9-40 ある愚か者
モレヌド・ゲバルは、ひとり森の中をさまよっていた。ここが森のどのあたりなのかもわからない。森に入る際におあえつらむきに見つかった獣道も、いつの間にか見失ってしまった。帰り道はどっちだ?
こんなはずではなかった。捜索隊の人間を森の奥深くに送り、自分はもう少し手前で休む。そして先行していた奴らをイノシシに襲わせる。自分も襲われた体で街に帰還する。
生命の危機に瀕した悲劇の英雄。あるいは危険な生物の襲撃から逃れた奇跡の生還者。自分の家の力も借りてそう讃えられるはずだった。
行方不明になった最初の六人は、何かの事情で山に入ってイノシシに襲われた。自分達捜索隊も襲われ、生き残った自分はその様子をしっかりと見たから、間違いない。
全ては恐ろしい野生動物が起こした事だから、ゲバルに関して流れている噂は事実無根だと。そんな流れになるはずだった。
計画はうまく言っていた。金で人員を集めて、本当に行方不明者の捜索だと信じ込ませて山の奥まで歩かせた。
モレヌド自身は途中で足を止めて帰るべき時を待っていた。捜索隊の連中の悲鳴なんかが聞こえたら、それが逃げ時だ。けれどイノシシは予想よりずっと早くここまで襲いかかってきた。
モレヌドの元に襲いかかってきたイノシシから、彼は必死で逃げ出した。イノシシの速さに人間の足が追いつけるはずがないのは知っていたけど、とにかく必死に走った。運が良かったのかそのイノシシからは逃げ切れたが、今度は帰り道がわからなくなった。
「こ、ここは……どこだ? 街はどっちだ…………?」
ひとり声に出すが、答える者はいなかった。こんなはずでは。今頃は街に戻っているはずが。何故こんなことに。
そうだ。イノシシが悪い。こっちの予想より早く暴れまわって。それを考えると、捜索隊の連中が思っていたより早く奥の方まで行ってしまったのが悪いのか。
そうだ。そうに決まっている。このモレヌドが考えた計画を滅茶苦茶にしやがって。単なる職人風情が。労働者風情が。庶民のくせに…………。
生まれながらの貴族であったモレヌドは、穴だらけであった自分の計画が悪いとは思わなかった。自分に問題があったかもしれないと、ちらりとでも考えることはなかった。
そのままさまよい続けていたモレヌドの視界が、少し開ける。そして奇妙なものを見た。
岩肌を大きな布が覆っている。その意味はわからないけれど、ここに人の手が加えられているのは明らかだった。
自分以外の人間の存在を期待して周囲を見回す。その岩肌に男がひとりもたれかかっているのが見えた。目を閉じてぐったりとしている。静かに休んでいるのか、眠っているのか、あるいは死んでいるのかはわからない。
声をかけようとして、やめた。
あの男には見覚えがある。捜索隊のひとりだ。なんでこんな所にいるかは知らないけれど、こっちの方が立場は上だ。話しかけるなら向こうからするべきだ。それにあの男のために計画が狂ったのだし、貴族であるモレヌドを前にして眠っているなど不遜だし。あとは、動けないならイノシシが来たときに餌とか囮とかに使えるだろうし……。
あれこれ言い訳を考えているが、この時モレヌドの心中にあった思いはひとつに集約される。この非常事態で極限状態では、街での立場など考慮されない。少なくとも、こいつのような下賤な人間は考えない。我が身可愛さとか、あるいはこんな状況に陥れたモレヌドに対する怒りなんかで襲ってくるかもしれない。
モレヌド自身は決してそれを認めないだろうけれど、彼は恐れていた。下賤の民に復讐されることを。
「あんな下賤な男よりは、ケダモノ共から逃げることを考えなければ……俺はここで死ぬわけにはいかない……」
死ねばゲバル家にとっての大きな損失。すなわち街全体の損失になる。自身の価値を過大評価していた男は、岩肌を覆っている布に近付き触れた。
なぜその布が湿っているのかは不明。けれど押してみたところ、中に空間があるように思えた。
これはいい。ここに隠れて時を稼ごう。しばらく待っていれば、街で再度捜索隊が結成されてここまで探しに来てくれるだろう。モレヌドがこの山に行った事は、誰だって知っているのだから。
布を剥がそうとしたが、釘で打たれていたため外せなかった。仕方がないからナイフで布を切り裂き、裂け目を一気に広げた。
この男には、なぜ人為的な物がここにあるのか、考え警戒する頭はなかった。
洞窟の中には不完全燃焼によって発生した一酸化炭素が充満しており、その状態で塞がれた入り口が開放されて新鮮な酸素が中に流れ込んだ。
洞窟内にわずかに残った火種が、酸素供給により勢いを取り戻す。可燃性ガスである一酸化炭素を一瞬にして燃やし尽くして爆発を起こした。
その仕組みも、バックドラフトという現象の名前もモレヌドは知らない。ただ結果だけが身に降りかかる。
モレヌドの体はその爆発によって、体の前面を燃やしながら後方へふっとばされる。そして森の木に背中から激突。
全身をしたたかに打ち、体中の骨が折れていた。また頭部も激しく打たれて、脳に重篤な障害を与える。
彼の体はしばらくその場でピクピクと痙攣していたが、やがて動かなくなった。街一番の貴族の跡取りは、若くして誰にも看取られることなく死んだ。
――――――――――――――――――――
「ねえコータ! あれ! ねえ見えてる!?」
「見えてるから! あんまり騒ぐな!」
ユーリに乗って城壁の近くまでたどり着く。大量のイノシシの群れの最後尾も見えてきたし、目につく端から順次殺してく。そうなると今度は向こうも俺達の存在に気付き、こっちに襲いかかって来るようになる。
イノシシ程度なら俺達の敵ではないけど、大量に来るなら話は別。特大の火球で一気に薙ぎ払っても、すぐに次が来るのだから。
防御魔法で押し留めたりユーリを後退させたりして、なんとか持ちこたえつつ、街へ接近していく。その途中で見た。
一番大きなイノシシの体の高さは、目測にして十メートルほど。その近くに、高さ八メートルほどのイノシシが四体ほどいた。森の奥にこんなのがいたなんて。そして、人里に出てきたなんて。
それが城壁の入り口である門に激突した。門を守る兵士の姿は見えない。逃げ出したのなら、その方がいい。無理にこの門を守ろうとしても、イノシシに踏み潰されて死ぬだけだろうから。
イノシシが再度門に激突。鈍い音が響く。それから、金属のきしむ音。
さらにもう一度に激突した直後、門に隙間ができた。そこから小さなイノシシが城壁の中に入っていった。




