第105話「白猫の落日」
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ファルファリエの腕の中で、ジロ・カジャは申し訳なさそうに身を縮めている。
「すみません。マスターに救援を要請しようとしたとき、どういう訳か凄くイヤーな違和感を覚えたんです。言語化できなかったんで黙ってました。ごめんなさい!」
「勘、ということですか」
虫の知らせというのは案外侮れないが、使い魔にもそれは適用されるのだろうか。
そう思っていると、ジロ・カジャはこう言った。
「使い魔って純粋な論理で動くんですよ。勘に頼ることはないですし、そういうのを理由にして命令を無視していいはずはないんですけど……」
「でも、どうしてもできなかった。そうですね?」
「あ、はい。それでですね、理由をずっと考えていました」
白猫の使い魔は、ファルファリエの腕からスルリと抜け出して肩に乗る。
「詳細は明かせませんが、ベオグランツ陣営にも高位の魔術師が存在することがわかっています。そいつはファルファリエ様とも敵対しているようです」
「そんな人物が……」
にわかには信じがたいが、ここは信じることにして話の続きを促す。
「その人物がこの状況と関係があるのですか?」
「たぶん……。高位の魔術師なら念話の妨害や傍受が可能です。最悪、こちらの居場所がバレちゃいます。バレたら私の機能では逃げ切れませんし、戦うこともできないです。無意識のうちにそのリスクを考慮したのかな、って」
ファルファリエは少し考えて、こう言った。
「もしかしてサフィーデは、戦場でそれを意図していませんか?」
「えっ?」
「サフィーデがわざわざ私に念話を教えたのは、帝国軍に不完全な念話技術を導入させるつもりだったのではありませんか?」
「ええっ?」
「念話の妨害や傍受が可能なのでしょう? でしたら帝国軍の行動を好きなように操れますよね?」
ギクシャク動きながら乾いた声で笑うジロ・カジャ。
「あは、あはははは。やっば、どうしよう。使い魔って基本的に嘘がつけないんです」
ファルファリエは苦笑するしかない。
「まあいいです。それよりも今は時間稼ぎを考えましょう」
ジロ・カジャには正確な時計が内蔵されているそうで、日没までの時間もわかっている。この薄暗い森に潜んで日没まで逃げ切れば、定時連絡が途絶えたことを不審に思ったジンが救援に来てくれるだろう。
「わかる範囲でいいので、周囲の状況を教えてください」
「はぁい」
ジロ・カジャは木に登り、高い枝から周囲を見回した。
「あちこちに農民や帝国兵っぽい小集団が見えますねー。いずれも距離は五十アロン以上離れてますけど、全方位に観測されます。ヤバいかも」
「山狩りですね。私のいない場所を潰していって、いる場所を絞り込むつもりでしょう」
捜索を外側に広げるのではなく、内側に絞り込みにきている。ファルファリエは城館裏の森に逃げ込むしか選択肢がなかったが、それは敵も見抜いているようだ。
「包囲はあとどれぐらいで、ここに達しますか」
「たぶんですけど、早ければ昼過ぎには……」
申し訳なさそうに首を縮めるジロ・カジャ。
ファルファリエは騎兵銃を握りしめながら、しばらく考える。
逃げたことを後悔するつもりはない。逃げていなければとっくに捕まっている。
だがこれから捕まるのも時間の問題だ。
「この付近に、日没まで隠れられそうな場所はありますか?」
「ありますけど、魔法で探されたら一発でバレます」
「万策尽きましたね」
ファルファリエは騎兵銃をじっと見つめる。これで自害すれば、あまり苦しまずに逝けるだろう。
するとジロ・カジャが何かを決心したように口を開いた。
「あの、提案があります。言ってもいいですか?」
「ええ」
ファルファリエは白猫を撫でた。
* * *
【狂犬と白猫】
(愚かな小娘め。我が術の前には丸見えだ)
導師はニヤリと笑う。
領主から拝借した地図の上に、赤いバツ印が点々と記されている。何者かが探知魔法を使った地点だ。
バツ印は森を北上し、北西にある街道へと向かっていた。街道を北西に進めばサフィーデとの国境地帯に近づく。
「あの、導師殿。本当にこれでよろしいのでしょうな?」
リーバイン卿が不安そうにしている。彼は導師の命令で領民たちを集め、大規模な山狩りを実施していた。
「敵国と内通している嫌疑があるとはいえ、皇女殿下を山狩りなど……」
不安そうな田舎領主に、導師は薄い微笑みを浮かべる。
「心配いりません。山狩りで捕らえられるようなファルファリエ殿下ではありませんよ」
事実、バツ印は山狩りの包囲網をすり抜けている。
どんな方法を使って切り抜けたのかはわからないが、農民相手なら銀貨一枚もちらつかせれば買収できるだろう。やりようはいくらでもあった。
だから導師も山狩りには最初から期待していない。
「大事なのは皇女を窮地に追い込むことだ。そうすれば必ず魔法を使う。魔法を使えば痕跡が残る」
山狩りの包囲網を突破する直前には、バツ印の間隔が短くなっている。そして包囲網を突破した後は、バツ印の間隔が急激に減っていた。
(このままだと逃げられるな……)
窮地を脱すれば魔法を使う理由がなくなる。そうなれば追跡は面倒だ。
「であれば、こいつは用済みだな」
導師はリーバイン卿を振り返ると、事前詠唱していた呪文をひとつ解放した。
「ぐっ!?」
リーバイン卿が胸を押さえてうずくまる。顔色が真っ青だ。
「む、胸が……!」
ちょっとした魔法で一時的に不整脈を起こしたのだ。運が悪ければ後遺症が残るが、運が良ければそのまま死ねるだろう。
「皆の者、リーバイン卿が心労で倒れられた。すぐ医者を呼んでくれ」
リーバイン家の従者たちが慌てて駆け寄り、辺りはちょっとした騒ぎになる。導師はその隙に飛行術を使い、森の上へと飛び出した。ゾンビ化した近衛兵四人は徒歩で移動を開始させる。
(皇女は今頃、包囲網を脱出できたことで安心しているはず。疲労も限界のはずだ。どこかで休息を取るだろう。探知魔法で安全を確認した直後にな)
導師の読み通り、直後に魔力波を観測する。場所は街道筋の宿だ。時刻はちょうど夕刻。日没が近い。
(逃避行でも野宿はできぬか。何とも呑気な姫君だ)
窓から宿の客室に侵入し、導師は勝利を確信する。
だが妙だった。
「……おらんぞ?」
そのとき導師はハッと気づく。
「囮か!?」
とっさに探知魔法を使うと、頭上に強い魔力の反応があった。
「そこにいるのはわかっている! 降りてこい!」
客室の梁から白猫がストンと降りてきた。
「あっ、ヤバい!?」
「使い魔か」
しゃべる白猫の正体が使い魔であることを、導師は一瞬で見抜いた。魔力が高すぎる上に魔力の分布が均一で魔法生物っぽい。
どうやらこの白猫、わざと探知魔法を使って導師をここまでおびき寄せたらしい。
「皇女はどこだ?」
白猫は逃げようとしていたが、使い魔の動きを封じるぐらい高位の魔術師には造作もない。使い魔は魔術師に反逆できないよう、魔法に対して意図的に弱く作られている。
導師が放った「魔力消沈」の術で、白猫の使い魔は完全な魔力欠乏に陥った。もはや魔法的な行動は何ひとつ取れないだろう。
だが白猫はじたばたもがきながらも、こう叫ぶ。
「皇女ならまだ城館にいますよーだ!」
「なにっ!? いや、それは嘘だな?」
使い魔が嘘をついたことに心底驚いた導師だが、今はそれどころではない。
「助けは来ないぞ。この一帯の念話は妨害している。おとなしく降伏せねば、お前を解体するだけだ」
「どーぞどーぞ。どうせ使い魔ですから」
フフンと鼻で笑う白猫。
(どうも使い魔らしからぬが、こいつが皇女を逃がそうとしているのは明白だ。ならばこの会話も時間稼ぎか。だが皇女はどこだ?)
普通に考えれば山狩りの包囲網の中だろうが、それならば時間稼ぎをしてもいずれ捕まってしまう。
「皇女をどこにやった?」
「さーねー。忘れちゃいましたねー。ああそうそう、食べちゃったかもしれませんよ、私は凶暴ですから」
懸命に這いずりながら、憎まれ口を叩く白猫。
「敗北を認め、我が支配下に下るのなら分解せずに置いてやってもいいのだぞ?」
「敗北ぅ? あはっ、あはははははっ!」
じたばたもがきながらも、白猫の使い魔は嘲るように笑う。
「何がおかしい」
「私は敗北なんかしてませーんっ! ていうかむしろ大勝利ですよっ! 大っ! 勝っ!……」
「黙れ」
使い魔は肉体を持たないが、それゆえに魔法で分解するのは容易だ。導師が呪文を唱えると、白猫はもがき苦しみ始めた。
「うっ、うあああぁっ!? あぎいいぃっ! しっ、しんじゃう……!」
(使い魔が死ぬものか。壊れるだけだろうに)
白猫は青白い炎に包まれながらのたうち回り、みるみるうちにボロボロと崩れ去った。
「ああ……あとは、お願……マス……タ……」
対象が完全に無力化されたのを確認し、導師は窓の外を見る。
(日没か。夜陰に紛れるつもりだろうが、無駄なあがきだ)
今頃、森の中は真っ暗だろう。山狩りも終了しているはずだ。
だが導師の魔法があれば、暗闇でも人間を見つけ出すぐらいは造作もない。皇女の始末はすぐに済むはずだ。
(だが何だ、この妙な胸騒ぎは?)
使い魔の残滓が光の粒子となって舞うのを見下ろしながら、導師は不安な気持ちを隠しきれずにいた。