【閑話】第44.5話 忘れてしまった何か
今回は別視点(非主人公視点)です。
苦手な人はごめんなさい。
これは、夢だ。
すぐにそう気が付いたのはこの夢が私にとって特別な夢だからだ。
普段見る夢は取り留めもなくて、会話や展開も支離滅裂で、それでも夢の中の私は夢だと気が付かない。
けれどもこの夢は違う。理路整然としていて、とても暖かで、寂しい。今夢を見ているんだってすぐに分かる。分かってしまう。
この夢ではいつも暗闇の中にいた。僅かな光も差し込まない闇の中には冷たい寂しさが広がっていて、そんな恐怖の中で私は泣きそうになってしまう。
けれど、いつも誰かが手を握ってくれる。
ある時は優しく、大切に。これは兄さんの手だ。握り慣れている感じが安心させてくれる。
ある時は少し強く、感情的に。これはお姉ちゃん。きっと兄さんと何かあったんだ。私はお姉ちゃんの兄さんへの想いを知っているから、でもここで聞いたお話は兄さんには内緒。いつかお姉ちゃんが本当にお姉ちゃんになるその時まで、二人だけの秘密だから。
ある時は暖かく。これはお爺ちゃんとお婆ちゃん。皺の浮かんだその手で優しく握って貰っていると愛されてるって嬉しくなる。
そして……ある時はおずおずと、まるで割れ物に触れるように慎重に、とても丁寧に触れてくれる。ああ、これはあの人だ。
優しいというにはそっけなく、感情的というよりまるでどう感情を表現すればいいか戸惑っているような、暖かとは言えない少し冷たい手。
それでも誰よりも優しい気持ちにしてくれる。誰よりも心を満たしてくれる。誰よりも暖かくしてくれる。私の、私だけの大切な人。
兄さんにとってのお姉ちゃん。お爺ちゃんにとってのお婆ちゃん。
いつか、私もこの人にとってそんな存在になりたい。そう心からそう思える特別な人。誰よりも、一緒にいた時間は短い筈なのに、自分でも変だと思う。
あの人の手が触れるだけで胸が高鳴る。声が耳をくすぐるだけで幸せになる。
けれども、同時に不安にもなる。あの人は私を、目も見えず、足も動かない、そんな不完全な私をどう思っているんだろう。
弱い? 可哀想? それとも、醜い?
そう考えるとつらくなる。分かっていたはずだ。私は不良品だって。兄さんにも、お姉ちゃんにも、お爺ちゃんお婆ちゃんにも負担になる、守られなきゃ生きていけないちっぽけな存在だって。
なのに、あの人には、そう思われたくない。ただの我が儘だって思うけれど、私はあの人とは対等でありたい。守られるだけじゃなく、守りたい。甘えるだけじゃなく、甘えてほしい。
他の人に見せれない弱さを、私にだけ見せて欲しい。
日に日に大きくなるあの人の存在に、胸が、心が潰れそうになる。
それでも、暗闇が照らされるように、私の世界を満たしていってくれる。
もしもこの目が見えるなら決して見失ったりしないのに。
もしもこの足が動くのなら決して傍を離れないのに。
だから、思い出して。
守ってあげて。
弱くて、優しいあの人を。
――――
―――
――
「えっ?」
その言葉を聞いた瞬間、目が覚めた。
暗闇が晴れ、広がっていたのはまた暗闇。
それでもうっすらとよく見慣れた自室の天井が見える。
「今の夢……」
そう呟いた自分の声はまるで喉が潰れているかのように掠れている。呼吸が苦しい。思わず首元に手をふれると首筋を水が伝っていた。
大雨に打たれたような寝汗、けれどもそれとは別に頬を伝っていたそれは、私が自覚した瞬間、またまぶたの奥から溢れ出した。
「うぅ……うあぁ……」
胸が苦しい。痛い。涙が溢れて止まらない。
その理由は分かっている。
私は、どうして自分が苦しいのか分からないから泣いているんだ。
私にとって、この夢は突拍子のないことではなかった。物心付いたときから当たり前のように見て、すっかり馴染んでいる。
この夢を誰かに話したことはない。両親にも、兄にも。
もし言ったとして、変だとしか受け取られないと子どもながらに自覚していた。夢の中の自分に身体の成長が追いついてきて、知識や常識が身に付いて行く内に、やはりその感覚は間違いではなかったと実感した。
多分、自分が2人存在するという感覚は誰とも共感出来ないだろう。
ずっと、もう一人の私が求める、見えない誰かに憧れていた。目と足が不自由な彼女、夢の中のもう一人の私、彼女と一緒に育ってきた私にとって、彼女の慕う誰かは私にとっても大切な存在であるということは当たり前だった。
あの人に相応しくなりたい。ただ守られるだけだった私とは違い、私は目も見える。自分の足で歩ける……それが嬉しくて、もっとあの人に誇れる自分になりたくて。
あの人に作れなくて後悔した料理も練習した。学校の勉強や運動は勿論頑張って、いつも学年1位は逃さなかった。
"見える”ということが嬉しくて絵も描くようになった……けれど、これはちょっと自慢できるレベルではない、かな。
――光、また告られたんだって?
――しかも今度は先輩後輩問わず人気のサッカー部の王子様でしょ?
――断ったなんて勿体ない。取りあえずでも付き合ってみればいいのに!
中学に上がると男子からよく声を掛けられるようになって、戸惑ったけれど少し嬉しかった。
告白は受けられず断るのも心苦しかったけれど、それでも私が異性から魅力的に見えているというのが嬉しかったんだ。
いつか、あの人に会えたら、私のことを好きになってくれるだろうか。
見たことも無い、多分違う世界の会えるかも分からないあの人。
けれども、私は会えると思って疑いもしなかった。会える確信があったわけじゃない。ただ、疑うということを思いつきもしなかった。
そう、思いつきもしなかったんだ。けれど今は、もしも会えなかったら、という恐怖がある。いつの間にそんな考えが生まれたのか分からない。
何かを忘れている……そう気が付いたのは昨日、朝起きてのことだった。
最初、自分が信じられなかった。気が付けば病気でもないのに2週間ほど学校を休んでいた。
どうして私はそんなことをしたんだろう。同じ生徒会の村田先輩に告白されて、そのことでクラスの三倉さんに嫌がらせを受けたから? 違う、今までだってそんなこと何度もあった。
確か、休み始めたその日、私はいつも通り家を出て、けれど気が付いたら、ボーっとしてたのか普段の通学路とは違うところを歩いていて、そんな日に限って全裸の変質者に出くわして、恐怖のあまり必死で逃げて……気が付いたら、家にいた。
そうだ。そこから今日まで学校を休み続けて……やっぱり断片的に記憶が飛んでいる。
変質者に出くわした恐怖で今日まで外に出るのが怖かったから……違う、そうじゃない。私の中の何かが否定している。
何か大切なことを忘れてしまった。学校を休んででも、優先したかった何かが。
いいや、それだけじゃない。休んでいた間だけでない、私の中にあった、何か大きな熱も消えてしまっていた。
嚶鳴高校に入学したのも、兄さんが通っているというだけじゃない、何か確固たる理由があった筈なんだ。そして入学してから毎日、ずっと何かを考え、何かに怯え、葛藤して……その筈だったのに。
数か月分、下手したらそれ以上育てられてきた筈の熱が行き場を失って、気を緩めた瞬間に涙になって込み上げてくる。どうして、大切な筈だったのに、どうして私は忘れてしまったの?
怖かった。これまで生きてきた15年間が、何も出来なかったかつての私のように後悔に代わってしまう気がして……昨日は必死に平静を装って学校に行った。それでも気持ちは晴れなくて、友達の幽ちゃんと話していても作り笑顔を浮かべていて……家に帰ってまた泣いた。
そこからのことはあまり覚えていない。晩御飯を作って、兄さんと少し会話して、気が付いたら寝て、夢を見て……
「思い、出して」
そうだ、夢の中で私は、そう言った。
思い出す……そうだ、忘れてしまった何かを、私は思い出さなくちゃいけない。けれど、どうやって? 何を忘れたのかも分からないのに。
「そうだ……絵……」
起き上がって電気を付け、パジャマのまま机の引き出しを開ける。そこにはスケッチブックがしまってあった。辛い事、嬉しい事、何か思い至った時に私はよく絵を描いた。もしかしたらそこに何か描いているかもしれない。
スケッチブックを開くと、かつて私自身が描いた鉛筆画が幾つも描き込まれていた。覚えているものはいいんだ。何か、私の描いた覚えが無い絵があれば……
「あ……」
スケッチブックの最後の絵を見て、声が漏れた。
知らない絵が描いてあった。筆跡から私が描いたと分かる絵が。ただ、その絵は……
「ない」
これは誰かの似顔絵だ。
「ない、ない……」
けれど、無い。
「なんで、ないの。なんで、なんで……」
その絵に顔は無かった。その人の顔は、消されていた。
何度も描いて、何度も消したんだ。その跡が残っている。私は、この人を何度も何度も形に残そうとしたんだ。それなのに、納得できなかった。きっと私の腕ではその人を表現しきれなくて、それでも何度も描こうとしたんだ。
絵の表面を撫でると、知らない私の葛藤が胸に流れ込んできて、引っ込みかけていた涙がまた溢れてくる。
「この人、なの?」
私に向けたその質問に私は答えられない。ただ苦しみがこみ上げてくるだけだ。
――ピピピピッ
「っ!」
突然鳴ったケータイのアラームで我に返った。
起きる時間……そうだ、ご飯、用意しなきゃ。休んでいた間も料理だけは欠かさずやってきたんだから。
ようやく掴んだ手掛かりが、私にその忘れた何かを思い出すことは出来ないと言ってきている気がして、逃げるようにスケッチブックを机にしまい込んだ。
「忘れた……ってことは、忘れた方がいいことだったのかな」
違う、と私の心が反発する。それでも、どうすればいいの? 描きかけの、自分の描いた似顔絵を見ても、忘れた何かが人だったのかどうかさえ確信が持てない。
きっと私自身、忘れたかったことなんだ。苦しくて涙が溢れてたまらないのは私が弱いから。こんなことじゃ、あの人にも呆れられちゃう。
「よし……」
気持ちを切り替えてご飯の用意をしようと意気込むために出した私の声は、自分でも目を背けたくなるくらい弱々しいものだった。
◇
涙ですっかり腫れたまぶたは、かつて友達に勧められて買った伊達メガネで誤魔化した。家を出る時前に化粧で誤魔化して、うん、これなら目立たない。
鏡に向かって笑顔を浮かべる。ぎこちないけれど、でも大丈夫、笑えてる。
「よし、忘れ物は無い……あ」
つい独り言を呟きながら登校の準備をしていると、テーブルに置きっぱなしの弁当箱を見つけた。
「兄さん、忘れていったな……」
兄とは特別仲が良いわけじゃないし、紬さんにも悪いから登校時間をずらしているけれど、たまにこういうことがある。
「仕方ないなぁ、今から少し急げば下駄箱で捕まるかも」
はぁ、とため息を漏らす。けれど、登校中、このことを考えていれば物思いにふける心配は無い。そう思えばプラスかも。
「行ってきます」
誰もいない家に、お世辞にも元気があるとは言えない私の声が響いた。その声にまた胸が苦しくなって、急いで家を出た。
早く切り替えなきゃ……そう思っても、まるで全て忘れて立ち直る自分が想像出来なかった。
そんな気持ちのまま通学路を歩いて、やっぱり気持ちは回復してくれない。忘れたことを一日考えて、漸く見つけた筈の手がかりも空振りで……昨日よりもひどくなっている。
「休んだ方が良かったかな……」
学校に着いてからそんな独り言を呟いてしまう。そのことに自分で苦笑した。
「そうだ、兄さんに弁当届けないと……」
自分の中の感情を誤魔化すようにそう呟いて2年の下駄箱に向かって歩きだす。
すると、もう少しのところで兄さんの声が聞こえてきた。良かった、追いついたみたいだ。
「あ、兄さん」
下駄箱にいた兄さんに声を掛ける。うん、大丈夫。いつも通りに喋れてる。これなら心中を察されることも無いだろう。
「ん? 光、どうしたんだ?」
「兄さん弁当忘れていったから」
何も気が付いていない兄さんに呆れつつ弁当を渡す……その時、
「あ……」
その人が、視界に入った。
兄さんの、友達? 別に変なことじゃない筈だ。それなのに、何故か、目が離せない。どうして、今までこんなこと、無かったのに。
「光?」
「……ううん、なんでもない。友達と一緒のところごめんなさい」
兄の声に、思わずそう返して慌ててその場を離れた。吐き出した声は少し早口でほんの僅かに裏返ってしまって。
「どうして……?」
逃げるようにその場を離れた後も、何故かバクバクと心臓が跳ねるのは止められそうになかった。
次回からはまた主人公視点です!