第120話「魔術学院防衛戦」
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* * *
【狂乱の導師】
「どこだ……どこにいる、シュバルディン……」
導師は『遠見』の術で必死になって仇の姿を追い求めていた。
彼の目には今、ベリエ地方の山中を行軍するサフィーデ軍が見えている。
この軍勢にはマルデガル魔術学院の生徒たちが従軍している。教官長であるシュバルディンが引率している可能性は高かった。
マリアムも二年の学年主任をしているという情報が入っている。
だがどちらの姿も見当たらない。
「くそっ、ナメた真似を……いや待て」
導師は不意にニヤリと笑う。
「三賢者がいない軍勢など、造作も無く蹴散らせるではないか」
地図を確かめるとベリエ地方には帝国軍はいないものの、南の平原を通る街道には帝国軍がひしめいている。最寄りの軍を急行させればいい。
導師は皇帝に軍を動かすよう迫ることにしたが、ふと思い直す。
「これ以上、あの皇帝と関わり合うのも面倒だ」
皇帝の命令書など簡単に偽造できる。伝令の脳をいじくって偽の記憶を植え付ければ、前線の軍勢まで偽の命令書を届けるだろう。
「周囲の帝国軍を全部ぶつけてやる。どうなるか見物だな?」
自分で手を下しても良かったが、サフィーデ軍を蹴散らしている間に三賢者たちが何かするのではないかという疑念が拭えない。
「学院の生徒やファルファリエを囮にして、私を討とうというのではあるまいな? 同門であった我が師を殺すような連中だ、それぐらいは平気でするぞ……」
ぶつぶつ独り言をつぶやきながら、導師はイライラした様子で歩き回る。
「落ち着け、考えろ……あいつらの裏を掻くのだ……」
三賢者がいない以上、サフィーデ軍の相手をしてもしょうがない。
だがそのままにもしておけないので、帝国軍をぶつけて皆殺しにする。
「所在がわかっているのはゼファーのみ。とりあえずゼファーを叩くか」
もし魔術学院にシュバルディンとマリアムが残っていれば、三対一の圧倒的に不利な戦いを強いられる。
いかに導師が自分の腕前に自信を持っているとはいえ、三対一では勝てないことぐらいは判断できた。
サフィーデ軍の出征直後から、「シュバルディン教官長」と「マリアム学年主任」の動きが完全に途絶えている。学院内にもいないようだ。
今回の戦争に関連して、どこかで動いているのはほぼ間違いなかった。
「サフィーデ軍は帝国軍にやらせるとして、魔術学院は……そうだな」
導師は魔術書を開き、そこに記された術を解放する。
「黒き災厄よ、羽ばたけ」
魔術書の一文が輝き始めると、導師はすかさず別の術を重ねてかける。
「一つは二つに。二つは四つに。四つは八つに」
さらに術をかける。
「終わりなき交響曲よ、再び序曲を奏でよ」
三つの術がひとつになり、絡み合った魔術紋が魔術書の紙面で禍々しく踊り狂う。
「よし」
導師が魔術書をパタンと閉じると、周囲に静寂が訪れた。
「これならばシュバルディンの泣き叫ぶ顔を見られるであろうな。だが念のためだ」
導師は転送符を取り出すと、忽然と消え失せた。
* * *
【魔術学院防衛戦】
マルデガル魔術学院は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
『上空に魔力場を感知!』
『今日って学院長の実験計画あったか?』
『とにかく学院長を探せ!』
教官たちが念話で叫んでいると、落ち着いた声が響き渡る。
『これは敵の襲撃だ』
ゼファーはマルデガル城の尖塔から空を見上げていた。
「なかなかの壮観だな」
上空には漆黒の影。巨大な翼を持つ飛竜だ。距離のせいでわかりにくいが、学生寮よりも大きい。
『学院長、あれは!?』
『古代都市オルヌポリュスをたった一頭で灰燼に帰したという、伝説の黒い火吹き竜だよ。分類学的にはドルーブ種の突然変異に過ぎんが』
火吹き竜と呼ばれるものの多くは、体内のメタンガスなどに引火させて火を吐く。火は強烈だが一瞬で消え去る。
だがこの黒い竜は可燃性の粘液を燃やしながら吐き出す。そのため炎はいつまでも消えることがなく、辺りを燃やし尽くす。
中庭に飛び出した教官たちが叫ぶ。
『伝説の黒い火吹き竜!?』
『でもあの数はいったい!?』
伝説の黒い火吹き竜は、空を埋め尽くすほど飛んでいた。
ゼファーは読みかけの魔術書をパタンと閉じると、あごひげを撫でる。
『ドルーブ種に限らず、大型の竜は群れを作らぬ。餌が不足してしまうからな。しかもこの数の変異体。なんと不自然な光景だ』
次の瞬間、飛竜が一斉に炎を吐いた。正確には燃えさかる粘液の奔流だ。一発でも当たれば学院全体が炎に包まれるだろう。
ゼファーは空を見上げ、首を横に振る。
(どうにもならん)
幾条もの猛火は尖塔の遥か手前で幻のようにフッと消え去った。
さらに無数の炎が吐きかけられるが、いずれも途中で消えてしまう。
(どれほど熱量が高くとも、熱エネルギーや運動エネルギーではどうにもならん)
魔術学院の周囲には現在、ゼファーが防御用の術を展開している。空間を歪める防壁だ。例え飛竜が体当たりしてきても、飛竜の巨体が豆粒ほどに押し潰されてしまう。
(しかしこれだけ自然の摂理を乱されると、片付けにも工夫が必要だな……)
手間を考えながらゼファーは嘆息したが、ぼんやり見ている訳にもいかない。とりあえず一番楽な方法で処理することにした。
十万カイト以上の魔力を瞬時に生み出すと、『秘儀』のひとつを解放する。
「『ここ』とは『どこでもない』。では『どこでもない』のが『ここ』なのだろうか?」
詠唱が完了した瞬間、空を覆い尽くすほどに飛び回っていた黒い飛竜が忽然と消え失せた。
マルデガル魔術学院の上空が塵ひとつなく青く澄み渡り、いつもの静寂が戻ってくる。
上空は静かになったが中庭は大騒ぎだ。
『何が起きたんだ!?』
『竜が全部いなくなったぞ!』
『もしかしてこれが学院長の魔法なのか!?』
周囲の時間と空間を完全支配する秘儀、『刻の籠』。異世界へと渡るためには修めねばならない術だ。
そしてこの術を使えば、大抵のものは時間と空間を越えてどこかに飛ばしてしまえる。
あの飛竜たちは太陽の中心部に送り込まれた。彼ら自身の吐く炎よりも熱く、彼らの巨体よりも重圧の場所だ。
術者による探査や再召喚を防ぐため、時間座標は百年ほど未来に設定している。つまりこれから百年間は、消えた竜たちの居場所を突き止めることすらできない。
だがゼファーは深刻な表情をしている。
(いかん……公転周期の計算を間違えた。たかだか百年で0.002秒も誤差が出ているとは)
こんな精度では異世界への旅など望むべくもない。
真空すら存在しないという虚無の座標に飛び出して、それっきり帰ってこれなくなるだろう。
失望の深い溜息をついた後、ゼファーは気を取り直す。
(やはり生身の脳ひとつではどうにもならんな。使い魔の研究を再開すべきか)
ちょうどシュバルディンが使い魔の運用で実績を積んでいる。彼の使い魔のデータをもらえば、少しは研究が進むかもしれない。
ついさっき伝説の黒い災厄の群れを全滅させたことなど、ゼファーはもう意識の外だ。戦ったという認識すらない。
(まだ道半ばにも至っておらん。これでは先生に顔向けできんな)
――もう一度、恩師に会いたい。
それがゼファーたち三人の共通する願いだった。
八人の弟子のうち、異世界転移につながる研究をしていたのはゼファーとラルカンだけ。そしてラルカンが故人となっている現在、全てはゼファーの努力にかかっている。
(いつか星辰の海を渡る日のために、もっと学ばねば)
ゼファーは魔術書を開くとお気に入りの椅子に腰掛け、読書を再開する。
と、思っていたらマリアムから連絡が入ってきた。
『ゼファー、もしかして秘儀を使った?』
『片付けものがあってな。そちらはどうだ?』
『戦争中よ』
『そうか、では万事順調だな』
シュバルディンとマリアムのおかげで、今日も穏やかに研究に勤しむことができる。彼らの友情に感謝しながら、ゼファーは魔術書をまた一ページめくった。