第116話 去る者がいれば、来る者もいる
鋼がいなくなって1か月ほど経つ。今日は夏休み最期の日だ。
――どうしてまだ外はクソ暑いのに夏休みは終わるんだろうなぁ……夏休みなんて言うんだから暑い間は休みにしてくれりゃあいいのにさ。
去年の夏が終わる時、鋼はこの部屋でテーブルに身体を倒しながら、そんな風にぼやきながら溜めに溜めた宿題を自分のノートに写していた。
それを苦笑しつつ観察していた僕が、夏休みが長くなればその分宿題も多くなるよって言ったら黙ったけれど、でも不満は尽きなかったみたいで、
――こうなりゃ来年はさっさと宿題を片付けて思う存分遊び倒すぞぉ! あっ、でも快人はその頃には抜け駆けして熱い夏を堪能しているかも しれないけどさ。
そんな風に楽しそうに言ったんだ。
僕はそれを聞いて、後半はともかく前半を果たすこと無く、彼はまた宿題を忘れて遊び倒した挙句最終日にまたひぃひぃ言うのだろうと予感していた。
確かにそれは半分当たった。彼はこの夏、宿題をやりはしなかったけれど、ひぃひぃ言ってもいない。
ここにもいない。
彼は遠い世界へ行ってしまったのだから。
鋼から全てを聞いた後の週明け、空っぽになったまま結局終業式まで埋まることのなかった空席はそれを如実に教えてくれた。
僕ら、といっても僕以外はみんな女子だけれど、光や紬や、鏡花や蓮華さん、幽ちゃんや怜南……鋼と親交のあったみんなはこの夏、暇な時はよく集まって一緒に遊んだ。
きっと色々思惑はあったと思う。鋼がいなくなって寂しいからだとか、いなくなったあいつへの当てつけとか、もしかしたら寂しがってどっかから出て来るかもしれないとか……後は単純に暇で、みんな折角仲良くなれたからとか。
海にも山にも川にも、バーベキューにキャンプファイヤー、夏祭りに花火大会。
夏っぽいことは大体やった。それぞれの理由で皆勤賞は誰もいなかったけれど、それでも僕らなりに精一杯夏を満喫してやった。
さぞ、鋼が悔しがるだろうなんて話しながら。
けれど、やはりここに彼はいない。
元々いたのだって去年だけだ。一昨年もその前も、その頃の僕は彼のことを知りもしなかったのに。
それでも、胸に空いた穴はとても大きかった。
◆
「おはよう、綾瀬君、古藤さん」
「おはよう、鏡花」
「おっはよー、きょうちゃん!」
二学期最初の日、僕らは特に示し合わせることなく、教室で挨拶を交わす。
周りでは久しぶりとか、どこ行ったとかそんな会話が交わされているけれど、僕らの場合殆ど互いに何をしていたか分かっているので不思議な感じだ。
「改めてだけどみんな焼けたねー」
「今更ね。散々アウトドアを満喫したから」
「制服を通すと余計実感するものだよ、きょうちゃん。しかし美人は美白を失っても美人ですなぁ」
「おっさんくさいよ、紬」
ニヤニヤと頬を緩めながら鏡花の全身を隈無く眺める紬。そんな彼女に鏡花は深々と溜め息を返す。
「本当に元気ね、古藤さん」
「勿論! 今までは二学期なんて鬱鬱鬱~っ! って感じだったけど、今回は早々に宿題を終わらせてたからね! 本当に夏休み終わったの? 追い込みしてないけど大丈夫? って感じ! あーあ、くぬぎっちがいたら思いっきり自慢してやったのに!」
そんな紬の言葉に鏡花が、そして僕も少し重たい空気になってしまう。
夏休み明け、もしかしたらと淡い期待を抱きもしたものだけど、やはり彼の姿はない。次々と席が埋まっていく中で、彼の席だけがポツンと浮いている。
「そんなに、大変なのかな。その、くぬぎっちのアレって」
「想像も付かないけれど……」
鏡花は苦しげに俯いた。
鋼と鏡花は幼なじみで、しかし鋼はそんな鏡花と過ごした時間の記憶を失っていると聞いた。
それが鏡花にとってどれだけつらいか……そして、鋼にとって記憶を失ってしまったほどの過酷な状況とは、言葉で聞いても肌身で感じることはできない。
鋼はそんな、かつての自分が死ぬほどの世界へ戻ってしまった。たった1ヶ月程度で戻ってこられるはずがないと、僕だって理解している。
それでも不安なんだ。もしも鋼が戻ってこなければそれは……。
僕らには鋼が帰ってきてくれる以外に彼の安否さえ知るすべがないんだ。
「全員座れ。ホームルームをするぞ」
大門先生が教室に入ってきて、僕と鏡花はそれぞれの席につき、紬は自分の教室に帰っていく。
「始業式前だが、転入生を紹介する」
そんな先生の言葉に教室が沸き立った。
勿論みんな鋼がいないことをもう知っているけれど、夏休みがあったのだ、もうそこに悲壮感なんてない。いつまでも引きずっているのは僕らくらいのものだろう。
こんな時でも考えるのは、もしも鋼がいれば一番に騒いだのだろうなんてことだし。
「先生、男子ですか女子ですか!」
「女子だ」
「美人ですか!」
「そういう質問は本人にしろ。入ってくれ」
先生が廊下の外に声をかける。はーい、と少し間延びした返事を返し、彼女は入ってきた。
歓声よりも先に溜め息が教室を満たす。勿論残念という意味では無く、本当に美しい芸術品を前にした時思わず呼吸を止めてしまった後の無意識の溜め息だ。
彼女は金色の長い髪をたなびかせ、優美に教壇まで歩く。
「エレナ・リジリーナです。こうしてみなさんと一緒に学校に通えるなんて、夢みたいです!」
日本人離れした、北欧系の顔立ちながら、全く不自然さのない流暢な日本語でそう名乗るエレナさん。
けれど、書くのは苦手なのか先生に指示された後は少し苦心しつつ、平仮名でお世辞にも綺麗とは言えないぐちゃっとした文字を黒板に描いていた。
「ええと、私は……あ、あそこの席に座ればいいのでしょうか?」
そうエレナさんが指したのはかつて鋼が座っていた空席だった。
「……いや、一番後ろにある席だ」
しかし先生は否定し、夏休み明けで最後列に追加されていた席を指す。
「そうですか。ふふっ、そうですか」
それを受けてエレナさんが何故か嬉しそうに笑う。そして指示された席に移動しようとして……しかし、当然みんなが黙っているわけも無く質問攻めに会うのだった。