第51話 嵐の前の静けさ
「ウォーミングアップのつもりだったんだけどなぁ……」
「お疲れ様、快人! はい、スポドリ」
「ありがとう、紬」
ハードル走3本勝負を終え、若干の小休止タイム。無難なハイスペック主人公である快人には疲れは見えるもののまだまだ余裕そうだ。古藤からペットボトルを受け取り、笑顔でいる程度には。
そんな二人を少し離れた場所から見守る俺に近づいてくる影があった。桐生鏡花である。
「椚木君、これ……」
「俺に? サンキュー」
桐生がくれたスポドリで喉を潤す。古藤が快人に渡していたものと同じ銘柄だ。
「これ、いつの間に?」
「いつの間にという程のものでも無いわ。あなた達が走っている間に自販機で買っただけよ」
「そっか。悪いな」
僅かな沈黙、何を思ったか桐生は地べたに尻餅を付いてくつろいでいた俺のすぐ隣に座り込んだ。密着と言わずとも肩と肩の間は拳一つ分程度しかない。
「二人、仲がいいわね」
「そうだな」
「付き合っては無いのよね?」
「らしい」
古藤からのアピールはあるものの快人の反応は何とも判断しづらい。性格的に知っているのにはぐらかしてキープ……なんてことはしないと思うけれど。
「こういう話題は嫌い?」
「どうして」
「反応、薄いから」
「んなことない。今はちょっと頭に酸素が回りきってないだけで普段からリア充爆発しろって思ってるよ。つーか逆に桐生がこういうことに興味あるってのが意外だ」
「興味があるというか……そうね。興味あるかも。知的好奇心と言えばいいのかしら。誰かを好きになるってどういうことなのかって」
膝に顔を埋めるように体育座りをし、指で地面に何かを書く仕草をしながら、彼女はそう言った。
「椚木君は誰かを好きになったことはある?」
「俺?」
悩む、ではなくただ聞き返した。会話のボールが自分に投げ返され、つまりはぐらかされたことを悟って、少し不機嫌な目を向けられたが。
「まあ、いいわ。……ところで、この恰好どう思う?」
どうって……すごく、大きいです(胸が)。じゃなく、どうとは?
「体育、男女別でしょう? あまり見慣れないと思ったのだけれど」
なる程、珍しいということか。まあ、確かに。……とはいえなぜわざわざ聞くのかという疑問も残る。
桐生は今半袖半ズボンの体操着の上に学校指定のジャージを羽織っていた。ジャージは学年ごとにカラーが異なり、俺達二年生はえんじ色だ。
うちの場合グラウンドを分けるという方式でなく、クラス合同で男子が体育館なら女子はグラウンドみたいに場所すら分ける。世にも珍しい屋内プール完備のため雨天は体育館とプールという二段構えだ。どこからそんな金出てるんですかねぇ……(遠い目)。
「似合ってると思う……って、そう言われて女子は嬉しいもんか? ファッション性とか無いだろ」
「……意外と」
その先の言葉は膝小僧に顔を埋めてボソッと呟かれたため、俺の耳には届かない。ネガ語の後だからポジ語かな? くらいで。
「体操着フェチ、というのがあるんでしょう? 正直全然分からないけど、そういう目で見られると思うとあまり好きではなくて。実際中学は合同だったからそういう視線も感じたし」
だからこのクソ暑い中でもジャージを羽織っているのか。
「まあそれは美少女税みたいなもんだ。諦めろ……とは言わないけど、無くなることは無いだろうし」
「美少女税……?」
「可愛いだけ損なこともあるってこった。まあ、そういう視線を浴びるのが好きってやつもいるだろうけど」
「椚木君は、どうなの? 私を見て、どう思う?」
弱々しい声。らしくない、と思って彼女に視線を向けて、思わず息を飲んだ。
元々クールで唯我独尊な美人の印象が強い桐生だが、どこか弱々しい姿は胸を打つものがある。目は不安に揺らぎ、膝を抱える腕は少し震えて見える。
「もっと自信持てよ。いつも言ってるだろ? 周りがとやかく言ってくるのはお前のことが気になるから……って……」
何、言ってんだ、俺。
話の主旨とは全然違う返しだ。噛み合ってない。でも、なんだかこういうことを言うのは初めてでは無い気がする。
桐生の姿が誰かにダブる。彼女より小さく、それでいて面影のある……これは、いったい。
「鋼……くん?」
「へ? ……って、俺の手なんでこんなとこに!?」
全く無意識のうちに桐生の頭に手を置いていた。髪が僅かに乱れているのを見ると撫でてもいたらしい……って、何で!?
「ご、ごめんなさい!」
桐生も桐生で顔を真っ赤に染める。ちりっと首元に嫌な視線を感じたが、今はそれより目の前の桐生と、自分自身の不可解な行動が気になっていた。
「な、なんで謝るんだよ。悪いのは俺で……」
「今の、あの頃の鋼君に凄く、似てた」
「昔の俺……」
かつて、自分自身を殺した俺が俺になる前の、俺。以前、朱染で桐生のことをキキと呼んだ無意識の、体の中に残る椚木鋼が。
「昔、鋼君によく言われたわ。自信を持て、キキは自分が思っているより凄いやつなんだからって……でも、あの頃はどうしても自信が持てなくて、それでも私にとっては大樹と鋼くんがいればそれで良くて……けれど、永遠なんてないって、失ってから何度も後悔した……だから……」
ガバッと勢いよく立ち上がり、決意を固めた、凛々しい表情で俺を真っ直ぐ見据えてきた。
「今度は逃げない。逃がさない……絶対私の方を振り向かせてみせるわ」
「振り向かせる……?」
一瞬、何を言ってるか分からずただ桐生を見返す。
桐生は俺の視線を受けて、数秒固まった後、かあっと音が聞こえてきそうなくらい急激に顔を赤くして、
「べ、別に今のは告白とかじゃなくてっ! その、元々鋼君はノーマルだったわけだし、記憶喪失とかでごちゃごちゃして男の人とその……だから! 私がじょ、女性の魅力をぶつけてノーマルの方に振り向かせるっていうか、そりゃあ勿論そういうのは人によるし全否定はしないけれどやらないよりやる後悔というか、何度も助けられて恩を返したいというか、そういう意味だから!」
と、物凄い早口で吐き捨てた。
ここで俺がラブコメの主人公であれば、「早口すぎて、なんて?」とでも鈍感に返すのだろうけれど、残念ながら全て聞き取れてしまった。
「えっと……」
だから、言葉も出てこなかった。あの桐生がとか、やっぱり先ほどの予感はとか、俺なんかにどうしてとか、同性愛疑惑どんだけ根深いんだよとか、色々な思いが頭の中で大乱闘してやがる。
そんな俺の沈黙を彼女がどう受け取ったかは分からない。ただ、桐生らしからぬ……でもどこか何となく相変わらず彼女らしいと思えるような、恥ずかしさから泣いてしまいそうな真っ赤になった顔を向けてきていて。
「これはただの宣言だから……伝えたいことは、ちゃんと……ちゃんと言うから……それだけだから!」
結局彼女はそう吐き捨て走って逃げていってしまった。
「伝えるって……何を」
そんな彼女にそう呟くことしか出来ず、知らなかった……それなのにどこか既視感のある桐生の姿にただただ呆気に取られていた。
「モテモテですね、鋼」
「そういうんじゃないだろ、あれは」
先ほど一瞬感じた視線の主であろう、蓮華がそう声を掛けてきた。桐生が去って、後方から彼女が来るタイミングからして、桐生には彼女が盗み聞いていたことは悟られていないと思うけれど。
「じゃあどういうのですか?」
「それは……分からないけど」
「へぇ……優しいんですね。まるで鈍感主人公みたいです」
皮肉を隠そうともせず、蓮華はそう笑いかけてきた。僅かに怒気を込めながら。
「私の時とは違います。前の鋼ならこの時点で彼女を避けていた筈です。違いますか?」
「……かもしれないな」
「もしかせずとも、光さんに何かしたことがきっかけですか?」
その言葉に思わず顔を顰めた。それだけで蓮華には色々察されただろう。
「やっぱり、光さんが突然学校に来たのも……休む前と雰囲気が変わったのも鋼が何かしたからですか」
「休む前と?」
光の記憶を消したのは俺とのことだけだ。俺と光が会ったのは彼女が学校を休み始めたその日だ。それ以前の接点は無いのだから、休む以前と変わるなんてあり得ない筈だ。
「ただ、光さんと直接話した訳では無いのではっきりと分かっているわけではありませんが」
「直接話さなくたって、一目見てそう思ったならそうなんだろ。お前の場合な」
溜息を隠そうと、膝を抱きかかえ口元を埋めた。考えることが多すぎる。光のこと、桐生のこと、それに蓮華のこと……勿論、ブラッドのことだって。こうも女性のことばかり考えているというのは、まだ数週間前、安穏と過ごしていた頃と似ている。
かつてその中心には快人がいて、今中心にいるのは俺だという決定的な違いがあるけれど。
ああ、あの頃に戻りたい。崇高な役割なんて何も無くて、自由で、好き勝手に他人を弄り回すだけの無責任なモブに。
吐き出した息が腕の中で籠って気持ち悪い。ただでさえ日照りに襲われ不快だというのに、さらにそれに加えて柄にもなく考え込んで。馬鹿が考えるとそれだけで熱を出すらしい。本来、俺にとって何かを考える、推測するということは向いているわけじゃないんだ。
もしも、俺にそんなことへの適性があればもっと……この世界に来る前なら、もっと上手くやれただろうに。そんな捕らぬ狸の皮算用をして現実逃避をしたくなってしまう。
「鋼、勝負をしませんか?」
そんなすっかり思考力の弱った俺に、蓮華はそう唐突に申し出てきた。
蓮華の表情はいつもの笑顔で、それでも少し緊張しているようだった。当然、今の俺に表情からその真意を読み取れるわけがない。
「負けた方が、何でも一つ言うことを聞くという勝負です」
「何でも?」
「勿論、仮に私が勝って鋼に不当な頼みをした場合は拒否しても構いません。可能な限りで大丈夫ですよ。ただ、断った場合はお願いを変えさせてもらいますが」
「何でもじゃないだろ、それ」
「それに、頭ごなしに拒否されそうなことは頼むつもりはありません……勝てるとも限りませんしね」
力なく弱々しく笑う蓮華。その表情を見た瞬間、勝負に対するリスクとか、蓮華の真意とかそういった疑念は掻き消えて、
「……分かったよ。受ける」
そう、反射的に答えていた。
こいつは、俺が桐生に対して甘いと言ったが、やっぱり蓮華にも甘いと思う……なんて、蓮華に甘えてばかりの俺が言えたことじゃないが。
蓮華との勝負というのは、かつて、俺が命蓮寺家に住んでいた時は珍しい事ではなかった。それこそ、毎日とはいかずとも週5くらいではやっていた気がする。その時は何かを賭けるということの方が少なかった。ただ、蓮華は勝負自体が好きで俺も付き合っていたという形だが、楽しかった。命の取り合いじゃない、楽しい勝負があるというのを教えて貰った。
それでも今回は違う。景品は相手に何でも頼める権利、つまりは自分自身だ。賭けるものが大きければ大きいほど勝負の真剣みは増していく。蓮華とこういった勝負をしたことは今までにない。
何か俺にとって不利益な真意があるのかもしれない。それは俺を勝負で負かして無理やりでも従わせたいほど大事なことかもしれない。もしかすればそれは、蓮華にとってとても重要なことなのかもしれない。
分からない……考えたって何も想像は付かないけれど、もしも俺が何か彼女の為に動いて、傷つくことになったとしても、それで彼女が幸せになるのであれば叶えたい、と思う。
けれど、わざわざ勝負という手段を取って持ちかけてくるというのなら俺もそれを真っ向から受けるしかない。たとえ、その結果俺が勝って、彼女の望みが叶えられなくなったとしても……そうなる可能性があって、それでも勝負を望んだのは彼女だ。
考えなければいけないことは沢山ある。ただ、勝負をするのならばこの命蓮寺蓮華は最も強い敵だ。魔力を意図して使う気は無いが、その条件であれば負ける可能性はかなり高い。
……あることに真剣に向き合うということは、他のことから目を逸らすこと。それをありがたく感じてしまうのが、我ながら情けない。結局、あの頃からずっと、俺は逃げることしか出来ていないんだから。