第98話 勇者の意地
例えるなら、隠していた0点の答案が母親に見つかった気分というべきか。鏡花の凄みに押され、胡座から正座に切り替えた俺の脊髄反射を褒めてやりたいぜ。
とはいえ、先に蓮華らとやり取りをした一件を踏まえれば、このまま沈黙を保ち沈静化を願うなんてことが不可能ということは俺が一番分かっていた。
俺は意を決し、一度深く息を吸った後、口を開いた。
「実は学校を辞めることにした。ここも今週には出る予定でさ」
何も気が付いていないならいざ知らず、鏡花が踏み込んできた時点でこちらから話すのが筋だろう。けれど、どうにも、やはり、こういう説明みたいなものは難しい。
本当はもっと自然に、回りくどく、オブラートに包んで言うのだろうけれど。
「……」
鏡花は言葉を返してこない。続く説明を待つように、僅かに俯いていた。当然表情は明るいものでなくちゃぶ台で隠れているものの肩に力が入っていることから、握り拳を固めているのが分かる。
「理由は……“前回”と殆ど同じだ」
堅気の鏡花に異世界云々の話をするべきではない。しても頭がおかしいと思われるだけだろうし。ただ、前回、小学生の頃の失踪と同じといえば彼女には伝わるだろうと期待し前回と表現した。
「……」
あ、あれ?
何かしら返してくれると思っていたのだけれど、鏡花は変わらず沈黙を保ったままだった。
いや、変わらずというのは違う。目に見えない、肌をビリビリと焼くような怒気が放たれている。つまるところ鏡花は沈黙しながらもキレているみたいだ。
「つまり、そういうことなんだよなぁ、うん」
怒気を放つ彼女を前にここで説明を切り上げた俺の行為は相当の勇気を要するものだった。流石は元勇者。自信の強みとして勇気があるところと言っても良い程だ。
と、俺の勇者力が高まりを見せた直後、彼女が動いた。
膝立ちで前のめりに、ちゃぶ台越しに両手で俺の顔を挟む。逃げられないぞ、動いたら首ごと千切りとるぞ、みたいなプレッシャーを浴びせてきながら。
「全部話して」
「じぇじぇ、じぇんぶ?」
「全部、一から」
な、なんてプレッシャーだ……!?
RPGで「はい」と頷くまで延々引き留めループを掛けてくるNPCのように、絶対に逃がさないという凄味を感じさせる。
しかし、鏡花は0と1でプログラミングされたシステムではない。人間である以上、この行為にも限界がある。特に現在の体制的に膝と、俺の顔を押さえつける腕には筋力的な限界がある。相当無理をしているはずだ、それは遠くない……。
囚われの身でありながら、そんな下卑た逃避を頭が勝手に計算し始めたとき、俺の視界にあるものが映った。
ここは敢えてストレートに言う……おっぱいだ。
鏡花のおっぱいだ。当然服越しだ。
鏡花のおっぱいがちゃぶ台に付いている。さながらシーソーの土台の如く、てこの原理の支点の如く、彼女の重心を支えて見える。
いや、実際は触れている程度でそこに体重は掛かっていないのかもしれない。ブラフかもしれない。しかし、もしも彼女がそこに土台を築き、黄金長方形のパワーを引き出していたら……彼女に限界は……ない……?
むしろ、俺のちゃぶ台に生まれ変わりたいという欲望が爆発するのが先になるだろう。
「……分かった」
俺は諦めた。おっぱいが作用しているかいないか確かではないが、作用しているとき、おっぱい相手では分が悪い。そういう意味ではおっぱいを土俵に上げた鏡花の勝ち。決まり手は寄り切りといったところか。
「俺も男だ。潔く全てを語ろうと最初から思っていたんだ。鏡花には前も迷惑を掛けたわけだしな……」
「前置きはいいわ。どうせ誤魔化そうと考えていたんでしょう」
「そ、そんなわけ、ないじゃないですか~」
「動揺しすぎて棒読みになっているわよ」
「お、おれはいつも、こんなかんじじゃないですか~」
「早く本題に入りなさい」
全く潔くない俺に、鏡花はもはや手足のように自在に操りだしたプレッシャーを容赦なく叩き込んでくる。
俺は、自分の気持ちに整理を付けながら、バラバラと内情を話し始めた。鏡花にとっては全く初耳となる、非現実的な異世界の話も。
細かい思い出話はしないが、それでも要約「こことは違う剣と魔法の世界で勇者やってたよ」なんていう精神科案件を真面目に話すのはとても勇気の要ることだった。こればかりは勇者とか関係ないから。
「というわけで、俺はその世界に帰らなきゃならない……みたいな感じで」
既に鏡花の手は俺の顔から離れていた。彼女は俺から目を逸らし、苛立ちか悔しさか、そういった感情を滲ませながら俯いていた。
「……意味が分からない」
僅かな沈黙を経て、ポツリと、彼女は呟きを漏らした。
「いや、まあ、そうだよな。俺も何言ってんだって自分でも思うし。ゲーム脳かっていう」
「そうじゃないっ!」
あまりに荒唐無稽な話、という点ではないと鏡花は強く否定する。
「……信じるわ」
「え?」
「何かの創作に気触れたみたいな話だけれど、貴方が嘘を吐いているかどうかくらい分かるから」
本気なのか、それともブラフなのか、判断つかないが、俺は本当のことを言い彼女はそれを信じてくれた。
俺が口にしたことは俺にとって真実なのだから、そこに文句など生まれようがない。あくまで俺からは、だけれど。
「信じるからこそ、意味が分からない。どうして、そんな世界にまた行こうなんてなるのよ……」
「半生近くを過ごした場所なんだ、置いてきたものが沢山ある。お前と、その、記憶だってその一つだ」
「だったら思い出さなくていいっ!」
強く、膝の上で握り拳を固め、全身に力を込め、それでも溢れ出した涙が目尻から溢れだす。
「どうしてか分からない……分からないけれど、貴方がまた居なくなると思うだけで、胸が押し潰されるみたいに、苦しくなって……!」
「お、おい、お前いきなり……」
「いきなりなのはそっちでしょう!? 私はただ、心配で来ただけなのに、いきなり学校辞めるとか、いきなり異世界に行くとか聞かされて……でも」
鏡花が立ち上がり、見下ろしてくる。
「貴方に、どこにも行って欲しくない」
「鏡花……」
その真っ直ぐすぎる言葉に俺は呆気にとられた。本当に頭で整理が付いていない、だからこそ出てきてしまった本音と分かったから。
「名前……」
「え?」
「貴方に名前を呼ばれると、心臓が早くなる」
実際に鼓動を確かめるように鏡花は自分の胸に手を当てる。
「一緒にいると嬉しくて、離れていると寂しくて……いつからかは分からないけれど、気が付いたらそんな風に思うようになっていた……と思う、多分、きっと」
俺にというより、自分の中に確かめるように鏡花は言葉を紡いでいく。
しかし、正面で聞かされる俺は小っ恥ずかしいというか、どう反応するのが正解なのか分からない。
「な、なんか曖昧だな」
「仕方ないでしょう。自分の中に浮かんでる感情が何なのか、答えが浮かんでくるわけじゃないのだから」
俺の自分を守るため、というか現実逃避気味に放った軽口に対し、鏡花のは生真面目な回答だが、彼女らしいものだ。
鏡花は気まずそうにぼやくと、俺の隣りに来て、肩同士が当たるように体育座りに腰を降ろす。俺も胡座から咄嗟に体育座りに直す必要があったくらいには近い。
狭いワンルームの部屋に、更にせせこましく二人ぴったり肩を寄せて体育座りしているというのは、なんというか、変だ。けれど俺から離れてしまうと近付いてきた鏡花を拒絶しているみたいになってしまう。別に彼女を拒絶したい気持ちはない。
電気を付けていなかった部屋の中は外の日が沈むのと比例して薄暗くなっていく。
だからか余計にすぐ傍にある彼女の熱や存在を、俺は敏感に感じていた。




