第94話 ちなみにその紙の色は自治体によって異なるらしい
「蓮華」
びくっと彼女の肩が震えた。腕に込められた力が強くなる。
「俺は、帰る」
意外とすんなり言葉は出てきた。そして情けないことに、ずっと抱えていたものを吐き出せたからだろうか、俺の心は幾分か軽くなっていた。
「あの世界に帰る。そう、もう決めた」
「鋼、どうして……」
それでも勝手に軽くなってるのは俺だけだ。蓮華は余計に身体も声も強張らせていて、公輝さんも、冥渡も表情を歪めている。
「どうして帰るなんて……!」
「蓮華、それは」
「行く、じゃないんですか!?」
「えっ、そっち!?」
何故帰るのかという理由ではなく、言い方が引っかかっていたのか?
「そっちもどっちもありません!」
「いや、帰るも行くも、別に変に意識して言ってるわけじゃなくて」
「それが問題なんだ、鋼くん」
「え?」
公輝さんがとても厳しい口調で言う。
「君は意図せず、かつて居た世界へ帰ると言ったんだ。帰るべき場所がそちらであると」
「あ……」
「君は戻ってくる気がないんじゃないか。もう、この世界には」
「ち、違います! そんなつもりじゃない!」
「ではいつ戻るつもりだ?」
「う……」
言えなかった。分からないというのが答えだが、それを言えば公輝さんの言葉を認めることになる。
しかし沈黙は肯定を表すという。何も返せない時点で認めたようなものだ。
「君が学校を辞める、と担任教師に言ったと聞いた時、そんな予感がした。まるで海外に高飛びでもするかのように、自分のいた跡を消そうとしているような直感が」
「そんな、俺は別に」
「少しの期間ならこれから夏期休暇に入るのだから辞める必要などない。それ以上なら休学という手段もある。しかし君は辞めるという選択を、我々にも黙って取ろうとした。私や、蓮華が君を嚶鳴高校に入れた意図を思えば、葛藤もあっただろうに」
一切の反撃を許さない追及だった。自分の力で一企業を国のトップまで引き上げた人だ。言葉以外から伝わってくる圧が違う。身をピリピリと震えさせ、喉を締め上げるような、そんな息苦しさが纏わり付く。
「言えば、止められると思いました」
「現に止めている」
「ですが」
「しかしもう学校には宣言してしまった、か? だから止まれないと。君はこんな話を相談ではなく事後報告で済まそうとした訳だ」
そう、言われているとおりだ。俺は自分に楽な方に、もう話は進めてしまったのだから仕方がないという言い訳をつけて進めようとしていた。
そこに意図的か、そうでないかは関係がない。結果だけが重要なのだ。
「こんなことなら、妻や蓮華の言い分も聞くんだったな」
失望をも感じさせる声色に心臓が掴まれたような苦しさを覚えた。彼が本当にそう思ったかは分からない、ただの被害妄想かもしれない。俺には、分からない。
「今からでも遅くありません、お父様」
蓮華はそう言うと、スカートのポケットから折りたたまれた紙を取り出す。
「なんだそれ……えっ!?」
その内容を見て思わず身を仰け反らせた俺は椅子ごと床に倒れる。蓮華は器用に飛び降り転倒を回避、公輝さんは「まだ持っていたのか」と顔を覆う。冥渡は何がなんだか分からないといった様子だが、紙の内容を見れば俺と同じ反応になるだろう。
そういうものだ、これは。
「これを出せば正真正銘家族になります」
「ぶっ飛びすぎだ、それは!」
「はとこ同士は合法なので問題ありません」
「法の話どうこうじゃねぇ!!」
先程までの緊張感が吹っ飛ぶような事件に俺は腹の底から叫んでいた。
「家族同士になればおいそれと帰るだの何だの言えなくなるでしょう? それでも足りないなら別の家族も……」
「本当に何言ってんだお前は!?」
「鋼は私では不満ですか? 愛していると言ってくれたじゃありませんか」
「それはアレでですね……」
「困ったらアレとかソレとか言う癖、別になにも誤魔化せていませんから」
マジかよ。盲点だわ。俺はアレとソレで全て乗り越えてきたのに。
「さあ受け入れてください。もしも受け入れれば一日中寝てても一日三食でも四食でも出てきてスマホゲームも課金し放題ですよ?」
「そりゃもう生きているのか死んでるのか分からねぇな……」
これを見せられている公輝さんはどんな気分でいるのか、気になってしまう。いや、それも逃げ癖がそうさせるのか。
「蓮華、情けないと思われるかもしれないけど、その申し出には答えられない」
「っ……」
「断るとかじゃない。今はまだ回答できないってことだ。勘違いするなよ!?」
ツンデレですか、と冥渡が呟く。うっさい!
「答えられない……だから、俺はあの世界に帰るんだ」
蓮華のことだけじゃない。他の、この世界で出会った人達に向き合うために。
たとえ、あちらで死んで二度と戻って来られないリスクがあるとしても。
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