第118話「それぞれの誤算」
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本陣の天幕でファルファリエが唇を噛む。
「まさかケズン卿が翻意しかけていたとは……」
俺は白湯を飲みながら苦笑した。
「彼は由緒正しい家柄の御曹司だからな。権力や財力は先代から継承したものだ。自分で権力を手に入れた者とは考え方が異なってくる」
ケズン卿はこれまでの人生で、奪い取る必要も、危険を冒す必要もなかった。仮にその必要があってもできなかっただろう。
彼の代になってから勢力を拡大していないことがそれを証明している。
「彼は現状維持の努力をして、信頼できる盟友や家臣の助言に耳を傾けていればいい。良く言えば人の意見を聞く人物であり、悪く言えば優柔不断だ」
だから彼は周囲に助言を求める。そして流されやすい彼は、論理的な判断よりも周囲の意見を気にする。典型的なお坊ちゃん育ちだ。これは歳を取ってもあまり変わらない。
カジャを監視につけておいたので今回の企ては事前に防げたが、あのままだとどうなっていたかわからない。
「ケズン卿の盟友たちもしっかり『説得』しておいたから、とりあえずもう馬鹿なことは考えないだろう。念のため監視はつけておいた」
ファルファリエはすっかり意気消沈している。
「すみません。交渉をうまく運んだつもりでしたが、最後の最後を読みきれませんでした」
「資料や教本に書かれていない部分についても少しだけ気を配るといい。後は経験だな」
「ジンは同年代なのに経験豊富ですね……」
同年代じゃないからな。騙してすまん。
俺は明るく笑ってみせる。
「とりあえずこれでケズン領を安全に進軍できる。敵の斥候に見つかる前に動こう」
「ええ、そうですね」
ファルファリエは顔を「ぱしん!」と叩くと、ぐっと拳を握りしめた。
「次はきっちり調略してみせます」
「その意気だ」
さて、これで帝国軍は困るだろうな。
* * *
【見えない軍勢】
「反乱軍がどこにもいないだと!?」
導師は腹立たしい思いで、報告書を引き裂く。
「ベオグランツ人は無能しかいないのか!? 相手は万を超す軍隊だぞ!?」
すると皇帝ギュイが導師の手から報告書をひったくった。
「やめろ、報告書を棄損するな! 見つからないというのも大事な情報だ! 今は索敵範囲を広げさせている!」
導師はこの生意気な皇帝を殺してやろうかと思ったが、さすがにそれは実行しなかった。ギュイまで殺すと帝国軍を自由に使えなくなる。
代わりに猜疑心に満ちた目でギュイを睨む。
「本当に敵を探しているのだろうな?」
「無論だ」
ギュイはまだ怒っている様子だ。
「貴様が私の顧問たちを皆殺しにしたせいだ。有能な将軍たちが全員いなくなったので、今はその下の参謀たちに指揮を執らせている。だが参謀たちには軍全体を俯瞰する能力が足りんのだ」
だが導師は納得しなかった。
「私が殺した将軍はほんの数人だ。帝国軍にはまだまだ将軍がいるのは知っているぞ?」
「ああそうとも、名誉職的なお飾りの将軍ならまだいる。だが彼らには実務能力はない」
ギュイは一歩も退かず、さらにこう言う。
「いいか、よく聞け。本当に戦争ができる将軍は一握りしかいない。厳しい教育を受けた経験豊富な将校たちでさえ、参謀や連隊長が務まる者は一割もおらんのだ。さらにそのうちのほんの少数が軍全体を統括する将軍になれる」
(たかが鉛玉と銃剣で戦うだけで、何を大袈裟な)
魔術に比べれば戦争の技術など児戯のようなものだと、導師は本気で思っている。
だが皇帝は止まらない。
「将軍は国内外の情勢に詳しく、古今の戦略に通じ、統率力と人望がなければならん。駐留先の領主の協力を得るには政治力や交渉力も必要だ。決断力と意志の強さも……」
とうとう導師は手を振ってギュイを追い払う。
「わかったからもう黙れ。要するに今、帝国軍にはまともな統率者がいないということだな?」
「お前が殺したからだぞ」
ギュイは腕組みして不機嫌そうに説明する。
「予想していた地点にサフィーデ軍は現れなかった。居場所を見失って既に三日経つ。撤退したのでなければ、今も帝国のどこかを進軍中のはずだ」
「どこかでは困るのだ。今こそ三賢者に正義の鉄槌をくださねばならん。だがゼファー以外の二人の所在がわからぬ。あの生意気な小僧のことも気がかりだ」
導師はなかば独り言のようにつぶやく。
「いや待て、シュバルディンは前線に出るタイプだ。おそらく反乱軍と共にいる。ただちに反乱軍の場所を突き止めろ」
導師の言葉にギュイは首を横に振った。
「すでに調べさせているが、反乱軍の居場所はさっぱりわからん。帝国軍が布陣していない場所でも地元の領主たちがいる。彼らには十分な兵がいないから、異国の軍勢を見れば即座に救援を求めてくる。だがそういった通報は一件もない」
「では寝返った領主がいると見るのが自然だな?」
「ファルファリエ皇女にそんな政治力はあるまい。彼女は長い間、帝室の補佐役に徹していたので自身の支持基盤が弱い。しかも彼女の地盤は遠く離れた南東部だ」
「ふん」
ちょうどそのとき、使い魔に詠唱させていた『読心』の術が完成した。さっそく使ってみると、ギュイの心の声が聞こえてきた。
『もしサフィーデ軍が北西部のベリエ地方を秘密裏に進軍しているのなら、帝国軍の警戒網には引っかかるまい』
(ベリエ地方とな)
地図に目を向けると、サフィーデとの国境に位置する山岳地帯だ。ベリエ地方の帝国軍は援軍のために南下しており、ベリエ地方は帝国軍の空白地帯になっている。
(小癪な真似を)
読心を続けると、ギュイの思考がさらに流れ込んでくる。
『だがその場合、ファルファリエは有力領主を抱え込んでいることになる。それも近隣の領主にまで箝口令を敷けるような門閥の盟主だ。いったいどの家だ? ビュレー家か? マルゴット家か?』
(こいつ自身もわかってはいないのか)
ギュイを締め上げれば反乱軍の居場所がわかるかと思ったが、どうやらそれは無駄なようだ。導師は急速にギュイから興味を失い、使い魔に命じた。
『もういい。処理能力を探査に振り分けろ』
使い魔を飛ばして捜索させようにも帝国領は広すぎる。だが北西部のベリエ地方に絞り込めば、比較的短時間で探査を完了させられるだろう。
しかし別の問題があった。使い魔は魔術師を天敵としている。
使い魔がシュバルディンを発見すれば、同時にシュバルディンからも発見されるだろう。そして発見されれば、容赦なく破壊される。
(使い魔の補充には生者の脳を大量に必要とするが、素材の知的水準や思考形態に大きく影響されるようだ。皇帝の顧問団と同等の頭脳となると、掻き集めるのも一苦労だな)
無生物から使い魔を生み出す技術もあるが、複雑すぎて導師の手には負えない。何より時間がかかりすぎる。
(仕方ない、ベオグランツ人どもに捜索させるか)
「皇帝よ、ベリエ地方に斥候を送れ」
「何?」
ギュイがぎょっとした顔をしたので、導師は薄く笑う。
「ベリエ地方だ。急いだ方がいいぞ?」
(私は何もかもお見通しだからな)
今はもうギュイの心を読めないが、読むまでもないだろう。
(どうせ何もできん小心者の愚物だ。帝国軍の手綱を握らせておけばよい。全ての状況を私が支配していることに変わりはない。勝利は目前だ)
導師は使い魔に転移術を組み立てさせながら、しばし考える。
(ここから先は詰めを誤らねば勝てる。警戒すべき三賢者はシュバルディン一人だ。だが一人で二ヶ所を守ることはできぬ)
転移術を使えばある程度はどうにかなるが、転移術は複雑でそうそう都合良くは使えない。
(転移術を封じつつ二ヶ所同時に攻撃を仕掛ければ、シュバルディンはどちらかを見捨てねばならぬ。それはあの男にとって耐えがたい苦痛であろうな。さあ、どうする?)
術の完成と共に転移術を起動させ、導師は声を上げて笑った。
* * *
「はははははは!」
耳障りな笑い声だけが残る部屋で、ギュイは一人で拳を震わせる。
「こうなったら……」
ギュイは机に駆け寄ると、猛烈な勢いでペンを走らせ始めた。
* * *