第102話「牙を剥いた狂犬」
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【牙を剥いた狂犬】
(思ったよりもギュイは扱いづらいな。野心家の癖に半端に聡明で半端に善良なのが始末に負えん。肝心なところで良心の歯止めがかかる)
導師はそう考えながら、宮殿の廊下を静かに歩いていく。
(おかげでこのざまだ)
導師が歩みを止めると、廊下の突き当たりから完全武装の兵士が二人現れた。
背後を振り返ると、そこにも二人。挟み撃ちだ。
「神学生サーリヤ。いや、『導師』と呼ぶ方が良いかな」
兵士たちの背後から現れたのは、痩せ衰えた先帝グスコフ二世だった。
導師はフッと笑い、恭しく一礼してみせる。
「これは先帝陛下。御機嫌麗しゅう」
「麗しくはないな。だが気にせずとも良いぞ」
グスコフ二世は穏やかにうなずくと、こう続ける。
「お前を帝室に対する反逆罪の嫌疑で拘束する。命までは奪わぬと約束しよう。だからおとなしく縛につけ」
「お断りいたします」
拘束されるぐらいなら殺された方がマシだ。転生すればまた自由に動ける。
だが赤子に転生してしまうと最低でも数年は身動きが取れなくなる。この重要な局面では拘束も殺害も回避しなければならない。
グスコフ二世は重ねて言う。
「まだ若いのに命を捨てるような真似はいかんぞ。従わねばここで死ぬことになる」
とんだ茶番だ。導師はククッと笑う。
「できますかな?」
するとグスコフ二世は兵士たちに命じた。
「構わん、殺せ」
その瞬間、稲妻のように四人の兵士が動いた。巧みな連携と鋭い踏み込みで構えた短槍を繰り出す。
宮殿の廊下に血が滴った。
「ぐうぅっ!?」
呻いたのは導師ではない。導師は最初に立ち止まったときから一歩も動いていなかった。
崩れ落ちたのは四人の兵士だ。
彼らは互いを槍で貫き、致命傷を負っていた。
導師が使ったのは対象の認識を撹乱する術だ。兵士たちは導師のいる位置を見間違え、同士討ちであっけなく死んだ。
どんな練達の戦士であろうとも、敵の居場所を正しく認識できないのでは戦いようがない。
動かなくなった四人の兵士を無感情に見下ろして、導師はグスコフ二世に問う。
「用件は終わりですか?」
「いいや、まだだ」
グスコフ二世は腰の剣を抜いた。装飾のない無骨な戦場剣だ。
導師は苦笑する。
「四人の精鋭兵にできないことを、病身の陛下ができますかな?」
「できるかできないかは問題ではない。帝室の意志はお前を殺すと決めた。万物の理においてお前は」
会話の途中で先帝はいきなり跳躍した。病身とは思えない跳躍力に、導師も一瞬驚く。
「なにっ!?」
グスコフ二世は壁を蹴り、導師の真上から猛烈な勢いで斬りかかる。
「死ぬのだ!」
(ちぃっ!)
今度の敵は一人。認識を撹乱しても同士討ちさせる相手がいない。
おまけにグスコフ二世の太刀筋は廊下を斜めに薙ぎ払っており、導師がどこに立っていようが傷を負わせることができる。
(こいつ、あの一瞬で私の術を看破したのか!)
導師は即座に次の切り札を行使する。護身用の術はこれだけではない。常にいくつか用意している。
「ギオーム!」
呪文の単語ひとつで術が発動し、周囲に力場が発生する。軍馬の突進でも難なく弾き返す、強力な魔法の力場だ。
さすがにこれには先帝も太刀打ちできなかった。
肉厚の戦場剣が大きく欠け、先帝は廊下に倒れる。
「ぐっ……きょ、狂犬め……」
導師は兵士の死体から短剣を抜くと、先帝に歩み寄る。
「まったく忌々しい一族だ。大して役にも立たんのに地上の覇者のような顔をする」
吐き捨てるように言うと、導師は呪文を唱える。
「アガシュ・ブルム・ボドー・イル・ラシオ・グベン……」
呪文の詠唱開始と同時に、起き上がろうとしていたグスコフ二世が不意に悶絶する。
「うっ、うおおっ!? 貴様っ、何をしている!」
「ピペル・ラーガ・ジジュー・デルガ」
詠唱が完了した瞬間、グスコフ二世の顔色が真っ青になった。
「あ……が……」
ぴくぴくと痙攣した後、グスコフ二世はゆっくりと立ち上がる。目は虚ろで何も見てはいない。皇帝の精神を破壊し、身体制御の全てを掌握したのだ。
導師は面倒くさそうに手を振ってそれを追い払った。
「行け」
「は……い」
のたりのたりと廊下の向こうに姿を消すグスコフ二世。
それを見送って導師は溜息をついた。
(あの状態では長くはもたんし、帝室を利用するのはそろそろ限界か)
導師は懐から布を巻いた束を取り出す。広げると魔法陣が描かれていた。転移術の魔術紋だ。
「さて、お前たちにも役に立ってもらうぞ」
導師がそう言うと、倒れていた兵士たちがゆっくり起き上がる。喉元や胸元に槍の穂先が突き刺さったままで、制服は血に染まっている。だが彼らがそれを気にする様子はない。
「ついてこい」
導師は転移の魔術紋を指差すと、ゾンビ化した近衛兵たちを率いて魔法陣の中に足を踏み入れた。
* * *
【尖塔の皇女】
その頃、ファルファリエは街道沿いにある貴族の城館にいた。
ここはベオグランツ北西部に領地を持つ、とある貴族の本宅だ。この貴族は熱心な帝室信奉者であり、帰国したファルファリエ皇女を歓待してくれていた。
勅命で隣国に潜入していた手前、寄り道せずに帝都に帰還するのが筋ではあったが、帝室派貴族の招きを断る訳にもいかない。これも公務の一環だ。
晩餐の後、客室に通されたファルファリエはノートを開く。
(呪文は合っているはずだし、詠唱も間違えていなかった。でも『念話』が成功したのかどうか、わからない……)
ファルファリエは大事なことを忘れていた。「念話」は一人では練習できないのだ。
(おーい、誰か聞こえていますかー?)
心の中で叫んでみるが、もちろん返事はない。ベオグランツ帝国には「念話」の使い手はいないはずだ。
「はあ……」
ベッドに身を投げ出し、窓の外を眺めるファルファリエ。虚しい練習だと思うが、他にすることが何もない。
(叔父上にお会いして、いろいろお話をしなくては)
サフィーデ国内の情報、特にマルデガル魔術学院の情報は貴重だ。今後の外交や軍事の指針となるだろう。
そして何よりも、サフィーデとの戦争再開だけは食い止めねばならない。
(そういえば……)
ファルファリエは思う。
(もし念話が使えるようになれば、スバル殿を叔父上に紹介することもできるかもしれない)
情報収集の結果、念話の通信距離は百アロンそこらだと判明している。どうも地平線の向こうには飛ばせないらしい。
ただし、高位の術者になれば魔力波を反射させてさらに距離を伸ばせると聞いている。
(スバル殿は高位の術者よね?)
見た目は同い年ぐらいだが、実年齢は明らかに違う。彼はおそらく三賢者の直弟子クラスで、相当な年月を生きているはずだ。
(でも私はサフィーデまで念話を飛ばすことはできそうにもないから、できたとしてもスバル殿の念話を受信するぐら……ああっ!?)
がばっと起き上がるファルファリエ。
「そうです! 受信です!」
思わず声が出てしまい、間髪入れず室外から侍女の声がする。
「殿下?」
「ああいえ、何でもありません。勉強していて、気づきを得ただけですので」
慌ててドアに向かって返事する。外にいる侍女たちはファルファリエの家臣ではない。帝室の威信を低下させるような言動はできなかった。
ファルファリエは枕を抱いてフフッと笑う。
(送信が練習できないのなら、受信を練習すればいい!)
ファルファリエはどういう訳か、念話の素質が全くなかった。数学も物理学も学年ではトップクラスなのに、それを応用した魔術が使えない。
『これだけ術理に通じておられれば、使えぬはずはないのだが……』
学院長である大賢者ゼファーも不思議がっていた。
一方、スバル・ジンはこう言う。
『魔力は息や血のように体の中を流れている。だから体の使い方や意識の向け方ひとつで威力が大きく変わる。剣術などと同じだ』
(だとしたら、意識の向け方に問題があるのか……)
考えても結論は出ない。相談すべき師や学友がいないというのがこれほど心細いことなのかと、ファルファリエは改めて孤独を噛みしめていた。
(帰りたい……)
故郷ではなく、学院に。
そう思ったとき、ファルファリエはふと妙な胸騒ぎを覚える。
人の気配がしない。
「誰かいませんか?」
上半身を起こしてドアの向こうにいるはずの侍女たちに声をかけたが、返事がなかった。
(これは……!?)
ファルファリエが警戒したそのとき、膝の上あたりから可愛らしい声がする。
「はいはいっ、お呼びですか?」