第33話 椚木鋼に綾瀬光が惚れていいわけがない
スマホが震えた。
この定期報告にもすっかり慣れたはずだが、今日は少し指が震えた。
「もしもし」
『こんばんは、先輩』
「ああ、こんばんは」
電話越しの綾瀬の声はいつも通りだった。
「お前、今日も来なかったな」
『……だって』
拗ねるような声を出す綾瀬。ぐちぐち言い訳を始めるかと思いきや、そのまま止まってしまう。
「……しょうがない。テストしてやる」
『テスト、ですか?』
「この間、会った公園があるだろ? 青葉公園? そこに来い」
『え?』
「今朝なんてわざわざお前の家まで見に行ってやったんだぜ。もう骨折り損は嫌だからな」
『そうだったんですか!?』
「じゃ、そういうことで」
驚いた様子の綾瀬をよそに、一方的に電話を切ると、俺は大きく息を吐き出した。
俺はもう既に、青葉公園まで来ていた。古臭いガス灯をボーっと見つめながら、あの時のベンチに腰を下ろして、ただその時を待つ。
柄にもなく、緊張しているようだった。その理由は多分いくつかある。
数分、ものの数分だった。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をした、パジャマに一枚羽織った程度の綾瀬が青葉公園に現れた。
綾瀬は俺を見つけると僅かに顔を綻ばせて、それでもすぐに怒ったように顔を引き締めてこちらに駆けてきた。
「先輩、急に、呼び出すなんて」
「お疲れさん、はい、水」
予め買っておいたペットボトルを差し出す。綾瀬はそれを受け取り、僅かに飲んだ後、口をへの字に曲げた。
「これ、スポーツドリンクですよね」
「問題無いだろ。むしろ運動の後のケアとしては手厚いだろ。ただの水だと思ったら実はスポドリでしたなんて棚から牡丹餅的な嬉しさあるだろ?」
「最初からスポーツドリンクだって言って渡してくれればいいんですよ。やっぱり先輩って捻くれてますね」
「おい、俺ほど正直で誠実な奴もいないだろ」
綾瀬は俺の言葉に呆れたように肩を竦め、隣に腰を下ろす。どうでもいいけれど、近い。肩と肩が触れるというか、完全に腕と腕とが密着する距離だ。満員電車感がある。
走ってきて上気した空気が俺にも伝わってくるようで、少し蒸す心地悪さがある。
「暑いだろ」
「……熱いです」
だったら離れればいいのに……と思いつつ、俺は俺で水を口に含んだ。もうすっかり初夏だが今夜は少し冷え込んでいる。別に癇癪を起こすほどじゃない。
「しかし、もう外に出るのは大丈夫か?」
「随分と落ち着いては来ました。あんな人、早々現れるものじゃないと思いますし」
「そうだな」
意外と綾瀬は大丈夫そうだった。これなら別にこのままでも……
「それに、先輩が守ってくれますから」
「へ」
「今日もこの間も、先輩がいると思ったから多分、大丈夫なんです」
そうニッコリと笑った。
――コウさんがいるから、安心できるんでしょうか
ふと、彼女がダブる。いや、ずっとそうだった。綾瀬にも、快人にも……俺は。
「俺は、そんなに強くない」
「強いとか、弱いとか、そういうんじゃないです」
綾瀬はそう言って空を見上げる。
「私にとって兄は親代わりでした。両親は健在ですが、殆ど仕事漬けで今は海外……兄は私を守るためって、色々と無理してて、それが嫌だったんです」
我儘ですけどね、と苦笑する綾瀬に俺は何も言い返さなかった。
俺と会う前、いや会った頃か、快人はどこか疲れた様子だった。そこもまた、アイツに重なって、俺が何とかしなきゃって思ったんだ。
「でも、嚶鳴高校に入って兄は変わりました。やっぱり私のことは第一に考えてくれていますけど、それでも明るくなって、よく学校の話をしてくれます」
「そうか」
「一番話してくれたのは、鋼先輩のことですよ」
ニッコリと笑う綾瀬。ガス灯の光に照らされたその頬に薄っすらと赤みがさしている。
「私も兄も友達が少なかったですから。紬ちゃんは幼馴染だから特別仲が良かったというのはありますけど……だから、同性で同い年の友達が良いものだって教えたかったんだと思います」
「なんか、気恥ずかしいなぁ」
「全くですよ、もう。先輩の話ばかり聞いたせいで、私も会ったことも無いのに先輩のこと色々と詳しくなったというか……いつの間にか気になっていたというか」
兄づてに聞いて……か。
「こんな話されたら、困ります?」
「どう……かな」
困るか困らないかと言えば、困る。実際困っている。それでも、この言葉を遮ることは出来ない。
「嘘だって思うかもしれないですけど、初めて会った時、私、先輩があの椚木鋼先輩なんじゃないかって思ってたんですよ。名前を聞いたら兄の名前名乗りましたけどね」
「そいつは、悪かったと思ってる」
「それは私が綾瀬快人の妹だから、ですか?」
「それは……そうかな」
もしも彼女があらかじめ綾瀬光だと知っていれば、勿論綾瀬快人なんて名乗らなかった。けれど、椚木鋼とも名乗らなかっただろう。そういう意味では、彼女を出来るだけ知ろうとしなかった俺の落ち度か。
たらればの話なんて意味が無い。意味は無いが、思わずにはいられない。もしも俺が俺でなくて、彼女が彼女じゃなかったら……なんて。
「先輩がこうして気を遣ってくれるのも、私が綾瀬快人の妹だからですか?」
言葉に窮する。
こういう時は即断即決を常とする俺もやはりまごついてしまう。
視界でパチッとガス灯が瞬いた。
思い出すのは先の、三倉佳奈子であったり、香月怜南だった。
俺が傷ついた三倉に声を掛けなかったのは、いやそもそも彼女を傷つけてもいいと思ったのは、彼女が綾瀬を虐めていた悪だったからだろうか。だが、たかが無視なんて、吊るし上げて断罪するほどのことじゃない。仮にエスカレートする可能性があっても、蓮華の手を煩わせてまで急いで強引に排除する必要は無かったかもしれない。
などと思うのは、香月怜南が快人を諦めたという話を聞いたからだろうか。形こそ、経緯こそ違えど二人とも同じ失恋をした。香月が恋を諦めたことを先に知っていたら、俺は三倉にああはしなかったのだろうか……
いや、しただろうな、俺は。目的の為なら、どうだっていいと割り切っただろう。
俺はどうしてこうなんだろう。普通ならあるべきブレーキみたいなものが壊れてしまって……いや、元々付いていないのかも。
「先輩?」
綾瀬が声を掛けてくる。つい考え事をしてしまっていたようだ。
「ええと、なんだっけ」
「……いいです」
どうやら怒らせたらしい……と少し気になるということは、やっぱり三倉と綾瀬は違う。
では、香月はどうだ? 桐生は、蓮華は、快人は。古藤は、好木は、大門先生は。俺は。
俺は、誰なら傷つけてよくて、誰はいけないと判断してる。
「綾瀬は、友達は出来たのか?」
「えっ?」
「さっき言ったろ、快人が同性の、同い年の友達はいいってプレゼンしてくるーって」
「……出来ましたよ、幽ちゃん。まだ一人だけですけど」
「好木のことは好きか? ああ、ダジャレではなく」
「ダジャレ?」
首を傾げる綾瀬。言わなきゃよかった。
「幽ちゃんのことは、好きですよ。幽ちゃんは内弁慶というか気を許した人以外には口数も少なくて大人しくて……でもその分私と一緒の時は凄く元気で可愛くて、小動物みたいで……ちょっと羨ましいんです。私には、そういう可愛げは無いから」
意外……でもないかも。常に兄に守られてそれが気になって、無視なんて空気も気になるような繊細な彼女にとって、状況によっては図々しくもなれる好木の姿は羨ましく映るのかもな。
「そんなこと、無いんじゃないの」
「そうですか?」
「ああ……人の良さってのは、いっしょくたには出来ないもんだろ」
多分。
「そうでしょうか……」
「そうじゃなきゃ俺なんて何の取柄も無いぜ。あるのは……」
椚木鋼というブランドだけだ。
「先輩はいいところ沢山ありますよ!」
「そう……か?」
「例えば」
「いや、いい。面と向かっても恥ずかしいっていうか、言わせている感じがしてきっと正直に受け入れられない」
「捻くれてますね、やっぱり」
呆れたように笑う綾瀬の雰囲気はリラックスするように緩んでいるようだった。
「じゃあ、先輩、一言だけ」
「一言?」
綾瀬が立ち上がる。その時にさりげなく俺の手を握って。
俺の左手を綾瀬は右手と、それに左手を添えるように握りこみ、真っ直ぐに俺の顔を見てきた。そんな彼女をそのまま見つめ返す形になった。
「鋼先輩のこと、私は好きです」
「好き?」
「話した時間が僅かだとしても、……大好きです」
顔を真っ赤にして、綾瀬はそう、告白した。
瞬間、込み上げてくるものは。ああ、最初に快人の家で彼女と対面した時と同じものだ。
俺は彼女を通して思い出していたんだ、彼女を。彼女の恋心を。彼女の死を。それが俺の中でトラウマになって、注意喚起をしていたのだろう。
お前は、また繰り返すのかと。
それが今、はっきりと、分かった。
違う、繰り返すつもりは無い。俺は、守りたいんだ。光を、快人を。今度こそ……
「たく……本当に、同じことを言う」
「え……?」
「綾瀬……光は似てるんだ。俺の、知り合いに」
似ている、じゃない。同じだ。
俺の心が、記憶が、そう認めてしまっている。
「俺は、好きって気持ちがあまり分からない」
「え?」
だから、この先もきっと変わらない。彼女が彼女で、あいつがあいつなら、俺が俺でいる限り、あの兄妹は不幸で居続けるんだろう。
そんなはずはない。ここには敵なんて存在しない。それなのに、どうしてこう、同じなんだ。
「告白が叶った嬉しさと、失恋した悲しさと、どちらの方が心に残るものなんだろう」
「鋼、先輩?」
彼女から視線を逸らすように空を見上げても、星も碌に見えはしない。広がっているのはどこか澱んだ暗闇だけだ。俺を飲み込もうとしてもくれない、気持ちの悪い闇。
ぴくり、と俺を掴む光の手が震えた。
「きゃっ!?」
もう、どちらでもいい。どうせ感情が動いてしまうなら、跡が残ってしまうのならば、答えなど必要無い。
俺は俺を掴む光の手を掴み返し、引っ張った。華奢な光はその勢いのまま俺の胸に収まって、俺はそんな光の頭を空いている右手で抱く。
「せ、せせ、せんぱい……!?」
「光、俺は魔法使いなんだ」
「え……?」
「今から俺の魔法で、お前の中のトラウマを消し去ってやる」
椚木鋼の三大奥義が最後の必殺技……などと、大袈裟にいうものではなく、俺の中に残ってしまった欠陥。
「消えるのは、トラウマだけじゃないけどな」
もしも、俺が主人公だったら。もっと素敵な選択が出来たのだろう。ハッピーエンドを掴めたのだろう。
あいつらはズルい。思い悩まずとも、二股、三股を自然に成立させて上手くいかせるのだから。俺なんて、たったの一人も、幸せに出来ないのに。
結局、碌に親友モブにさえなり切れなかった俺、そしてハーレムラブコメの主人公じゃなかったかもしれない快人……そんな前提が崩れたとしても。
椚木鋼に綾瀬光が惚れていいわけがない。
それが俺の中の答えならば。
「あ……」
俺の右手から淡い光が漏れた。
光の目から光が消えたように虚ろな表情へと変わった。
頭がクラクラする。力が抜け、滑り落ちそうになった光の手を必死で握り、胸からこみ上げてくるものを喉で強く押さえつけ。
俺は壊した。トラウマとなり彼女の中に住み着いた露出狂の変態を、そしてヒーローとして彼女を救った俺を。そこから連鎖的に紐づく、俺との思い出を。
これは忘却の魔法。
俺を生み出し、この世界に来て殆どの能力を失った俺に残された数少ないチカラ、呪い。
この世界の理を無視し、力任せに蹂躙するこのペテンで、俺は非情に、綾瀬光という無垢な少女の恋心を殺した。その感覚を、確かに俺の右手に残して。
次回は追想です。(閑話とは違うと今更気がつき修正しました)




