第103話「皇女と白猫」
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ファルファリエは驚いたが、自分の膝に乗っかっているのは白い猫だった。
そして重さを全く感じない。温もりも触れている感じも全くなかった。まるで幻のようだ。
そもそも普通の白猫はしゃべらない。
だとすればこの猫は魔法的な存在なのだろう。そうでなければとうとう幻覚が見えるようになったことになる。
「あなたは何者ですか?」
すると白猫は妙に明るく弾んだ口調でこう続ける。
「順番が前後しましたが、謹んで御挨拶いたします、ファルファリエ様! 私は賢者シュバルディンの使い魔、ジロ・カジャと申しまーす!」
尻尾をふりふりしながら、実に楽しそうに自己紹介する白猫。
「我が主よりファルファリエ様をお助けせよとの命を受けて、お側に仕えておりました!」
「シュバルディン教官長から、ですか?」
「あ、いや、スバル・ジンの意向とお伝えした方が、理解としては正しいかもしれませんね……。まあいいじゃないですか、そこらへんは」
妙に口ごもる白猫。
理由はわからないが、この不思議な白猫はスバル・ジンがよこした存在のようだ。それが本当なら信頼できるだろう。
彼は敵味方の立場を超えて、ファルファリエを一人の人間として尊重している節がある。やや理解しがたい思考だが、とにかく彼は信頼できる。
「今まで姿を隠していたのですか?」
「あ、はい」
「今頃になって声をかけてきたのは、外で起きている事態と関係ありますか?」
さっきまで部屋の外にいたはずの侍女たちがいないようだが、ドアを開けるのは危険と判断し、ファルファリエは確認していない。
案の定、ジロ・カジャと名乗る白猫は首を横に振った。
「はい、緊急事態だからお声がけしたんですよ! この建物から人がほとんどいなくなっています!」
「私の護衛をしてきた帝室の近衛たちはいますか?」
「いえ、見当たりませんね……なんででしょうね」
(それが本当なら、帝室内部にまで影響力を持つ何者かが私を狙っていることになる。つまり私は独力で活路を拓かなければならない)
考えられる最大の敵は従兄のギュイだ。噂では皇帝に即位することが内定しているとか、既に即位したとかいう話だった。
(しかしギュイ殿が私を殺すつもりなら、こんな帝室派貴族の本宅で事を起こす必要はないはず。何かがおかしい。いや、今は逃げるのが先決だ)
ファルファリエは気持ちを切り替える。
(味方は……このジロ・カジャという猫だけか)
ファルファリエはジロ・カジャを信用することにした。もしこの白猫が敵だとしたら、どのみち自分は助からないだろう。
「では私がどうすべきか提案してください」
「えっ、提案ですか? え、えーと……」
提案を求められることに慣れていないのか、ジロ・カジャは一瞬悩むそぶりを見せる。
だがすぐにこう答えた。
「私はシュバルディン様の使い魔ですので、御提案はひとつです! ファルファリエ様がお望みでしたら、すぐに我が主に救援を求めますよ!」
「わかりました。では救援をお願いします」
もしこの救援要請が単なる勘違いだったとしても、シュバルディン教官長やジンはファルファリエを咎めたりはしないだろう。その点は疑う余地がなかった。
「救援はどれぐらいで来ますか?」
「救援要請が届けばすぐに来てくださると思いますが、要請が届かなかったとしても今日の日没までには来てくれるはずです!」
「どうして?」
するとジロ・カジャが気まずそうにもじもじする。
「えーと……定時連絡が途絶えたら救援に駆けつけてくださるとのことでしたから」
「定時連絡ですか」
「あ、はい……」
どうやらファルファリエはずっと、魔術学院によって追跡されていたようだ。彼女の安全確保が目的だろうが、半分ぐらいは諜報目的だったに違いない。
「まあいいでしょう。結果的に救われるのでしたら何も申しませんよ」
「はー……よかったです。で、これからどうなさいますか?」
「少々危険を伴いますが、日没まで時間を稼ぎましょう」
監視下にある身で逃走するのは、それ自体が大きな危険を意味する。
だがファルファリエは逃走が最も確実な生存手段だと判断した。
「私がどこにいても救援は来ますか?」
「はい、マスターならファルファリエ様がどこに隠れていても駆けつけますから!」
ますます学院に追跡されていた疑惑が深まった。
しかしそれで助かるのなら文句は言えない。
ファルファリエは考えを巡らせる。
(想定される最大の脅威は、領主や帝国の軍勢。でも帝国軍の動き方なら熟知している。それに野外での隠密行動ならマルデガル魔術学院で鍛えられた)
斥候と共に進軍する可能性があるので、学院の見習い魔術師たちは斥候の基礎的な技術を学ぶ。ファルファリエもそうだった。
「この屋敷は警備しやすいように外部との連絡経路が限られています。しかし監禁にも向いており、包囲されたら逃げられません。急ぎましょう」
スカートを脱ぎ捨てて狩猟用の乗馬服に着替えると、ファルファリエは私物の小箱を開いた。
大粒の宝石が連なった首飾りを取り出して首にかけ、肌着の内側に隠す。いざとなったら宝石を一粒ずつ外し、換金や賄賂に使う。
貴人が宝飾品を所持するのは、こういうときのためでもある。
(軍隊と戦っても勝ち目はないけど、獣や追い剥ぎの用心は必要か)
壁に掛かっている猟銃を見て、銃身の短い騎兵銃を選ぶ。きちんと手入れされており、使用には問題なさそうだ。
ジロ・カジャが何かに気づいたように言う。
「あ、それって燧発銃ですね」
「ええ、これなら火種を持ち歩く必要はありませんから。付属の火打石も品質が良さそうです。これはサフィーデからの輸入品ですね?」
「そうみたいです。組成がそっくりですから」
「では安心です。帝国産の火打石には命を預けられません」
ファルファリエは微笑みながら、置いてあった紙薬莢を腰のポーチに全て突っ込む。ついでに銃剣を腰に差す。
それから机上の白磁の砂糖壺を非常食兼換金用として絹のハンカチで包むと、ファルファリエはドアノブをそっと握ってみた。
「開きませんね」
どうやら外側から施錠されているようで動かない。
「窓から逃げるしかなさそうです」
「でも格子がはまってますよ?」
ジロ・カジャが不思議そうに言うが、ファルファリエは椅子をつかんで振り上げた。
次の瞬間、窓ガラスが粉々に砕け散る。
「なな、何やってるんですか!?」
「窓ガラスを割りました」
「それはわかりますけど!」
ファルファリエは騎兵銃を構える。
「そしてこれから試射をします」
「どういうことですか!?」
ファルファリエは剥き出しになった格子戸の金具を狙って発砲した。
至近距離から鉛玉の直撃を受け、格子戸の端が吹き飛ぶ。
「はっ!」
ファルファリエはブーツで格子を蹴り破る。華奢な飾り格子が折れ曲がり、人がくぐれる程度の隙間ができた。
「うわー……」
茫然としているジロ・カジャ。
騎兵銃の装弾を手早く終えると、ファルファリエは白猫にニコッと笑いかける。
「行きましょう」
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