第82話「宿敵の育て方」
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ファルファリエ皇女は俺の顔をじっと見て、やや警戒した様子で問い返す。
「聞きたいことですか?」
「ああ」
俺も彼女の表情を観察し、何よりも知りたかったあの質問を投げかける。
「学院の生活で困っていることはないか?」
「……え?」
一瞬、わけがわからないという顔をするファルファリエ皇女。皇女の仮面が剥がれ落ち、どこにでもいる十代の子供の素顔が現れる。
いやあ、いい表情が見られたな。
「ベオグランツとサフィーデは隣国同士だが、言語も生活習慣もかなり違う。サフィーデ人にはわからない苦労があるんじゃないかと心配していたところだ」
この言葉に嘘はない。ファルファリエ皇女は本国で大勢の使用人に囲まれていたはずだ。異国でひとりぼっちになれば、精神的にもいろいろ辛いだろう。
ファルファリエ皇女はまだ面食らった顔をしているが、再び皇女の仮面を取り戻す。
「どういう……意味でしょうか?」
「食事や衣服、それに寮の部屋。何もかも皇女様の思い通りとはいかないだろう。君がここで勉学に専念できるよう、俺たちは可能な限り支援する責任がある」
ファルファリエ皇女は呆れたような顔をして、それから溜息交じりに吐き出す。
「私がここに何をしに来たか知っていて、その上でそんなに親身になるというんですか? つじつまが合いませんよ?」
「それはそれ、これはこれだ。国同士が敵対していても俺と君は学院の仲間、共に学問を志す同志だろ」
学院の生徒は俺にとって保護の対象だ。そうでなきゃ、さっきの二年生たちにあんなに優しくしてやる訳がないだろう。そこらのチンピラならあんなまどろっこしい対応はせず、骨の一本や二本はへし折っている。
「で、困ってることはないのか? それとも当学院の対応に大満足か?」
俺はもともと短気なんだ。「雷帝」の二つ名は飾りじゃないぞ。歳を取ってさらに短気になった。
腕組みをしながら俺が食堂の外壁にもたれると、ファルファリエ皇女は特大の溜息をまた吐き出した。
「はぁ~っ……」
なんだそのクソデカい溜息は。
「本当にやりづらいんですけど。あなたいったい何者なんですか?」
「一学徒だ」
「だからそのひねこびた物言いがやりづらいんですよ」
俺は澄ました顔で応じる。
「敵国の姫君にそう思われているなら大変結構だ。ところで寝室の毛布、寒くないか?」
「寒いですけど別にどうということはありません。ていうか、なんで知ってるんですか? まさか……」
変な誤解を招いたようなので、俺は片手で制する。
「君の私生活を覗き見するほど悪趣味じゃないぞ。簡単なことだ、ここはベオグランツの最北部よりさらに北にあり、内陸部の山中にある。正直言うと俺も寒い」
特待生用に角部屋の個室なんか用意しやがって。野営用の装備があるからいいようなものの、年寄りには過酷すぎる部屋だ。
「もう少し上等な毛布を自費で手配してもいいし、備品の毛布を追加で借りてもいい。二枚重ねると全く違うぞ。ついでに下にも一枚敷くとさらに違う」
ファルファリエ皇女は俺をじっと見ていたが、やがて渋々うなずいた。
「じゃあ備品の毛布を追加で二枚、お願いしてもいいですか?」
「任せとけ。今夜から暖かくして眠れるぞ」
良い研究に良い睡眠は不可欠だからな。
「他には? 言葉の問題はないか?」
「ご心配なく。言葉が不自由では学問も情報収集もできませんから、その点は抜かりありませんよ」
まあそうだろうな。この会話もサフィーデ語だし。
「食事は大丈夫か?」
「まあ……故郷の料理が恋しくないと言えば嘘になりますが、サフィーデの料理人にはベオグランツの宮廷料理は無理でしょうし」
それもそうだ。
「不自由ばかりで悪いな」
「まるであなたが学院の代表者みたいですね、スバル殿」
くすっと笑うファルファリエ皇女。自然な笑顔だ。
「これも一年首席の義務だ。君がどこから来た何者だろうが、学ぶ意志さえあれば仲間だからな」
敵であり仲間でもある。ややこしい存在だ。
するとファルファリエ皇女は真顔になる。
「ところで、私に聞きたいことは本当にそれだけなんですか?」
「そうだが」
「私は皇女ですよ? 帝室の内情にも詳しいのに、私に聞くことがないんですか?」
実はいろいろ聞きたいことはある。
帝国側に『書庫』の資料が流出しているのは明らかなので、犯人捜しをしたい。おそらく『八賢者』の弟子、高位の魔術師が関わっているはずだ。
だが質問というのは、それ自体が相手に情報を与えてしまう。こちらが何に興味を持っているのか、何を知らないのか、手の内を晒すことになる。
だから俺は核心に迫る質問はしない。君に聞かねばならないようなことは何もないよ、という態度を見せておこう。
俺は思いっきり悪辣な表情でニヤリと笑う。
「万策尽きて十七歳の少女を敵地に送り込む帝室なんかに興味はないね」
ファルファリエ皇女が悔しそうな顔をする。
「……言ってくれますね」
でもこれも本音だ。一人の子供に国家レベルの重責を背負わせるのは許しがたい。
そこで俺はククッと笑い、ファルファリエ皇女を挑発する。
「君がここで何を企んで何をしようが、好きにさせてやるよ。邪魔するつもりもない。ただし、ひとつだけ警告しておく」
俺がグイッと顔を近づけると、ファルファリエ皇女は微かにたじろいだ。
「な、何ですか」
「勉強は真面目にしろ」
「はい?」
「勉強だ。せっかく実家から離れて一人きりなんだ。学びの機会を逃すな」
俺は彼女に背を向けると、ふと思い出したことを伝えておく。
「俺は寮の食堂で仲間たちと勉強会をしている。興味があるなら来い。帝室の御用学者も知らないような知識を山ほど教えてやるぞ」
「懐柔しようとしても無駄です。私にそんな貴重な知識を与えたら後悔しますよ」
彼女がそんなことを言ったので、俺はまた笑う。
「そりゃ面白いな。後悔させられるものならやってみせてくれ」
「なっ!?」
「君が俺の宿敵になれるか、楽しみにしているぞ」
これだけ言っておけば、きっと気合いを入れて勉強してくれるだろう。
この子は賢いから学べば大きく伸びる。成長が楽しみだ。
* * *
【ファルファリエの戸惑い】
(何なの、あの男は……)
ファルファリエはジンの背中を見送りながら、軽く唇を噛む。
あの小柄な少年は、ただ魔法に長けているだけではない。むしろ魔法以外の部分に底知れなさがある。
「勉強会ですって? ベオグランツ帝国皇女のこの私が?」
思わず声が出てしまう。
自慢ではないが、ファルファリエは自分の学識に自信があった。帝国の主要公用語全てを操り、隣国の言葉もだいたいわかる。サフィーデ語だってこの短期間に修得したのだ。
史学、神学、文学、法学。それに軍学も。
普通の皇女が学ばないような学問まで、しっかり修めている。それも帝室お抱えの学者たちによる個人教授だ。
(私はベオグランツ帝国最高の教育を受けてきたんですよ?)
ファルファリエの中には、サフィーデという国を軽んじる気持ちがあった。帝国に較べれば、周辺の国などどこも未開の後進国だ。
だが今、帝国はその「未開の後進国」を攻めあぐねている。
ファルファリエは食堂の裏でじっと考える。
(この学院では魔術以外の講義も多い。魔術師に数学や史学を教えて何の意味があるのかわかりませんけど、サフィーデも無意味なことはしないはず……)
敵を軽んじるのは危険だと、ファルファリエは自身を戒める。
(せっかくの誘いですし、勉強会とやらに行ってみるのが良いでしょうか? でもあのジンの顔が腹立たしいですし……)
ファルファリエはジンが苦手だった。
皇女として感情と理性を切り離す訓練をしてきたファルファリエだが、それでもまだ十代の少女。感情と理性を完全には切り離せない。
「どうしましょうか……?」
「殿下、どうなさったんですか?」
不意に至近距離から声をかけられ、ファルファリエの心臓が止まりそうになる。
慌てて振り返ると、見覚えのある少女が心配そうにこちらを見ていた。
「ええと、確かあなたは一年一般生の……ユナさんでしたね」
「はい殿下。平民の身でお声がけしたこと、どうか御容赦ください」
ユナと名乗った少女は軽く腰を屈め、作法通りに一礼する。平民といってもこの学院に来るぐらいだから、それなりに良家の子女なのだろう。作法がしっかりしている。
ファルファリエは胸の動悸を静めつつ、笑顔を作って応対する。
「学院の中では身分のことは気になさらないでくださいね。ユナさん、いつからそこに?」
するとユナは気まずそうに告白する。
「ファルファリエ様が『勉強会ですって?』とつぶやかれたところからです」
(ずっとそこにいたんですか!?)
思わずそう言いかけたが、ここは自制すべきだ。大丈夫、肝心な部分は聞かれていない。
普段なら人の気配に気づかないなどということはありえない。
(どうやら私はよほど動揺しているようですね。平常心ですよ、ファルファリエ)
ファルファリエは小さく咳払いをする。
「ユナさん、何か御用でしょうか?」
「ジンさんが『ファルファリエ殿が食堂裏で悩んでるはずだから連れてこい』って」
何もかもお見通しということらしい。
(あいつめ……。いけない、平常心、平常心)
ますます腹が立ってきたが、とにかく今は気持ちを落ち着けることが大切だ。
何も気づいていない様子で、ユナはにっこり笑う。
「これから食堂で勉強会ですよ。ファルファリエ様、一緒に行きませんか?」
「それは……」
実はちょっと嫌だったが、ユナの無垢な笑顔を見ていると断りづらい。ジンと違ってユナは完全な厚意で言ってくれている。
それに学院内で妙な部分があれば、怪しまれない程度に調べるのがファルファリエの役目だ。もう少し深く調べてみる必要があるだろう。
(それに何より、あの傲慢そうな男の鼻をあかしてやらないと気が済みませんからね)
ファルファリエは素早く考えを巡らせると、ユナの手を取った。
「ありがとう。では参りましょうか、ユナさん」
「はい!」
(絶対、あの男を後悔させてみせます……)
ジンの皮肉っぽい笑みを思い出し、ファルファリエは決意を秘めて歩き出した。