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第58話 三回目

 朱染しゅせん。俺が生まれ育ったという町。

 正直、自分が幼少期、どこか特定の場所で育ったなどということは未だに実感が湧かない。当然前回あの町に行った時も、俺は全くと言っていいほどその実感を持てなかった。だから、もしも朱染が本当は俺にとって縁もゆかりも無い場所と言われれば「ああ、そうですか」と納得してしまうだろう。

 それでも、もう一度あそこに行こうと思った理由はそこで一緒に育ったという桐生の存在があってこそだ。


 ついこの間までは嫌われていて、万が一にも俺と彼女がにこやかに並んで歩くなんてとても想像がつかなかった。勿論今でもにこやかなんてのは桐生の性格的に無いと思うが、それにしたって随分と急に距離が詰まったと感じる。それこそ、階段を2段飛ばしで上るくらい軽やかに。

 そう。急すぎる。俺としては心の準備も無いまま、戸惑っている内に懐に入られた感覚だ。かつては俺を目の敵にしていた桐生鏡花が、よもやたった数日でもしかして彼女俺に気があるんじゃないのと疑いを持つレベルにまでなるなんて。ツンデレキャラでももっと慎重に事を運ぶだろう。絶叫マシーン並の直滑降だ。

 勿論桐生の中には朱染で過ごした椚木鋼がいて、彼女が今の俺を受け入れるのもその思い出と経験が残っているからと思えば、彼女からすれば急どころか今更な話なのかもしれない。

 でも、そんな心情を慮ってもやはり。

 この距離感はよくない。


「すぅ……すぅ……」

「むむむ……」


 ああ、よくない。実によくない。


「うぅん……」

「んぐぅ」

「……ぅ……くん……」

「ぐぐぐ……っ」


 右肩が重い。いや、実際は文句を言う程重くなんて無い。ただ、こう……むず痒いのだ。そして動けない。


「んっ……」


 少し、ぴくりと肩を動かしただけで、彼女は寝心地悪そうに声を漏らした。

 一つ断っておくならば俺の肩が枕としては有能であるということは全く無い。服にしても桐生の申し出により機能性に富んだジャージ先輩から、若干ファッション性の上がったマネキン服に変わっていて肌触りもよくないし。

 それなのにどうして、彼女はこんなに気持ちよさげに寝ているのか。

 まるで漫画のようにブツブツと、いやムニャムニャと何かを呟きながらも一向に覚醒の兆候は見られない。寝言を呟いているということは、完全な睡眠状態とは言い難い、所謂半覚醒状態なんだろうけれど……といっても専門家でもないし、現代人のもう一つの頭脳と言えるグーグル先生に頼ることも出来ていないので思い付き程度のガセ理論に過ぎないが。


――ガタンっ


 僅かな不規則な振動。


「んん……」

「っ!!」


 振動に寝心地が悪かったのか、桐生が身をよじり、さらに体重を掛けてきた。それはいい。もういい。桐生の花のような香りが鼻腔を余計くすぐるというのも良い……じゃなくて、いい。

 問題は、


(む、胸が)


 思わず口から声が飛び出そうになり慌てて唇を噛み、空いている左手で腿を抓る。痛みに意識が向いて少しは腕に襲い掛かるふわっとした感覚が和らいだ気がした。

 心臓が変な鼓動を始める。血が熱くなる。よくよく考えれば、俺は女性とこういう密な接触なんてものは殆ど経験していない。

 異世界ではそんなことをしている余裕は無かったし、こっちに来ても一番可能性のあった蓮華は俺の警戒もありあまり触れていない……筈。こんなに長時間、思いっきり女性の胸を堪能するなんてのは初めてかもしれない。


(考えるな考えるな考えるな)


 陸上の時も、今日桐生を見たときもあまり考えないようにしていたのに、これでは意識するなという方が無理な話だ。

 偉い人は「実際触れても硬いブラの感覚がするから期待しちゃいけないヨ」と言ったらしいけれど嘘じゃないか……いや、たしかに異物感はあるけれどそれにしたって……って、何考えてんだ俺!

 周囲の乗客からの視線が痛い。微笑ましげな生暖かい視線を向けて来る人もいれば、羨まし気に睨みつけてくる男性客もいる。

 ここは牢獄だ。あの時、「あそこ空いてるから座ろうぜ」なんて言わなければ良かった。


――次は、神楽町。神楽町。


 このアナウンスは……乗り換えポイント!

 明桜町から朱染に行く間には、神楽町駅で乗り換えを一回挟む。つまり、次の駅まで耐えれば俺はこの状況から一旦解放される。後少しだ……それまでなんとか。


「耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ……」

「んん……くぬぎ、くん……?」

「え゛」

「椚木君、顔赤……あれ、何でこんな近く……」


 思わず念を口から漏らし起こしてしまった。ここは……どうすれば。考えても僅かな時間でそうそう解決に繋がる閃きなんて降りてくる筈も無い。

 目を覚ました桐生は、じわじわと顔を染め上げて、俺の顔と、密着した体を見比べ、


「ひゃ……」


――神楽町。神楽町。


「つ、着いたぞ桐生、乗り換えだ!」


 ドアが開くと同時に桐生の腕を掴んで立ち上がった。

 こればかりは運というかタイミングが良かった。

 あわや叫ぶ、というところで奇跡的に神楽町駅に到着。なんとか状況を有耶無耶にし、俺はこの牢獄を脱出することに成功したのであった。めでたしめでたし。



「本当にごめんなさい……」

「いや、もういいって。別に桐生が謝ることじゃないし、うん」


 すっかり居眠りをしてしまったという自責の念から頭を下げてくる桐生。何もめでたくこれにて一件落着とはいかなかった。

 さて、どうしたものか。桐生は電車で眠り、寝顔を晒した羞恥と、寝ている間俺にもたれかかっていた罪悪感から謝り続けてしまっている。これも以前の桐生なら「気持ち悪い。睡眠薬でも盛ったのかしら。裁判所で会いましょう」という訴訟三段活用を用いてきた筈……いや流石にないな。

 なんて現実逃避をしている場合じゃない。ここでどう桐生をフォローするかが肝要だ。

 もしも俺がラッキースケベ系主人公であれば、「気にすんなよな! 俺もいい思いしたし……つーか柔らかかった。何カップ? 当ててみせるから揉ませてよ」などと口を滑らし、ビンタの一発でも貰うんだろうが、俺は主人公じゃないし、そんなリアル訴訟発展間違いなしな発言はしない。ごく自然な会話で、おっぱいを(結果的には)堪能してしまった事実を隠蔽する。

 ……そう思うとラッキースケベ系主人公の方が罰を受けている分真っ当なんじゃないか?


「不覚だわ……いくら眠かったからなんてあんな醜態を……」

「しゅ……」


 うたいなんて今更……と口から出そうになったが、今の桐生にそれは酷だ。泣きっ面に蜂というやつである。


「あまり寝てないのか?」


 だから俺は話を逸らすことにした。完全に違う話を振ったらあからさますぎる。だから、桐生が居眠りをした理由に目を向ける。居眠りをしてしまったという結果から目を逸らさせるために。結果→原因→原因の原因→原因の原因の原因……みたいに遡っていけばあら不思議。結果なんて記憶の彼方に葬り去られるわけさ。

 ククク……完璧……完璧な会話の組み立て……! 閃きなど所詮は運。俺は運に頼らずともしっかりリカバリーが出来るのだ!


「少し、早起きだったから」

「へぇ、早起き。どうしてまた?」


 内心ほくそ笑みながら会話を逸らす。おっと、笑うな。


「貴方を、待ち構えて……」

「へ?」

「分かってる。分かっているわ。馬鹿みたいよね、早起きして、朝早くに家まで来ておいて、インターフォン一つ押すにもまごついていたなんてお笑いよね」

「いや、そんなこと言ってない……」


 ていうか、そうだったのか!?

 俺は偶々桐生がインターフォンを押すタイミングで部屋を出たと思っていたけれど、あの体勢でずっと居たってことか!?


「なんでまたそんなこと……」

「だって逃げるかもしれないって……」

「誰が? 俺が? 誰から」

「椚木君は無駄に勘が鋭い時があるから、念には念を入れろって、古藤さんが」

「古藤が……」


 あいつ余計なことを……さてはまだあの事を根に持ってるな。

 かつて、俺と、快人と古藤の三人で遊ぶ約束をしたことがある。ただ俺はそれをハプニングで突然二人きりのデートという演出を付けるためにすっぽかしたのだ。

 と、ここまでは良かった。しかし、そう上手くいかなかった。そうして二人きりになり、たどたどしくもデートを始める二人を影から観察していると、その二人に接近する影が……、そしてなんやかんやあって古藤にとっては微妙な結果になってしまった。良かれと思ってやったのに。


 という経験から古藤は俺を何かと逃げるやつと考えているみたいだ。桐生へのアドバイスもそれに基づくものだろう。


「分かってるわよ。日が昇る前に起きちゃって、そわそわして、来ないって聞いているのにもしかしたらって服を選んで、化粧までして、家を出たらまだ日が昇ったばかりで……結局貴方の家の前についてもインターフォン一つ押すのに怯えて……」

「いや、桐生さん、落ち着いて。そこまで赤裸々に言わなくても」

「この麦わら帽子もね、思い出があって、願掛けというか。このワンピースもなるべく見栄えをって……」


 聞き取れたのはそこまで。口元で言葉を転がすような呟きにまでボリュームダウンしたそれを聞き取るには、口元に耳を近づける必要がある。が、俺はそれをしない。出来ない。何故なら……ここは電車の中だからだ。ああ、またもや視線が。今度は嫉妬に加えてまるで俺が加害者みたいな責める視線を感じる。


 先ほどと同じ轍を踏まないように立ちながら会話をしていたのだが、それはそれでこんな展開を生むとは。


「これなら座らせてた方が良かったかもしれないな……」


 すっかり自分の世界に入り込み、ぶつぶつと虚ろな目で独り言を呟き続ける桐生を見てため息を吐いた。

 休日ということもあり電車は空いていて、ぽつぽつと空席もある。俺だけでも座ろうと思えば座れるのだが、この桐生を放ってはおけないし、かといって今の無防備な桐生を知らない奴の横に座らせるのは気が引けた。


「変なやつ……」


 もはや桐生が何を考えているのかは分からない。知ろうとしなければこの辺りが限界だろう。

 ……何も知ろうとしなければ、か。

 この間来た時は早く時間が過ぎろとボーっと過ごしていた。帰りは中身の無い雑談をしてそれなりに楽しいと思った。

 そして今、再び朱染に向かう、いわば三回目のこの道中で俺は何故か桐生のことばかり考えている。

 桐生が来てくれたのはイレギュラーだ。もしも桐生が居なかったら俺はこの二時間程度の時間をどう過ごしたのだろう。とそんな疑問を頭に浮かべつつ、


「この間より疲れた……」


 そんなことを呟いた。

 二時間ぼーっと時間が過ぎるのを待っているのはつらかったけれど、こうもただ一人誰かのことを考えるなんてのも、やっぱり疲れるものだ。


「桐生」


 いつまで経っても一向に自分の世界から出てこない桐生にたまらず声を掛ける。


「あっ……く、椚木君。その、あの……」

「お前、この間来た時とは全然違うな」

「そ、そんなこと……」

「あるよ。あの時はもっと冷たかったし」

「そう……だったかも」

「そうだよ。でもまあ、いいや。ようやく長い電車の旅も終わりだ」


 片道2時間。乗り換え1回の電車の旅ももうじき終わる。

 次の駅は朱染。目的地だ。


 行きから随分疲れてしまった。こんなことになるなら桐生に一発殴らせてスッキリさせた方が良かっただろうか。やっぱり自らヒロインに殴られることで話にオチを付けるラブコメ主人公は偉大だなぁ。


「ただ、退屈はしなかったかな……」

「椚木君? 何ぶつぶつと……」

「……何でもない」


 思わず口から出た言葉に一人苦笑する。桐生に変わったと言ったけれど、俺もこいつのことを言えないかもしれない。

 でもやっぱり、無防備に眠ったり、思考の渦の中でパニック状態になっている桐生を眺めるのは楽しかった。いや、面白かった? モブキャラとして周囲をからかっていた頃とは違う感覚だ。


「な、何よ、じっと見つめて」

「なんでもない」

「なんでもなくないでしょ」

「なんでもないって」


――朱染。朱染。


 そんな中身のないやり取りを遮るように、アナウンスが流れ、降車口が開いた。

 不思議とドアの向こうに広がった景色はこの間とは違うものに見える。


「降りないの?」


 不思議そうに首を傾げて見てくる桐生。


「降りるよ」


 電車を降りると、冷房の効いた車内からむわっとした外気が全身を襲った。しかし、変わったのは気温や湿度だけでは無いのだろう。


「ふぅ……それじゃあ行きましょう。前回行けなかった小学校からかしら」

「そうだな」


 少し緊張しているのかもしれない。この朱染という場所に。記憶を思い出すことに。でも、桐生の存在が側にあるということが余裕を与えてくれる気がした。


 なんであれ、一人で来るよりよっぽど良かった。

 桐生にはちゃんと礼をしなくちゃいけないな。……不覚にも胸の感触を楽しませていただいてしまったことも含めて。

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