第100話「別離の皇女」
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結局、ファルファリエ皇女は二年生に進級する前に帰国することになってしまった。
ただしゼファー学院長の計らいもあり、退学ではなく休学ということで話がついた。学籍は残り、復学して進級試験に合格すればすぐに二年生になれる。
「まだ念話もマスターしていないのに帰国とはな」
スピネドールが腕組みして渋い顔をしている。気分がすぐ顔に出る少年だが、どうやらファルファリエと離れたくないらしい。
「いいか、帝国でも自習するんだぞ。念話ができないと進級できないからな」
「そうします」
スピネドールの中ではファルファリエ皇女が復学するという前提らしい。強引な男だ。
とはいえ、復学を待ち望んでいるのは俺も同じだ。そしてもちろん、トッシュたちも全員同じ気持ちだった。
『確かに念話ぐらいは覚えて帰国して欲しかったな。学院の指導力を疑われてしまう』
俺が念話でそうつぶやくと、マリエが応じる。
『でも彼女に念話を習得されると、帝国軍が念話を使うようになるかもしれないわ』
『その方が好都合なんだよ。技術レベルに圧倒的な差があるから、こちらは傍受も妨害も思うがままだ』
もちろん技術の差は徐々に縮まっていくだろうが、その前に戦争を終わらせてしまう算段だ。
もっとも、どう終わらせるかが非常に難しいのだが……。
『それとファルファリエが念話を使えるようになれば、帰国後も連絡が取れる』
『そんなに寂しいの?』
なんでそうなるんだ。
『そうじゃない。帰国した彼女が安全かどうかまだわからん。皇帝の命で学院に乗り込んできた皇女が、理由も告げずに急に帰国だ。政変の可能性は捨てきれない』
『それはそうね。だったらジロ・カジャをつけておけばいいんじゃない?』
帝国側に高位の魔術師がいるのはほぼ確実だから、使い魔を送りたくはないんだけどなあ。破壊や無力化ならまだいいが、乗っ取られたときが面倒だ。
とはいえ、ファルファリエ皇女をこのまま帰国させるのも心配だ。
『安全のために「書庫」へのアクセスは閉じて、スタンドアローンで運用するか』
『主の設定はどうするの? 使い魔は使い手がいるから使い魔なのよ?』
細かいことまでうるさいな、この優等生は。
『管理権限は俺が保持する。その上でジロ・カジャのユーザーを一時的にファルファリエにしよう』
『そんな運用して大丈夫? アーティルの一元則に反するわよ?』
ああ、あいつが生きてたら絶対にカンカンに怒っただろうな……。許してくれ兄弟子。
俺は内心で溜息をつきつつ、ジロ・カジャを呼び出す。
『ジロ・カジャよ、新しい命令だ』
『はいはいっ! なんなりとっ!』
しゅばっと現れた白猫の使い魔に、俺は慎重にコマンドを与える。
『これよりお前の「書庫」へのアクセス権を抹消する。今後は新しい命令を出すまで、独立行動でファルファリエの全行動を補佐しろ。もちろん禁止事項は守れよ』
『ええっと……はい! じゃあ認識されないよう姿を隠した上で、ファルファリエ様を護衛するという認識でよろしいですか?』
さっそく敬称をつけているな。使い魔だけあって、迂闊に見えても隙はない。
『そうだ。緊急時はファルファリエとの接触を許可する』
融通を利かせすぎるジロ・カジャをスタンドアローンで動かすのは正直不安だった。
とはいえ、慎重なタロ・カジャでは成果を期待できない。いちいち俺の許可を取ろうとするから緊急時には間に合わないだろう。
護衛用の使い魔でも作っておけば良かったと後悔していると、ファルファリエ皇女がこちらに歩いてくる。
『ジロ・カジャ、後はうまくやれ』
『はぁい、おまかせくださいっ!』
ジロ・カジャは姿を隠したまま、ファルファリエ皇女の肩にストンと飛び乗った。質量はほとんどないので気づかれることはない。
ファルファリエ皇女が首を傾げる。
「どうかしましたか、スバル殿?」
「いや、ファルファリエ殿との別れが惜しまれてな。学院長も残念がっておられた」
「ええ。私も本当は……いえ」
首を横に振り、ファルファリエ皇女は微笑む。
「結局、最後まで警戒されたままでしたね」
そうかな? いや、情報漏洩には気をつけていたから警戒感が出ていたかもしれない。
「次に会うことがあれば、ジン殿とお呼びしてもよろしいですか?」
「会うことがあればな」
学友の要望を断るのも気が引け、俺は不承不承うなずいた。
* * *
【別離の皇女】
山の上にそびえる城、マルデガル魔術学院の学舎が次第に遠くなる。街道を行く馬車の窓からはまだ見えているが、もう声は届かないだろう。
(魔法ならまだ届くのだろうか)
ファルファリエはふと、そんなことを考える。
サフィーデの魔術師たちが使う『念話』の術は、数十アロン先でも届くという。だったらまだ通話圏内だ。
(あの術を覚えておけば、こんなに寂しい気持ちにはならなかったかもしれない)
魔術に対しては強い警戒心があった。心の声を聞く魔法なら、自分の考えを盗み聞きされてしまうかもしれない。それは帝国とファルファリエ自身を危険に晒す。
そんな警戒感があり、魔術の修業には本腰を入れなかった。
しかし今、車窓を見つめるファルファリエの胸中には後悔が渦巻いている。
(今からでも習得できるだろうか? いえ、それはきっと難しい……)
独学で習得できるのなら、あんな立派な学校を建てる必要はないはずだ。そう思うと少し悲しくなってくる。
そのときふと、窓の外に大きな木が見えた。横に張り出した大枝の上に何か白いものがいる。奇麗な毛並みの白猫だ。
白猫は枝の上をうろうろしているが、どうやら降りられないらしい。
(助けてあげられないだろうか? でも馬車は止められないし)
この馬車には警備のサフィーデ騎兵が随伴しているが、ファルファリエ皇女の馬車は規定の休憩地点でしか停車を許されていない。襲撃を警戒してのことだという。
大木が近づき、そして大木の真下を通る。
白猫は馬車の中にいるファルファリエ皇女を見つけ、助けを求めるように鳴いた。
(ごめんなさい、私には助けられないから)
馬車が通り過ぎたとき、白猫は意を決したようにジャンプする。
「あっ!?」
ファルファリエ皇女が叫んだときには、白猫の姿は草むらの中に見えなくなっていた。
(どこ? どこ? 大丈夫なの? 怪我はしていない?)
すると草むらから、ぴょこりと白猫が顔を出す。どうやら無事なようだ。馬車を見て小さく鳴いた後、白猫はどこかに走り去ってしまう。
(よかった……。それにしても無茶なことを)
ほっとすると同時に苦笑したファルファリエだったが、不意に真顔になる。
(でも、あの白猫が勇気を出していなければ、今でも枝の上で途方に暮れていたはず)
確かに危険ではあったが、あの状況で助けは来ない。だとすれば飛ぶしかない。
そしてあの白猫は賭けに勝った。
それに比べたら、魔術の勉強はどうだろうか。念話を覚えられなくても危険は何もない。勉強した時間を失うだけだ。
そして勉強に費やした時間に「無駄」はないということを、ファルファリエは学院で学んでいた。
「よし」
馬車の中で、ファルファリエは意識を集中させる。
(いつか必ず、「念話」でみんなともう一度ゆっくり話をしてみせる)
もう見えなくなってしまったマルデガル魔術学院を背に、ファルファリエは『念話』の精神集中を始めていた。
そしてさっきの白猫が馬車の中にいることも、その白猫がこれからずっと自分の傍にいることも、ファルファリエはまだ知らずにいた。