起きてないといいんだが……。