第14話 桐生大樹
桐生は勉強机の引き出しから一枚の写真を取り出した。
そこには微笑みを浮かべる桐生と一人の笑顔の少年が写っている。
少し古い写真だ。アルバムの頃よりは成長していたが、今よりは幼い。中学生入りたてくらいだろうか。
桐生と一緒に映っている、おそらく彼が大樹くんなのだろうが、彼は写真越しに見てもどこか儚げに見えた。
「大樹は生まれつき体が弱くて、あまり学校にも行けていなかったわ。それで学校に行っても中々友達が出来なくて」
当時、桐生姉弟はそろって同じ悩みを抱いていたらしい。
学校という組織は交友関係が全てと言っていい。子どもは容赦ないから、苛めとか本当に無自覚にやってしまう。
小学校において交友関係をプラスに持っていきやすいのは、活発な性格とか足の速さとか腕っぷしの強さなどで、頭が良かったり体が弱いなんて言うのは攻撃の対象にされやすいという。
全部、本の受け売りだが、桐生姉弟は後者だったのだろう。
「苦労していたんだな……」
「そうでもないわよ」
「そうなのか?」
「貴方がいたからね」
桐生が小さく微笑む。
だがどうしてそこで俺が出てくるのかさっぱり分からない。
「弟くんとは学年違うだろ」
「ええ私たちの一つ下。でも、私たちの小学校には集団下校っていう制度があったの。家が近い一年生と二年生がペアになって一緒に帰るっていうね」
「へぇ……」
「それで、貴方と大樹がペアだった。大樹は貴方のことをとても面白いお兄ちゃんだって言ってたのよ。家に帰ると貴方の話ばかりするんだから。おかげで学校に行くのも楽しかったみたい」
何だそれ、カッコイイじゃないか、かつての俺。
「集団下校でよっぽど楽しかったんでしょうね。多分大樹がお願いしたんだろうけど、いつからか、貴方は朝も大樹を迎えに来るようになったわ。体調が優れなくて学校に行けないときは私と二人で登校してたけど、大樹が行ける時は3人仲良く通学路を歩いたものだわ」
「それは……悪い、思い出せなくて」
「そう……」
桐生はそう声のトーンを落として呟く。
「今、大樹がどうなったかは聞かないのね」
「それは……なんとなく察してる。……聞いてもいいのか?」
「……3年前、体調が悪化して、そのまま……」
「そっか……」
桐生が「家に誰もいない」と言ったこと、そして弟がいるという話から、推測しつつ、写真を見て確信していた。しかし、改めて聞くとどうしていいか分からない。
「大樹にとって、貴方との思い出が家族とのもの以外では全てだったのよ。貴方が突然いなくなってから、大樹も殆ど学校に行けなくなってしまったから」
「いなくなった……」
「貴方は、夏休み直前で姿を消した。夏休み中も遊ぼうって大樹と、私と約束をしてそれっきり。転校届けも出していなかったから、一家心中なんて噂もあったのよ」
本当に覚えていないの? という桐生の言葉はどうやら俺を責めているようだった。
だが俺も、消えたなんてことは覚えていないし、両親の顔さえ思い出せないのだ。
首を横に振って答える俺に、桐生は顔を伏せた。
「私、貴方に憧れてた。小学生の頃の貴方は、賑やかで、面白くて、リーダーシップがあって、私や大樹だけじゃない、沢山の人に慕われていたの」
「そうだったのか」
「だから、今の貴方は嫌い」
嫌い、という言葉が胸に刺さったのは、上げて落とされたからだろうか。それとも、一切の遠慮も嘘も無い、むき出しの感情をぶつけられたからだろうか。
ただの敵意ではない、失望と苦しみと悲しみとが綯い交ぜになったような感情をぶつけられたからだろうか。
「入学式で見つけた時、一目で貴方だって分かった。でも、何処か空虚で、死人みたいだって思って、どうして貴方は生きているのにそんな風になっているんだって、ぶん殴りたくなって」
どうにもならない感情が溢れだしそうになっているのを、桐生は必死に堪えていた。
俺は、桐生のそんな姿を見るのは初めてだ。小学生の俺はこんな彼女を知っていたのだろうか。
少なくとも高校入学当時、俺と桐生は1年次は違うクラスだったから、彼女からそんな感情をぶつけられているなんて思いもしなかった。
「少し経って、次見た時には、貴方は貼り付けたような作り笑顔を浮かべていて……私が、大樹が慕っていた貴方はそんなんじゃ無かったのに」
そうか、昔の俺はきっと本心から笑えていたんだろう。それを知っている人が見れば、今の俺は歪に映ってしまっているのか。
「問いただそうと思って一度会いに行ったわ。そしたら貴方、『初めまして』って言ったのよ? ふざけるなって思った。私が名前を名乗っても首を傾げてた。自分は椚木鋼って名乗っているくせに!」
彼女が声を掛けてきたことは覚えている。何で彼女みたいな美人が俺に? と不審がったものだ。
あれは確か入学してから半年くらいのことだった。その時にはもう俺は快人の親友キャラで、快人がどこかでフラグを立てていたから、桐生は俺をダシにして近づこうとしているのだと思っていた。
それから桐生が事あるごとにつっかかって来るようになったのも同じだと思っていたけれど、それは勝手な勘違いだった。
俺がそう思いたかっただけで、桐生は最初から俺だったんだ。快人は関係無く、ただ単純に俺が嫌いだったんだ。
「ごめん」
そう言うしかなかった。でもこれは謝罪になっていない。ただ言っただけだ。
俺は桐生のことも、大樹君のことも何も思い出してはいない。何故これほどまでに敵意を向けられることになったのかその反省さえ出来ない。
桐生から聞く俺の昔話もまるで他人事のように感じている自分がいる。
それは記憶喪失がどうとかじゃない。桐生も感じ取っている、俺の欠陥がそうさせるのだ。
「記憶喪失なんて……どうして忘れてしまったのよ! 大樹は、私たち家族と、貴方の中でしか生きていられなかったのに……ねぇ、お願い、思い出して……。理不尽なのは分かってる、勝手だって思う。けれど、貴方が思い出してくれなかったら……大樹が、大樹が本当に死んじゃう……」
「桐生……」
桐生は泣いていた。だけど、それに対して掛けれる言葉が見つからない。
俺は彼女の求める椚木鋼じゃない。
その場しのぎの嘘を付けばいい、そう思っても、言葉は出てこなかった。
桐生は黙ったままの俺を見て、苦しそうに涙を流し続ける。真っ直ぐ見つめてくる彼女を見返すのが気まずくて、俺は目を逸らした。
「……私、最初嬉しかった。高校に入って、貴方を見つけて……そりゃあ突然いなくなったことは釈然としないし、ムカついていたけれど……でも、貴方は数少ない大樹を知っている人だったから。そう、思っていたから」
桐生はそう言って、感情を押し殺すように言った。
「でも、それは違ったのね。彼は、私たちが大好きだった椚木鋼はもういないんだわ……」
俺は逃げるように桐生家を後にした。どういう会話をして帰路に至ったのか、そんなつい先ほどのことも思い出せないくらい、桐生の言葉が頭の中でぐちゃぐちゃに回っていた。
桐生はどんな気持ちで、今まで高校に通っていたんだろう。どういう気持ちで俺を見ていたんだろう。どういう気持ちでハンバーガーを食べていたんだろう。
どういう気持ちで、俺に大樹君のことを話したのだろう。
もしも桐生の言う通り彼女に入学式に殴られていたら、もしも1年生の時桐生と同じクラスだったら、今とは違う現在があったのだろうか。などと思ってみるが、きっと何も変わらないだろう。
「どうして忘れちゃったの、か……」
もし記憶を失った理由、話せば桐生は納得するだろうか。いや、
「そうしたら、今度こそ殴られるかもな。作り話で誤魔化すなって」
どんなに言い訳をしても、俺が記憶を無くした、いや、捨てたのは完全に自業自得だ。俺は俺のためだけに記憶を捨てた。それは正しい選択だと思っていた。誰かを傷つけるなんて考えもしなかった。
だけど、その選択が桐生を苦しめている。無駄に希望を抱かせ、失望させた。下手に記憶喪失なんて言って、俺に過失が無いかのようにして、責めづらくさせた。
桐生には俺を糾弾する権利がある。なのに、もしかしたら桐生は俺に言葉をぶつけたことで、自分を責めてしまっているかもしれない。
「本当に俺は最低なクズ野郎だ」
結局、俺は人を不幸にすることしかできないのかもしれない。
小学生の俺が羨ましいよ。俺が今したいこと、頑張ってやろうと思っていることを自然に出来ていたんだもんな。
「なぁ、アレクシオン、エレナ、どうしてお前らは、俺なんかを……」
ふとポケットのスマホが震えた。
俺は蘇ってきた感情から逃げるように電話を取った。誰からの着信かということさえ気にもせず。
頭の中でぐちゃぐちゃと渦巻いていたものを全て無理やり奥底に押し込んで、俺は、俺が理想とする、主人公の親友モブである馬鹿で、明るくて、小さくて、プライドだけはいっちょ前で、ヘラヘラ笑っているいつもの「椚木鋼」に戻ろうと努めながら、言葉を絞り出した。
「もしもし」
それでも、そう簡単に戻れるはずもなく、吐き出した声は自分でも分かるほど固い。
『やっと出ましたね。先輩』
眩暈にも似た気持ちの悪い感覚の中で耳に響いたその声はつい最近知ったばかりの少女のものだった。
「お前、綾瀬……?」
『そうですよ。先輩の可愛い後輩である綾瀬光ちゃんです』
綾瀬はおどけたようにそう言って、
『……』
そう僅かな、思考するような沈黙の後、
『先輩、今から会えませんか?』
真剣な声色で、
『デートしましょう。椚木鋼先輩』
そう、言った。