第122話「決戦の時」
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マリエの秘術で傷が癒えた帝国軍の兵士たち。無傷の兵はほとんどいないので、ほぼ全ての帝国兵が自分の身に起きた異変に呆然としていた。完全に戦意を失っている。
ファルファリエ皇女はサフィーデ軍に攻撃を停止させ、戦場の中央に進み出た。
近衛兵が掲げる軍旗には皇女の紋章が刺繍されており、帝国兵たちはほとんど反射的に膝をつく。
敵方の総大将とはいえ、ファルファリエは帝室の一員だ。
会戦の最中に一方の軍が戦意を捨ててしまうという不思議な状態。
ファルファリエ皇女はこの機を見逃さなかった。
「もうよいのです、帝国の勇士たちよ。私とあなたたちが戦う理由などありません」
秘術の余波で周囲が柔らかな光に包まれる中、ファルファリエは穏やかに帝国兵たちを諭す。
「私はギュイ陛下に対して謀反の意などありませんし、サフィーデの傀儡になった訳でもありません。私が倒すべき本当の敵は、別にいます」
帝国兵たちは顔を見合わせる。
「皇女様は何をおっしゃってるんだ?」
「わからんけど、この傷を治してくれたのは皇女様だろ?」
一同の困惑を代表するかのように、帝国軍の貴族将校が進み出る。
「殿下、本当の敵とはいったい何なのですか?」
「帝室に取り入って横暴の限りを尽くしている者がおります。表向きは知られておりませんが、帝室の者なら誰もが知る人物で、『導師』の名で呼ばれています」
それを聞いていたマリエが苦笑する。
(うまいこと虚実ないまぜにしたものね)
導師の横暴は事実だが、導師の存在は帝室内部でもあまり知られていないはずだ。ファルファリエ自身、襲撃されるまでその存在を知らなかったのだから。
しかし末端の将兵にそんなことを確かめる方法はない。
だからファルファリエは言葉を続ける。
「私は留学からの帰国途中、帝国領で『導師』に命を狙われました。サフィーデに引き返し、同盟国であるサフィーデの護衛たちと共にこうして再び帰国したのです」
「そ、そうだったのか」
「にわかには信じがたいが……」
「でもファルファリエ様が俺たちを見捨ててたら、俺もお前も今頃は死体だったぜ?」
実際に命を救われたというのが強烈な信用となり、帝国の兵士たちは細かいことがどうでもよくなったようだ。
「隊長、もう降伏しましょうよ。逃げてもどうせまた前線送りですし」
「なんだかややこしい事情がありそうだし、ここは捕虜になっといた方がマシだな」
ファルファリエの様子を見て、帝国兵たちは去就を決めたようだ。
その場にいた貴族将校の中で、最も階級の高い者が制帽を脱ぐ。
「殿下、私たちは降伏いたします。どうか寛大な御処置を」
「もちろんです」
ファルファリエはにっこり笑った。
マリエはその様子を見て、ほっと肩の力を抜く。
もしまた撃ち合いになれば、生命を共有する者同士での殺し合いになる。最初のうちは互いの生命力で傷を治し続けるが、やがて生命力が尽き、全員が致命傷を負った時点で秘儀が消滅する。
そうなれば誰も助からない。
(どうやら損害を最小限にして戦いを切り抜けられたようね。そういえばベリエ人たちはおとなしくしてるかしら?)
* * *
【ベリエランガたち】
『トッシュ、前線の様子はどう?』
アジュラの問いかけにトッシュが振り返る。
『なんかファルファリエが帝国軍を降伏させたみたいだな』
『なんで? どうやって?』
『わかんねえよ、マリエが笑ってるだけで教えてくれないんだから。自分で聞いてくれ』
二人とも紫の幻影の炎をまとっている。マリエがかけてくれた魔法だ。どうやらマリエもかなりの使い手らしかった。
アジュラは腕組みしつつ、チラリと傍らを見る。ケズン卿たちベリエ貴族がビクついた表情でこちらを見ていた。
『あの人たち、どうしてあんなに怖がってるのかしら?』
『ベリエ地方には、紫の炎をまとった魔神の伝承があるんだってさ。俺たちがそれに見えてるのかもな』
アジュラは自らの手にまとわりつく紫炎を見つめていたが、首を傾げる。
『火の精霊を崇拝する氏族の私が言うのも何だけど、そんなことってある?』
『だって他に理由が思いつかないし』
トッシュが軽く会釈すると、ケズン卿たちはビクッと震えて慌てて視線をそらした。しかし無視するのも怖かったのか、視線を戻して卑屈な笑みを返してくる。
『ほらな?』
アジュラは腕組みして「うーん」と唸るが、やがて考えるのが面倒になったらしい。
『よくわからないけど、まあいいか。これだけビビッてれば裏切ったりはしないわよね?』
『たぶんな。万が一のときはすぐに報告しなきゃいけないけど』
するとケズン卿の小姓がやってきた。トッシュたちよりも年下に見える少年だ。
「あの……皆さんは本当に『ベリエランガ』なんですか?」
アジュラとトッシュは無言で顔を見合わせる。
(この質問をされたときは)
(こう答えればいいんだよな)
念話も使わずに意思疎通する二人。
アジュラはにっこり微笑み、紫の炎に包まれた手を差し出す。
「それはあなたが決めればいい。……ユランの木の祝福を」
よくわからないが、シュバルディンから「こう言っておけば絶対に誤解されるから大丈夫だ」と言われている。何が大丈夫なのかは、やっぱりよくわからない。
案の定、小姓は完全に誤解した顔つきで頬を紅潮させ、何度もうなずく。
「は、はい! ありがとうございます! 皆様に御武運のあらんことを!」
いそいそと戻って主に報告している小姓を見て、アジュラはつぶやく。
『いいのかしら、これ』
トッシュは困ったように頭を掻きながらも、アジュラに笑いかけた。
『それで丸く収まるのならいいんだよ』
トッシュは頭の後ろで手を組むと、まだ硝煙の匂いが残る戦場の空を見上げた。
「それにしてもジンのやつ、どこで何してるんだろ?」
* * *
【決戦の時】
「シュバルディンのやつめ、どこで何をしている!?」
導師は半狂乱になって宿敵の姿を追い求めていた。
これだけ状況が進行しているのに、あの男はどこにもいない。
「帝国軍は何をしている? 後詰めの軍はどうした?」
そう呟いた導師は、ハッと気づく。
「おのれ!」
導師は即座に宮殿へと転移した。皇帝ギュイの居場所には瞬時にテレポートできるように、術を組んでいる。
ギュイの姿を見た導師は、問答無用で彼に『窒息』の術をかけた。周囲の酸素だけを取り除き、窒素で満たす術だ。
「ううっ!?」
みるみるうちに顔色が紫になり、悶え苦しむギュイ。
それを足蹴にしながら、導師は皇帝の署名が入った命令書の束を床に叩きつけた。いずれも「別命あるまで現在地を堅守せよ」と書かれている。
「貴様、帝国の全軍を足止めしたな!? わかっているのだぞ! 反乱軍をここに導くつもりか!」
ギュイは反論しない。反論する余裕もないだろう。
導師はギュイの背中を何度も蹴りつけるが、少女の細い脚では皇帝を蹴り殺すほどの威力はない。そもそも蹴り方がわかっていない。
ギュイは新鮮な空気を求めて悶えるが、動きが徐々に鈍くなってきた。
そんなことにはお構いなしに、導師は叫び続ける。
「こうなったら私が直々に反乱軍を殲滅してやる! そうなれば嫌でもシュバルディンが出てくるだろう! お前はそこで死んでいろ!」
そう叫んだとき、一陣の突風が皇帝の執務室に吹き荒れた。
「むうっ!?」
導師はその突風に魔術的なものを感じ、とっさに飛び退く。展開していた魔除けの術が幾つも砕け散り、魔力の残滓がきらめきとなって消えた。
「がはっ!?」
ほぼ同時に瀕死のギュイ皇帝が不意に息を吹き返す。いつの間にか『窒息』の術が打ち消されている。どうやらこれが本命だったようだ。
術者本人にすら気づかせずに術を解除する。
こんなことができる者は、この世に三人しかいない。
導師は皇帝を蹴るのをやめ、室内をギョロギョロと見回す。
「どこだ!? どこにいる!?」
その叫び声が終わらぬうちに、槍を携えた少年が静かに舞い降りた。
「ここにいるぞ」