第59話 二度目の朱染
「うん……うん……そう、ごめんなさい。埋め合わせは必ず……え? いや、そんなこと……って何言ってるのよ!? そんなのじゃないわ! ……うん、それじゃあ、また」
電話を切り、深いため息を吐く桐生。
その表情には少し疲れがある。
「古藤はなんて?」
「楽しんできてって……」
「そうか。悪いな、約束破らせて」
「……ううん、それは許してもらえた、というかあまり気にしていないみたい。一応、明日買い物に付き合ってと言われたけれど」
「そりゃあ、なんというか……ご愁傷様だな」
思わず苦笑する俺に桐生が首を傾げる。
「どういうこと?」
「古藤は、蓮華と相性が悪いからな。1年生組は光が教師役になれば1年生組だけで勉強出来るだろうから、古藤、快人、蓮華の3人で勉強となると……古藤は今は気付いていないだろうけど少し荒れそうだ」
まあこれは蓮華のスタンスにもよるが。
古藤は若干ヤンが入ったデレであると俺は睨んでいる。桐生とは和解したようだが、果たして蓮華は……
「蓮華……光……」
「桐生?」
ふと呟きに目を向けると、桐生がぼそぼそと蓮華と光の名前を呟いていた。心無しか目が死んで見える。
「二人は名前で呼ぶのね」
「名前で……ああ、頭に浮かべる時は名前だからつい」
蓮華ははとこと桐生には知られているし、光は親友の妹で……と言えば変なことは無いだろう。そう思って続けて口を開こうとした時、
「私は?」
そう遮られた。
「私のことは、名字で呼ぶわよね。頭の中では名前で呼んでいるの?」
「……ソウデス」
なんだろう、圧が。俯き、表情はよく見えなかったが、まるでぞわぞわと長い黒髪が動き出しそうな雰囲気に圧され、思わずそう答えていた。本当は脳内でも名前で呼んでいないけれど。
「……そう」
納得とまではいかない相槌。
ただ、少しばかり圧が下がったので内心ホッとため息を吐く。
「じゃあ、これからは口でも名前呼びでいいわ」
「え?」
「わざわざ名字で呼ぶのも面倒でしょう? べ、別に深い意味は無いわよ?」
「んー……そうか。じゃあこれからは名前で呼ぶわ」
こういうやり取りが正しいか分からないが、桐生……いや、鏡花の機嫌がそれで良くなるならいい。
「あ、そんなあっさり……」
「じゃあ鏡花」
「は、はい」
「何故改まる……俺のこと名前で呼んでくれていいぞ」
「えっ」
「たまに名前で呼んでくるだろ。まぁ、好きな方でって感じだ」
正直、名前呼びとかどうでもいい、とまでは言わないが。
異世界では名前呼びが基本だった。それこそ初対面でも名前で呼ぶし、こちらのように名前呼びは親しくなったらみたいなルールこそ最初は馴染めなかったものだ。
快人みたいに誰彼構わず基本名前で呼ぶみたいなのも、最初は全く気にならなかったし……そういや光もそうか。
「……ぅくん」
「ん?」
「鋼君……」
「ぷっ」
鏡花のまごまごとした様子がおかしくて思わず吹き出してしまった。
まるで熱された鉄のようにカーッと顔を赤くし、震えながらも睨みつけてくる鏡花にまたもや吹き出しそうになるが、ここは何とか堪えた。
「何よ、何か文句ある!?」
「いや、別に」
「あるでしょう! あるなら言いなさい!」
「だから無いって。ほら、さっさと行こうぜ」
名前を呼んだ程度でどうしてここまで、と思わなくないが、からかいが過ぎたらしい。結局、宥めるために朝食を奢ることになってしまった。
駅前のコーヒーチェーン店に入り、ブレンドコーヒーとサンドイッチを頼む。
「同じものでいいわ」
「あいよ……すみません、今の二つで」
「畏まりました……って、あれ? もしかして桐生さん?」
店員さんが不意に鏡花を呼んだ。見ると彼女はまるで幽霊を見たかのように目を丸くしている。
「知り合い?」
「……久しぶり、加藤さん。中学校以来ね」
にこやかとはとても言い難い、敵意さえ感じさせる桐生の挨拶に店員さんの肩が僅かに震える。
かつての俺にさえ向けなかった鋭く冷やかな目をした鏡花に、それを向けられていない俺も背筋が伸びた。
どうやら、あまりいい関係とは言えないらしい。
改めて店員、加藤と呼ばれた女性を観察してみる。年齢は俺たちと同じくらいだが、髪を脱色し、耳にはピアスが幾つか付いていて、化粧も濃い。嚶鳴にはいないタイプで桐生とは正反対の、あからさまに馬の合わなそうな女だ。
「ひ、久しぶり。なんかなついね」
「そうね」
ハイ、会話終わり。とでも言いたげな言い切り口調に加藤さんも苦笑し、沈黙が流れる。コーヒーを待つだけの僅かな時間なのにまるで地獄のようだ。
「お待たせしましたぁ……」
覇気のない声と共にコーヒーカップとサンドイッチが乗ったトレイが差し出された。ホッとしつつそれを受け取り空席へ向かう。鏡花さん、しれっと「これならテイクアウトにした方が良かったわね……」とか言わないでください。絶対店員に聞こえてるから。
「落ち着け」
「落ち着いているわ」
席に座るなりコーヒーを口に含む鏡花に苦笑しつつ、サンドイッチの包装を解く。どうやらお姫様にとっては先程の同級生との再会は望まないものだったらしい。
「珍しいな、お前がここまでイラつくなんて」
「苛ついてなんて……」
「イラついてるだろ。普段だったらああいうのは歯牙にも掛けないんじゃねぇの。今のお前は意識し過ぎっていうか、ちょっとムキになってる感じがする」
「あれだけのやり取りで分かるの?」
「そう言われるとなんとなくとしか言えないけどな」
鏡花とは長い付き合いとは言えない。だからこれが珍しいことかどうかも分からないけれど、俺にとっては珍しいのだからそう言う権利くらいはある筈だ。
今回は俺の勘が冴えていたのか、鏡花は溜息を吐いて半目を向けてきた。分かりづらいが、降参ということだろう。
「彼女は中学の同級生で、一応、小学校も同じだったのよ」
「つーことは、俺とも?」
「そう」
「その割には反応無かったな」
「時間が経っているもの。気が付かなくてもしょうがないわ」
鏡花はつまらなそうにそう言いながら、指でコーヒーカップの縁を弾く。
「それに、彼女はそういう人だから」
「そういう人?」
「私、虐められていたの。小学校と中学校で、彼女のグループに」
「……虐め?」
「教科書はボロボロにされたし、物も壊された。上履きは隠されたし、ロッカーに物を置いて帰ろうものなら悪戯されたわ。無視は当然、陰口も当たり前、暴行までは無かったけれどトイレにいる時に水を掛けられたことならあるわ」
何の言葉も出なかった。彼女が虐められている姿が想像出来ないというのもあるが、それを吹っ飛ばすくらい酷い内容で、言葉には信ぴょう性があった。
「マジか」
「怒ってる?」
「当たり前だ。お前はいいのか?」
「無視してたもの。荷物は必ず家に持って帰って、常に鞄を持ち歩けば実害は減らせるし、それ以外の嫌がらせは全部無視したわ」
「なんか、強いんだな……」
「……貴方のおかげよ。でも、貴方のせいでもある」
最後のは呟きだった。懐かしむようで、苦い感情を伴った。
「俺のせい……」
「気にするのはやっぱりそっちなのね」
ネガティブな方を拾った俺に呆れるように鏡花が苦笑する。釣られて俺も苦笑を返した。
「食事、早く済ませましょうか。長居したくないし、時間も有限だから」
「ああ」
虐めをしてきた相手がいるとなれば、俺も異論はない。サンドイッチをコーヒーで流し込み、トレイが空になり次第席を立つ。
加藤とやらは、俺たちが退店する時には裏に引っ込んでいたようでカウンターには出ていなかった。
「なぁ、桐生」
「鏡花。名前で呼ぶんでしょう、鋼君」
「なんか怒って……るよな。やっぱり」
「別に怒ってないわよ」
先を少し早めのペースで歩く鏡花を追い、住宅街を進む。
「鏡花、今から行くのは小学校だったよな」
「そうね」
「あのさ、連れて来ておいてなんだけど……嫌だったら別に」
「嫌じゃないわ。積極的に行きたいわけでも無いけれど、でも貴方の為だから」
「……悪い」
「謝らないで。感謝したいくらいだし……無くした記憶に向き合ってくれるのだから」
鏡花はそう言って振り返る。その顔に浮かんでいるのは微笑みだった。
「やっぱり、鋼君なのね」
「え?」
「ころころ印象が変わるけれど、根っこはあの時の鋼君のままだわ」
「それはお前がそう思いたいだけかもしれないよ」
「それでもいいわよ。私にとって鋼君は、貴方が忘れてしまった昔の鋼君も今の器用そうで不器用な鋼君も、全部纏めて鋼君だから」
「……鋼が多くてゲシュタルト崩壊しそうだ」
顔を反らし、そうぼやいた。自分でも分かる、これは只の照れ隠しだ。
実際それは鏡花にも伝わっているようで、くすくすと笑われてしまった。
「鋼君がいなくなってからも、貴方のことを忘れたことは無かった。まさか忘れられてるなんて思いたくなかったけれど」
「……本当に忘れてごめんなさい」
「別に責めていないわよ。忘れたふりだったら許さないけれど」
「それは断じて無い」
「もう、疑っていないわ。心変わりをしていないのなら、貴方が忘れたふりなんてするはずがないもの」
随分な信頼だ。かつての椚木鋼というのはそれほど鏡花にとって大きな存在だったんだな。それに、今の俺も近づきつつある……というか、鏡花の中ではもう重なっているのだろう。
当然、かつての俺が分からない俺にとってはどう受け止めていいか分からないが。
「本当は怖いわ。けれど、鋼君と一緒なら何処に行くことになったって構わないわ」
「それは随分期待されているみたいだな」
「何かあっても私が守ってあげるから」
「流石は合気道有段者。男気ありすぎて惚れちまいそうだ」
ここまで言われて何も思い出せなかったら俺、最低だな。せめて何か思い出してくれるといいが。
やはりこうして住宅街を歩いていても住宅街に見覚えが無い。既に不安が生まれ始めている。
「鋼君」
いつの間にか足元しか見えていなかった……が、すっと、白い何かが視界に入る。
思わず顔を上げると目と鼻の先に鏡花の顔があった。
「……」
「……」
絶句というのはこういうことを言うのか。お互い目を合わせて数秒固まり……先に折れたのは向こうだった。
「こ、声は掛けたでしょう!?」
「悪い……ボーっとしてた」
「全く、本当に突っ込んでくるとは思わなかったわ」
こほん、とあからさまな咳払いをし、赤みがかった顔を反らすように背中を向けてくる鏡花。その先に、そこはあった。
「朱染第一小学校……私達の母校」
「ここが……」
そこにあったのはごく普通の公立小学校だった。
だが、鏡花のエピソードからか、それとも記憶を取り戻さないといけないという不安からか、俺には何か凶悪な要塞のように思えた。